第402話 命果てれども名は千載に
セルウィリアの心はまさに暗闇の中に閉ざされていた。
わたくしは無力だ。
無力なんだ。
王宮の中に鎮座した女王という名のお飾りの人形であった時から変われたと思ってた。
王の相談相手になり、朝廷を動かす助けとなれた。自分の意志で動く人間になれたと思っていた。自分の居場所を見つけたと思った。
それは思い違いだったのだ。
セルウィリアの言葉はバアルにとどかなかった。
彼女に出来ることは今でも何もないままだったのだ。
昔も今も変わりなく自分は無力な存在なんだ・・・と、セルウィリアは非情な現実に打ちのめされていた。
「・・・・・・・・・・・アスッ!!!!!」
と、絶望感に打ちひしがれ俯いて地面を見つめていたセルウィリアの耳に、聞こえるはずのない声が聞こえ、驚き慌て顔を上げた。
「・・・・・・!?」
それは死んだはずの有斗の声であった。
「へ、陛下!!」
喜びに顔を上げたセルウィリアだったが、目に映ったのはあまり見たくない光景であった。
「アエネアス、しっかり!」
有斗が倒れ伏したアエネアスの傍に駆け寄り、膝をついて前のめりになってのぞき込んでいた。
「陛下・・・・・・」
王服が血に染まるのも泥で汚れるのも気にせず、有斗はアエネアスの容態をただ心配していた。そんな有斗の姿は、そしてそんな顔はセルウィリアはこれまで一回たりとも見たことが無かった。
「医者を! 早く!!」
有斗の悲痛な叫び声にセルウィリアは我に返った。
「軍医をこれへ。羽林将軍が深手を負いました」
ようやく集まって来た羽林の兵たちに、アエネアスに代わってセルウィリアが有斗の命令を伝達する。
不思議そうにセルウィリアの命を聞いていた羽林の兵たちだったが、アエネアスの姿を見て顔色を変え、軍医の姿を探して慌てて四方に散っていった。
アエネアスは差し出された有斗の手を、怪我人とは思えぬほどの力で、強く握り返した。
「陛下・・・何をしてるの? 逃げなきゃ? あいつは陛下の腕じゃとても敵わないよ。いつまでもこんなとこにいちゃダメ」
「大丈夫、あいつはどこかへ行った。アエネアスの働きで追い払ったんだよ」
アエネアスは有斗の言葉を確かめるように、目だけをゆっくりと左右に動かして周囲に敵がいないかを探る。もはや首を動かすことすら難しいのかもしれない。
「そっか、良かった」
有斗の言葉通りに敵がいないことを確認すると、弱弱しく笑いを見せたアエネアスだったが、次の瞬間痛みのあまりに顔を歪ませた。
「気をしっかり持って、アエネアス。すぐに医者が来る」
「陛下、無駄よ。助からない、見て」
アエネアスが先ほどまで傷口を押さえていた血だらけの手を広げて有斗に見せた。
「ほら・・・血が止まらないもの」
「何を弱気な! きっと助かる!」
「気休めはいいよ。どう考えても助からない。でも良かった。本当に良かった」
「アエネアス、何を言ってるんだ? 何がいいものか」
「いいんだよ。わたしは兄様を守ることができなかったけど、代わりにこうして陛下の盾となることができたんだもの。わたしは昔の誓いを守ったのよ」
アエティウスに続いてアエネアスもが有斗の盾となって死ぬ。その事実が有斗の心を強く締め付けた。どうしてダルタロスの者だけが、有斗にとって近しい者だけが、誰よりも大事な人たちだけが、次々と失われていくのだろう。
だが悔やんでばかりはいられない。アエネアスに残された時間がもう長くは無いことは誰が見ても明らかである。有斗は全てが終わる前にどうしても確認しておきたいことがあった。
「アエネアス、何か・・・何か僕に言いたいことは無い?」
有斗には確信があった。アエネアスも有斗と同じように立場やお互いの関係から言いたくても言えないことを心の奥底に秘めている、と。そしてそれは有斗の心の底にある言葉と一言半句違わず同じであることを。
きっとそれを言わないとアエネアスは後悔する。そしてそれを聞かないと有斗も一生悔いが残るであろう。もう二人がともに過ごせる時間は限られているのである。
有斗のその言葉に込められた意味をアエネアスも理解したのか、今にも泣きそうなほど顔を強く歪ませた。
「陛下・・・わたし! ・・・わたしね!!」
その時、アエネアスは見てしまった。有斗のその向こうにセルウィリアが悲しそうな眼をして立っているのを。
アエネアスは急に押し黙った。
「アエネアス、どうした!?」
有斗はアエネアスの口から、是非ともその心情を聞いておきたいと思い、再度促したが、アエネアスはそれに対して黙ったまま、ゆっくりと顔を横に振っただけだった。
「・・・なんでもない。なんでもないよ」
アエネアスには今ここで有斗に言っておきたいことが、言っておかねばならないことがある。だけどそれは、もうこうなってしまった以上、言ってもしょうがないことでもあった。有斗にはこれからも自分が数えることのできない数多くの春秋を過ごすことになるであろう。消えゆくものの言葉が王である有斗の足を縛ってはいけない。
アエネアスは喉まで出かかった言葉を全て心の中に押し戻した。
だがその時、有斗も見てしまった。アエネアスの目にセルウィリアの姿が映りこむのを。
そして全てを理解した。
「何を遠慮しているんだ。言いたいことがあるならはっきり言えばいいじゃないか! アエネアスらしくもない!」
「わたしね、手紙を書いたんだよ。いっぱい」
突然、アエネアスがそれまでと一切繋がらない会話を行ったことに有斗は戸惑う。それが手紙という、おおよそアエネアスに似つかわしくないものであったことにも面食らった。
「手紙? 何? 何を言ってるんだ? 僕はそんなものを受け取った覚えはないよ」
「そりゃそうだよ。出さなかったもん。出せないよ。だって陛下は天与の人で、わたしは陛下のたった一人のともだちで・・・何より兄様想いの妹だもの。渡せるわけないじゃない」
「・・・・・・・・・・・・」
「今まで出せなかったけど・・・・・・それを読んでくれると嬉しいな」
「手紙はどこにある!?」
「家にある。場所はテルプシコラが知っているから、彼女に聞いて」
有斗がアエネアスの手を両手で強く握りしめると、先ほどとは違い、今度は弱弱しい力でもう一度、握り返してきた。
有斗はその時に気付いた。朝の剣術の稽古では今もアエネアスには敵わない。だからアエネアスの手は自分よりももっと大きく、力士のように力強いのであろうと勝手に想像していた。
だが今、有斗がまさに掴んでいるアエネアスの手は有斗の手よりも小さく、やわらかい少女の手そのものだった。
「嫌だ。そうだ。帰ったら君の家に行って、ふたりで一緒に読むんだ。そうしよう。それがいいよ」
「有斗」
アエネアスが最後の気力を振り絞って言った、その短く、か細い言葉はこれまでただ黙って聞いていたセルウィリアの心を揺すぶった。大きな
アエネアスが有斗のことを名前で呼んでいて、有斗もそれを当たり前のように受け止めているということに気付いたのである。
それは二人は既に君臣の
「有斗、さよなら。立派な王様になってね」
その言葉を言うと、アエネアスは静かに呼吸をやめた。
動かなくなったアエネアスの瞳を有斗はしばらくじっと見続けていたが、やがて震える手で瞼をゆっくりと下ろした。
そこにようやく羽林の兵に伴われて軍医がやって来た。
「陛下、軍医をお連れしました!」
敵襲に驚き遠くに逃げていたのか、長い距離を走ってきたのであろう。羽林も医者も汗だくで息を切らしていた。
「遅くなって申し訳ありませぬ」
せめて息があるうちに駆け付けてくることくらいできないのかと、有斗は思わず怒り、軍医を怒鳴りつけた。
「遅い!!」
温厚な王で知られる有斗の、時ならぬ珍しい怒りに触れて軍医は身がすくんだ。
「遅れて相すみませぬ!」
軍医は平身低頭したままアエネアスの遺体ににじり寄ろうとした。
「・・・・・・いや。もういい」
有斗は軍医を押しとどめた。怒声を発したことで頭が冷え、例え軍医がすぐに駆け付けて来ていたとしても、アエネアスは助からなかったであろうことに思い当たったからだ。
「ですが、しかし」
「いいんだ。アエネアスにはもう医者は不要なんだ。それよりも、他の兵を診てやって欲しい。助けられる者を一兵でも多く助けてやってくれ。忙しいところを呼び出してすまなかったね」
王の不興を買ったのだ。ここは形ばかりでも医師が懸命に診たという姿だけでも見せておくべきではないのか。軍医はなおも心残りを示していたが、王の言葉とあれば否とも言えず、一礼するとその場を後にした。
医者が去っても有斗はただ前を見て、アエネアスの遺体の傍に立ちつくしているだけだった。
セルウィリアはその有斗の傍に寄ろうする。
「陛下・・・」
「来るな!」
有斗のきつい言葉に、何より有斗に自身の想いを拒絶されたことにセルウィリアは大きくショックを受け、その場に立ち止まった。
「・・・!」
「今は来ないでくれ、頼む」
セルウィリアは有斗を慰めようとしている。その想いは理解していたし、慰められることでもあったが、今だけはその慰めにすがるわけにはいかない。今セルウィリアのやさしさに触れてしまったら、有斗はきっと泣いてしまう。
有斗は元々、そんなに強い人間ではないのだ。
だけど王である有斗はここでアエネアスが死んだからと言って、涙を零してはいけない。
今も多くの将兵がこの戦場で有斗の為に戦い、そして勝利を得るためにと命を落としている。その兵士たちとアエネアスとでは王にとっては等しく同じ価値であるはずだ。
その兵士たち一人一人の為に有斗が泣いてやることはとてもできない。ならばアエネアスが死んでも王である有斗は泣いてはいけないのだ。
有斗は自分に言い聞かせるためにもう一度思った。
泣いてはいけないのだ、と。
有斗は涙が零れぬよう、少し顎を上げて空を見上げた。
同じように空を見つめている男が一人、違う場所にもいた。
そこは戦場の空白地帯だった。
小さな木々が寄り集まった木立。
向こう側が見えるがゆえ、そこに倒れ
教団の傭兵たちは逃げるのに手一杯。そして王師は動くそれらを狩り立てるのに手一杯であった。
あれからどれくらいの時が経ったろうか。
王の陣にたどり着くまで共に戦った戦士たちも、その後、体勢を整え反撃に移った王師の前にひとり、またひとりと討ち取られていった。
その混乱の中で傷を負い、馬を失い、バアルが最後にたどり着いたのがこの場所だ。
もう彼の周りには誰一人いなかった。
バアルは体力を使い果たし動くこともできず、ゆっくりと死に向かっていた。
だが・・・満足だった。
「満足したか?」
彼の周りには動くものは何もなかった。でもどこからかその声は響いてきた。
どこかで聞いた声だ、と彼は思った。懸命に思い出そうとするが思い出せない。
「戦国を彩る大戦で戦場を思うがまま駆けるのが夢だと言っていたな」
女の冷たい声は色気をまったく感じさせない。
「ああ・・・十分に駆けたよ。戦国最後の、そして最高の戦の中で晴れやかに・・・」
「約束を覚えてるか?」
彼はそれでようやっと声の主がわかった。
声が集まり彼の前にぼんやりと影となって現れた。陰気な顔をした一人の女が姿を現した。
「・・・ああ」
「首をもらう約束だったな」
「・・・だったな。持って行くがいい。もう俺には必要ないものだ」
影はその刹那、息を呑む。
「何を言うか! まだ戦争は続いているぞ! それに言ったではないか。勝敗は兵家の常、生きている限り負けではない、と!」
女の声はおかしなことに動揺して震えていた。
妙なやつだ。自分から俺の首を貰うと広言したくせに。その時が来たのに何故慌てる必要があるというのだ。
「いいや、もう終った。完膚なきまでに負けた。俺と王との戦いは決着がついたのだ」
「・・・」
それでも影は首を切ろうとはしなかった。残忍酷薄で知られた忍びにしては妙なことだ。
「おまえの今までの人生は終ったんだ。もうお前が若き日に望んだことはなにひとつ叶わなかった」
「ああ・・・そうだな」
「だがお前は生きている。もし・・・もしもだが・・・お前がまだ生きる気があるというのなら、その首を私に預けて別の人生を歩んでみることができる。王の追求の届かない、遠い遠い地に渡り新しい生を始めてみないか?」
それは意外な提案。
きっと彼女にも自分が何故こんな馬鹿げたことをいいだしたのかわかってなかったに違いない。
声には動揺と戸惑いの感がありありと表れていた。
「・・・ありがとう。だが、もし俺のことを少しでも想ってくれているのなら」
一呼吸おいてバアルは彼女の思ってもいなかった一言を口に出した。
「やっぱり俺の首を持っていってくれ」
「・・・なぜ!?」
悲鳴のような声があがった。
「私が捕らわれることもなく、また死体も見つからなかったら、きっと小さな伝説が生まれる。徹頭徹尾、王の前に立ちはだかりそして消えた男がいたという伝説だ」
「そんなものがなんになる! 死んだら何もかも終わりなんだよ!」
「まあ聞け」
バアルは影にとつとつと語りだした。
「王のしたことは素晴らしいことだ。何せ、この乱世に平安をもたらしたのだからな。だがどんな体制にも部外者は出る、俺たちみたいな、な。そしてどんな素晴らしい体制でもいつかは矛盾を抱えて崩壊する。不死の人間がいないように不滅の国家もないのだから」
偉大な王もいずれ死に、幾代もの王をも経て、国家は年老いて、やがて倒れる。
「だが体制に逆らう側に回った者たちは最初は小さくか弱い存在なんだ」
そう、倒壊間近であっても国家は個人に比べれば遥かに巨大で、そして力強い。それに逆らうには勇気がいる。何事にも挫けない、とてつもなく巨大な勇気が。
だが勇気を持ち続けることは難しい。難事が襲い掛かるたびに、彼らの心を
その時に俺の存在が意味あるものと成るかもしれない。
「その者たちは、かつて今彼らが相対している巨大権力を作った偉大な王に、最期まで立ち向かった男がいたことを知るだろう。きっとそれは暗闇に差した光のように輝くに違いない。心を照らすに違いない。俺が生きることにもし意味があったのだとしたら、きっとその光になることなんだ。だが、そのためには俺が最期まで輝き続けなければいけない。俺が生きて王の前に屈したら、いや死体となって王に葬られたりした日には、それは俺の伝説でなく、敵将にも礼を尽くす偉大な王という伝説にすりかわってしまうだろう。そうなったら彼らは何を頼りにして行動すればいい?」
彼らは恐る恐る手探りで権力に反抗する心の寄る辺を探して地を這うしかないだろう。
だが、もし俺が伝説の中の存在となれば、きっと・・・
「俺の死体が発見されてはいけない」
もちろん、それは難しいことに違いない。なにしろ人々の目の前には生きる伝説である天与の人がいるのである。その光に隠れてバアルのことなど誰も
だがバアルが幻のように
「だから、頼む。俺の首を誰にも見つからないどこかに持っていってくれ」
「死んじゃうんだよ?」
「そうだな・・・でもその時、俺の名は伝説の中で不死の存在となって生き続けることだろう」
そう、バアルの名は伝説の中で
「・・・・・・」
「頼む」
「・・・くっ」
彼女は顔をしかめ、ゆっくりと利き手を振り下ろした。
重いものが落ちる音が響き、大地に赤黒いしみが少し、また少しと広がっていく。
そして一陣の風が木立の中を吹き抜けていった。
後には首のない、誰ともわからぬ名も知れぬ兵士の死体が転がっているだけである。
卯の刻、戦場に立っていた最後の赤獅子の旗が倒れ落ちた。
風は海から陸へとゆるゆると吹きだす。
凪は終った。
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