第395話 朝靄の向こう

 一旦、アエネアスによって後方に退けられていたセルウィリアは潜龍坡での戦に王師が勝利し、敵を大きく追撃していると聞いて安心したのか、暢気のんきに馬車で有斗のいる本営にやってきて、アエネアスに大いに呆れられた。

「セルウィリア」

 嫌そうなアエネアスの顔も一切無視して、侍女にテキパキと指示しながら陣幕内に有斗の寝所を嬉々としてつくり@あげるセルウィリアに有斗は声をかける。

「なんでしょうか?」

「その・・・セルウィリアたちはやっぱり王都に帰るべきじゃないかな?」

 戦場は気の荒い兵士たちが殺気立ってるのだ。セルウィリアたちの身になにか間違いがあったら取り返しがつかない。

 それに実態はどうあれ、兵たちは王が戦場に女を連れてきてると見るだろう。

 それを言ったらアエネアスもだが、アエネアスはまだ羽林将軍である。王の側にいるだけの十分な理由がある。だが官位も役職も無い、只の女であるセルウィリアでは話は別だ。下のものに示しがつかないどころではない。軍規に関わる問題だ。

「昔、陛下が関西わたくしをお攻めになったとき、アリアボネと呼ばれる方が軍に同行していたではないですか。陛下の助けとなって、その後亡くなられたとか聞いております。その話は今は美談として巷間に語られています。であればわたくしが従軍しても何の問題もありませんわ」

 アリアボネは戦において素人だった有斗を支えるために軍師として従軍していた。そしてそのことは軍中では誰もが知っていた。戦においてなんら果たすべき役割が無いセルウィリアとは理由わけが違うのである。

「負けたときのことを考えたことがある?」

「いいえ。でも今度の戦はもう決着がついたも同然だ。明日はただ軍を前に進めるだけでいい、とステロベが言っておりましたよ」

「数の上ではね・・・戦は何がおこるかわからない。万が一ということもある。僕はアエネアスですら戦場におくのは本当は反対なんだ。負ければどうなるか・・・味方の兵士すら裏切って君に襲い掛かるかもしれない。それを考えると、やっぱり明日、戦が始まる前に後方に退いたほうがいい」

「あら、嬉しい♪ わたくしのことを心配してくださるのですね♪」

 有斗は命だとか貞節だとかに関わる真面目な話をしているのに、セルウィリアはどこかおどけたような芝居じみた反応を返した。

「でも・・・大丈夫です。なにしろ、こちらには陛下がいらっしゃるのですもの。必ず勝ちますわ、この戦。なんといっても陛下は天与の人ですもの」

 セルウィリアは少しうつむきかげんに顔を傾け、頬をピンク色に染めて有斗を見る。

 ずるい、実にずるい。この表情をすれば有斗がドキドキして物が言えなくなるのを知ってセルウィリアは意図的に反論を封じ込めようとこの表情をしているのだ。

 有斗はセルウィリアの思惑通りにそれ以上きつく言えなくなってしまった。

 それにしても必ず勝つとか、セルウィリアは有斗のことを神様かなんかと勘違いしているのではないだろうか?

 戦がそんなに簡単に勝利できるものであるならば、有斗の今までの苦労はなんだというのであろうか。有斗はセルウィリアの能天気さにあきれた。

「さあ、それでは明日も早いことですから、そろそろお休みになられたほうがよろしゅうございますね!」

「へ?」

 セルウィリアは有斗に近づくと衣服に手をかけた。


 戦争が迫った陣はとかくピリピリしているものだ。

 出兵した最初のほうの夜は、賭博や酒やで喧騒があるものだが、いよいよ敵が眼前に迫ってくると、そういったものも影を潜め兵士たちは英気を養うため睡眠をむさぼる。

 だが今日の陣内はやけに騒がしかった。

「いつも一人で着替えてるんだ。だからいいってば!」

「だめです。陛下たるもの着替えなどご自身でなさっては! さあ両手を広げて!」

「両手を広げたら見えちゃうじゃないか! だめ! 絶対だめ!!」

「もー! 陛下、こんな夜中に何を騒いでいるんですか!」

 アエネアスが外まで漏れ聞こえる有斗の叫び声に、何が起きたのかと眼を擦り、あくび顔で幕をくぐって入ってきた。

 そこには脱いだ服で辛うじて前だけ隠す全裸という恥ずかしい姿の有斗がいた。アエネアスは思わず頭を抱えて嘆いた。

「な、な、な、ななななな、なんて格好してるんですか! へんたい! そんなものを兵に見せ付ける気なの!?」

「ち、ちがう! セルウィリアが無理矢理脱がせたんだよ!」

 有斗の言い訳にがっくりと肩をうなだれたアエネアスは吐き捨てる。

「みんな明日の決戦に備えて睡眠を取りたいの。とにかく陛下は静かにしてください」

「う、うん・・・ゴメン」

 有斗は服をひっかかえると、セルウィリアの魔の手から逃れ隠れるように幕の向こうに消えた。

 いつもより更につっけんどんなアエネアスに、セルウィリアは小首を傾げて訊ねる。

「・・・ひょっとして・・・妬いているのですか?」

「わたしが? 誰に?」

「いつも思っていましたのですけれども・・・今日に限らず、わたくしが陛下と一緒におられると、貴女はいつも不機嫌そうですもの」

「関係ないよ!」

「陛下をわたくしに取られるのがお嫌なのでは?」

「じょ・・・冗談言わないで!」

 ぷいと顔を背けてその場を離れようとしたアエネアスにセルウィリアは言葉を続ける。

「・・・それでいいのですね?」

「いいも悪いも関係ない! 勝手にして!」

 アエネアスは自分でも何に怒っているのかも分からずに、怒りを言葉に表した。

 遠ざかるアエネアスの背中にセルウィリアはポツリとつぶやいた。

「あなたがその気なら・・・わたくし・・・独り占めにしちゃいますわよ?」


 朝靄あさもやが大地を覆う。

 日が昇りきるのはもう近い。

 だがバアル達はすでに目覚め、いまや遅しと敵を待ち構えていた。

「朝駆けはなしか」

 バアルは功を焦って突出する隊があるかと思っていたのだ。

 彼は鼓関よりこのかた、王師を打ち負かすこと幾多。王の天敵として知られているのは自負ではないはずだ。バアルの首には千金の価値があるはず。また同僚の仇として虎視眈々と狙っているものも少なくないと聞こえていた。

 だが朝靄のむこうの敵陣は整然としたものだった。さすがは王の御前、諸将の手綱も緩まないといったところか。

「まるで敵襲を望んでいたようかの口ぶりですね」

 バアルの言葉を不思議に思ったパッカスが近づいて問いかけた。

「そうだ」

 そう言ってバアルは大きく頷いた。

「緒戦で敵の先鋒を叩いて敵の二陣、三陣を引っ張り出す。濃霧の中だ。必ず混乱して乱戦になるだろうな。さらにはこの地形、明らかに敵軍不利。そのうえ混成軍だ。同士討ちもありうる。霧で見えない上に、相次いで来る苦戦の報告に王はあわてるだろうな」

 バアルにはその光景がありありとまぶたに浮かぶ。

「きっと本陣の予備兵力までも前線につぎ込む。そこを濃霧にまぎれて本陣まで近づければ、あるいは・・・それしかわずか五百の騎兵で王の首を取る方法はない」

 だからこその、この防御布陣だった。

 だが朝駆けはなかった。

 まあいいさ、とバアルは思った。出来る限りのことはした。いまさら足掻いてみても詮無きこと。

 戦場全体のことに思いを馳せるのはもうやめだ。これからは目の前のことだけを考えろ、と自分に言い聞かせる。

 眼前の敵をただひたすらほふることのみを考えるんだ。

 戦の只中にいるその時だけ、今や何もかも無くした彼が幸せになれる束の間の一瞬なのである。

 仲間の足の引っ張り合いも、無能な教団のやつばらも、敬愛する王女のことも、そして自分の生死のことさえも、その刹那せつなだけは忘れることができるのだった。


 来い。


 バアルはそう口の中で呟いて、眼前の敵軍を睨みつける。

 狭間に足を踏み入れた時がおまえたちの最後の刻だ。どこまでやれるかわからないが、とにかく一兵でも多く地獄に付き合ってもらうぞ。

 楽な戦としては決して終らせやしない。

 彼は乾いた唇をなめると、じりじりと身を焦がすような思いでその瞬間を待つ。


 朝靄を朝日が消し去るより早く、戦場に重々しく鼓が鳴る。

 突撃の合図だ。

 だが予想より近くで起こった鼓の音にバアルは首を傾げる。

 想定より敵が近づいているのか。

 やっと来る、と高揚感で、傍らに立てた槍を持ち、構えたその時、風が朝靄を吹き散らし、ありえない風景がパノラマとなって彼の眼前に出現した。

「馬鹿な!!!」

 バアルは思わずそう叫び、手に持っていた采配を取り落とす。

 馬防柵を超えてディスケス隊が原野に放たれていた。

 いやディスケス隊でだけでなく、デウカリオ隊もバラス隊も隊列を組むのもそこそこに丘陵を駆け下り、もう我慢できないとでも言うように敵と干戈かんかを交えていた。

 戦場は予定された味方陣の馬防柵の前でなく敵陣の中に存在した。

 一瞬の攻防でディスケス隊はザラルセン隊を百間(約百八十メートル)も後退させ、デウカリオ隊はプロイティデス隊を分断して次陣にまで押し込んでいた。

 だが、とバアルは唇をかんだ。

 それは刹那の現象。敵は受け流しているだけだ。

 確かに幾重にも重なった敵陣を全て突破し、その後方まで回り込んで包囲できれば勝利する。だが、いかんせん味方は数が少なすぎる。そこまでは突破できまい。

 やがて伸びるだけ伸びきった諸隊の足は止まる。

 そして、最後は数で勝る王軍に次第に追い詰められ、敗北するだろう。


「終った」バアルはうなだれる。

「なにもかも終った」

 戦は彼が始める前に終わってしまったのだ。

 作戦は守備を固め、段丘を利用し、狭隘きょうあいな地形を抜けてくる部隊を各個撃破していくというものだ。

 あくまで高所に堅陣を張って、敵を消耗させて戦術的勝利を積み重ね、敵の兵を次々と引き摺り出し、最後に手薄になった本陣への騎兵の突撃で王の首を取ることで、戦略的勝利に昇華させることだ。

 堅陣を捨て出てしまっては何の意味もなかった。

 これでこの戦いの帰趨きすうは決まった。我々は負ける。

 俺の生がこんな最期で終ってしまうのか、とバアルは嘆いた。

 いや、終るのは仕方がない。人は誰もいつかは死ぬ。

 でも終り方にはいろいろあるはずだ。やれるだけのことをやって、満足の中で死んでいきたかった。

 それが最後まで叶わないということがなにより悲しかった。

 こうなると残された道はひとつ。

 せめて華々しく戦って散っていくしかない。

 さすがはバルカの者だと言われる戦いをするしかない。

 バアルは気力を振り絞って、失意に打ちのめされ己の意思どおりに動こうとしない体を無理にでも動かそうとした。

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