第386話 潜龍坡の戦い(Ⅱ)

 深夜、王師の宿営地では次々と片付けに入り、行軍の為に陣形を整える作業が続いていた。

 もっとも潜龍坡の道幅を考えると有斗の出立は軽く一刻は後ろであろう。後軍の兵は行軍の支度をほどほどに済ませ、手早く炊飯の準備にかかり、腹ごしらえの準備に余念が無い。

「アエネアス、セルウィリアを無事に後方に下がらせてくれた?」

 馬車のそばまで戻ってきたアエネアスに有斗は首尾よく命じたことを終えたか確認する。

 その言葉に対してアエネアスはまったく大変だったというようにふくれっ面を作って応えた。

「陛下のお側にいたいとか、なんやかんやと文句を言って抵抗したけど、馬車に押し込んで羽林の兵を付けて無理やりに最後方に送り出したよ。行軍の邪魔だし、戦場にいても全くの足手まといだもんね」

 行軍隊形上、後方に位置する有斗の本陣が戦闘状態になることはまずありえないのだが、念には念を入れて避難させたのである。

 万が一、戦場で巻き込まれて死なれても困るのだ。今回はセルウィリアの意志で付いてきているのだが、通常考えれば丸腰の女性が前線に来ることなどありえない。有斗としてはサキノーフ様の血を引く元関西の女王というその存在感の大きさに、扱いに困った僕が戦場で敵の仕業にして謀殺しただなどと噂を立てられてはたまらない。

「ならば結構」

 有斗は満足げに頷くと、もうこれで雑事は片付いたとばかりに払暁ふつぎょうに予定されている敵との交戦に頭を切り替える。

「残る問題は先頭のベルビオ隊がいつ向こう側に到着するかだ。明け方までに潜龍坡の大半を登り終えていなければ僕らは不利となる。巧くやってくれるといいけれども」

 体力馬鹿のベルビオだけならば休憩も取らずに明け方といわずにまだ真っ暗なうちに目的地に到達することは不可能では無いが、王師は精鋭ではあるが生身の人間である。ベルビオの怪物じみた体力についてこれる者などごく僅かだ。

「といっても道がかなり悪いみたい。もう少し早くに出ていれば確実に着いたんだけども」

「そうすると敵の動きも早まるだろう。霧が出てくるよりも先に動かれては計算が狂ってしまうよ」

 敵は潜龍坡という隘路あいろを抜けて出てくる王師を出口で待ち構えて、小分けに叩いて戦術的勝利を積み重ねて、それを戦略的勝利につなげようとしている。有斗は教団の意図を正確に読み取っていた。

 だが潜龍坡に誘い込む為に敵は出口前に布陣せず、半舎以上も距離を開けて滞陣していた。

 暗がりに潜む物見が潜龍坡を通り、敵に報告しても、敵の大半は寝ている。それを起床させて行軍体勢を整え、潜龍坡へと移動しなくてはならない。

 だが教団は障害の無い平野を移動すればよいのに対して、王師が通る潜龍坡はただでさえ狭く険しい道が雨のせいで更に難路と化している。なるほど、余裕で間に合うという教団側の計算は正しい。

 しかし霧が出れば話は別ということになる。潜龍坡は山道、もともと見通しは利かないものの、山中を抜ける一本道だけに迷いようが無い。つまり王師の行軍速度はそれほど変化しないのである。

 対して目印の無い平野での移動は困難を極めるだろう。なにしろどちらに進めばいいか判断がつかない。

 南海道といえば聞こえはいいが、今現在の国道と違い舗装も整備もされていないだけでなく、長年の戦乱で手入れもされていない。

 下手をすると村落をつなぐその辺の脇道のほうが立派なくらいだ。つまり普段ならばヴィオティア山脈などの目に見える明確な目印を見て移動できただけに彼らは、それを失ったときの移動方法を考えていないに違いない。

 あとは霧がどこまで教徒の視界を隠してくれるかにかかっている。

 地元の者の話では例年、秋雨の時期の霧は深く、下手をすれば伸ばした手の先が見えないほどであるという。

 有斗は作戦の成功を強く信じていた。


 南街道の左右に分かれて布陣したアンテウォルト隊とカシウス隊が教団側ではヴィオティア山脈に一番近く、先頭部隊ということになる。

 物見が飛び込んだのがアンテウォルト隊であったことと、元オーギューガの兵が多く、その兵を中心として組織作られており、全体の統率が取れていたことから、カシウス隊が動く四半刻以上も前に出発したアンテウォルト隊がこの戦いでの教団の先鋒ということになった。

 どんな形であれ、戦においては先鋒を預かるのは何よりも名誉なこと。だがアンテウォルトがその誇りで高揚しているかといえばさにあらず。潜龍坡へと向かう道中で闇より湧き出てきた霧によって視界が妨げられ、行軍速度が低下したことに焦っていた。

「もう少し足を速められんのか!」

 だがむやみやたらに先を急ぐわけにも行かなかった。既に焦りから道を二度ほど間違えて、その度に引き返して無駄な時間を費やしたのだ。

 これ以上時間を使えば、敵は妨害を受けることなく潜龍坡から出てしまう。

 それ以外にも心配事もある。後ろを見ても、あるのは霧で隠された真っ白な視界だけ、果たして友軍が付いて来ているのか分からなかった。

「友軍は付いて来ているのか・・・そもそも出発したのか。まさか本陣へ送った使者が迷って、未だ辿り着いておらぬとかいうことはないであろうな」

 不安になってもう一度、馬上から背後を振り返るが、そこは夜の闇と霧とで覆い隠されていた。自分の部隊の後備すら見えない。

「とにかく朝日だ。日が昇り気温が上がれば少しは霧も晴れる」

 アンテウォルトは焦る心を落ち着かそうとひとりごちる。

 敵と交戦するにしても、これでは味方の様相も敵の布陣も見えずに戦うことになる。部隊の指揮もままならない。


 不幸なことにアンテウォルトの危惧は現実のものとなった。

 霧の中、潜龍坡に近づいていると、前触れもなく王師の先頭部隊とアンテウォルト隊の前衛が接触し、戦闘状態に入ったのだ。

 既に出口の外に王師の部隊は展開中であった。アンテウォルトは間に合わなかったことを悟った。

 だが事態はそんなことを考えることすら許さないほど切迫していた。

 深い霧のため両者は前方にいる敵兵にまったく気づかずに接近し、気付いた時には目の前に敵兵がいたという状態だった。

 布陣も、弓矢の応酬も、槍合せもすっとばしていきなり至近距離からの白兵戦に突入したのである。陣形どころか隊列も、指揮をすべき百人隊長も旅長も抜刀して組み打つという大混戦が開始された。

 両軍とも後続の部隊を左右に繰り出して半包囲陣形を組むことで、混乱の局地にいる中央部隊の事態の収拾を図ろうとしたが、押しつ押されつ、互いに切り込んで乱れあう乱戦が左右に広がるだけで、戦場を支配することはどちらの将軍にもできなかった。

 このベルビオ隊とアンテウォルト隊の間に行われた遭遇戦は潜龍坡の戦いでも一、二を争う激戦となった。


 少し遅れて戦場に到着したカシウス隊は幸いにして王師に接触する前に、ベルビオ隊とアンテウォルト隊との間で鳴り響く干戈の音で敵が至近距離にいることを実感することが出来た。

 といっても敵の姿どころか、交戦中の味方であるアンテウォルト隊の全容すら霧で把握できないような状態ではあったが。

「霧の中に敵はいる! ぬかるなよ! 槍を低くし、攻撃態勢のまま前進して敵の攻撃に備えよ!」

 だがカシウス隊は緩やかに曲がった南海道に沿って、アンテウォルト隊の左側へと戦列を展開するも、そこにいるはずの敵兵と出会わなかった。

 もしかしたら王師は眼前の戦闘に夢中なのか、後続が未だ到着せずに手持ちの兵力が足りなくて、左右に兵を展開してはいないのかもしれない、とカシウスはこれを好機と見る。

「ならば好都合よ。アンテウォルト隊を襲う敵の側面を突いて敵兵を押し戻す!」

 そうすればアンテウォルト隊への攻撃が弱まり、アンテウォルト隊の混乱状態は収拾され、敵を押し返すだろう。

 後続の援軍が来れば潜龍坡の出口を三方から包み込む形にもって行くことが出来、当初の作戦通りに事を運ぶことが出来る。

 だがカシウス隊の前進は戦列を少しベルビオ隊の方に傾けたところで止まる。前方から騎馬隊が現れ攻撃を仕掛けてきたのである。

「そうそう旨くはいかないか」

 カシウスは苦笑いを浮かべると戦列の回転を中止し、斜陣のまま前方より襲い来る敵騎馬隊への対処を命じる。

 カシウス隊を攻撃したのはベルビオ隊に続いて潜龍坡を抜け出てきたばかりのザラルセン隊であった。

 定法ならば敵は別働隊を編成し、ベルビオ隊の右側から側面を急襲して事態の打開を図るとするはずだと、敵の状態を探ることすらせずに急行したのだ。まさに間一髪というところだったのだ。

 もっとも別働隊どころか敵はザラルセン隊を上回る兵力を持つ立派な一軍であったことは誤算であったが。

 狭い山道を抜けてきただけに開放感に浸ったザラルセンは全部隊を勢いよくカシウス隊に叩き付けた。騎馬兵の突撃力で敵陣を粉砕しようと試みたのである。

「こんな時は勢いだ。勢いがものをいう」

 だがザラルセン隊の騎馬攻撃に寄せ集めの傭兵の集合体であるカシウス隊はよく耐えた。いや、耐えたどころか場所によっては押し返し、追い散らした。

 それを見た兵も仲間の奮戦に勇気を奮い立たされたのか、槍を持って騎馬めがけて攻撃して反撃を開始した。

「この粘り腰、教徒では無いな・・・敵の指揮官は誰だ? 兵を奮い立たせる術に長けているようだが・・・」

 三度の突撃もことごとくカシウスに跳ね返されたザラルセンは敵を傭兵と思って侮っていただけに舌を巻く。

「一旦、退くぞ! 陣形を整える!」

 ザラルセンはそう言うと部下に模範を見せるかのごとく自ら馬首を翻して真っ先に逃走する。部下の兵たちは敵中に取り残されることを恐れて、慌てて彼らの指揮官にならって個々に退却を開始する。

 騎馬の足を使って敵との距離を取り、陣形を整えてから再度攻撃しようとしたのである。

「追え! この好機を逃がすな! 追って敵の首を取れ!」

 カシウスは部下をけしかけて、陣を前方へと進めようとする。

 カシウスにして見れば別段、ザラルセン隊を逃がしてもどうということは無い。というより歩兵の多いカシウス隊の兵では馬の足には追いつけないのが実情だ。

 目的は別にある。このまま逃げるザラルセン隊の背中を追わせることで兵の気を弛緩させずに前進させ、頃合を見て右方へと槍先を向けて、こんどこそアンテウォルト隊の側面を突かせるつもりだったのだ。

 だがその計画が果たされることはなかった。

 ザラルセン隊が退いて出来た空間に、その後備に付いて来ていたエレクトライ隊が目の前に現れたからだ。

「ええい、敵の新手か! それにしても味方は遅い!! 何をしてやがるんだ!」

 来ない味方を求めてちらりとカシウスは後方へと目線をくれる。

 開戦から既に半刻は経っている。後続の部隊が現れてもいいはずなのだ。 だがそこにはまだ霧が真っ白な空間を作っているだけであった。

 カシウスは兵の足を止めさせ、追撃で乱れた陣形を整えて王師の新手、エレクトライ隊を迎え撃った。

 この辺りの南海道は周辺よりも一段高く作られている。言ってみれば天然の土塁、そこを確保したほうが優勢に戦うことが出来る。

 寄せ集めではあるが、兵数が多いこともあり、南海道を確保したカシウス隊が王師相手に互角の勝負を繰り広げる。

 しかしそこに一旦後退し、陣形を整えたザラルセン隊が突撃を加えることで均衡が崩れた。

 ザラルセン隊の攻撃が集中した左翼を中心にカシウス隊は南海道上から追い払われることとなる。そのままカシウス隊は崩れ去るかに思えたが、カシウスはありったけの予備兵力を左翼に集中投入し、戦局の打開を図る。

「それっ!! 勢いで突きかかるだけの敵は、盛り上がった南海道で二つに分断され、思うように部隊同士が連携が出来ぬ! 南海道さえ取り返せば、我らの優位は崩れぬ! もうすぐ味方の諸隊が続々と駆けつけてくるぞ! 今ひとたびの辛抱だ!!」

 カシウスの声に応えるように百人隊長も一兵卒も奮戦し、たちまち南海道上から王師の兵卒を一兵残らず叩き落す。

 だが南海道という高所に陣取り戦っていることがカシウス隊がザラルセン、エレクトライ両隊の猛攻を凌ぎ切る要因になっていることは王師側にも分かっていた。

 今度はエレクトライ隊からも援護を受けてザラルセン隊は再びカシウス隊に猛攻をしかける。

 南海道は三度主を替えた。

 この間にザラルセン隊は河北から苦楽を共にした百人隊長を五人も失っていたし、エレクトライ隊も三人の百人隊長、そして一人の旅長を失うという筆舌に尽くしがたい死闘が行われていた。

 だが同時にカシウスも多くの歴戦の百人隊長や傭兵を失っていた。良質の将士を失っただけでなく、疲労も増してきたからだろうか、兵は指示を行ってもそれを実行することが出来ないといった局面が増え始めていた。

 そこにさらに悲報が伝わる。敵に援兵が加わったのだ。王師第四軍リュケネ隊が戦場に旗をなびかせ、カシウス隊に接近しつつあった。

 それを見て動揺がカシウス隊全体に広がっていく。

 これほどの損害だ。稼業としての傭兵業ならば既にもろ手を挙げて降伏しているか、逃走しているであろう。

 だがこれは彼らの誇りをかけた戦いである。逃げるわけには行かない。

 その彼らの誇りが疲れきった兵士たちの体を支えていた。リュケネ隊が攻撃に加わった後も尚もカシウス隊は半刻戦線を維持していた。


 苦戦を続ける彼らに援兵は、未だ来なかった。

 それでは破滅の物音が近づいてくることを避けることは出来ない。


 やがてその時が訪れる。

 ザラルセン隊の放った矢が、残念なことにそれが誰であるかは後世に伝わっていないのだが、前線に出て指揮するカシウスの眉間を打ち抜いたのだ。

 戦国の世に知られた偉大な傭兵隊長というカシウスという名によってのみ保たれていたこの傭兵隊は一瞬にして瓦解した。

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