第385話 潜龍坡の戦い(Ⅰ)

 翌日、昼には雨が晴れ上がり、再び夏のような日差しが王師をじりじりと焦がして、兵たちの体力を悪戯に奪う。

 潜龍坡は前日の雨でぬかるんだだけでなく、折からの大雨で山中には水が溢れ、中には十一間(約二十メートル)に渡って小川と化した箇所もあると、どろどろになって戻ってきた物見の報告は告げていた。

 深いところではくるぶしまでつかる立派な川だそうだ。全体の行軍計画に大きな支障となることはまず間違いないところだ。

 潜龍坡全体が川と化さなかっただけでもマシだったと考えるほか無い。

 それを知って、潜龍坡の入り口で王師の先頭を預かるベルビオは戸惑った。

 通常の状態でも今の時間から潜龍坡に兵を入れれば日暮れまでに抜け出ることは難しい話だ。このような悪路ではまず不可能なことである。ましてや王師はいまや大軍で不正規の兵も内包している。おそらく暗がりの中、そのような悪路での行軍速度は極端に低下する。そもそも強行軍についてこれるかどうか。

 おそらく抜け出ることは叶わずに、野営することになるだろう。だが冠水した細長い道の上での野営では疲労するばかりである。それでは翌日行われるであろう戦闘に大きな支障が出る。

 それに細く長く伸びた隊列は敵にとって格好の攻撃目標となりうる。伏兵や夜討を行ってくるかもしれない。できうるならば避けるべき行動であろう。

 それにその川の出現は大雨による一時的なものである。翌朝には水が引いて川は消滅しているはずだ。

 例え水が全て引かないにせよ、今よりは歩きやすい状態になっていることは間違いない。

「今日は潜龍坡に進入しないほうがいい。とはいえ俺一人での判断で決めてしまうのは何かと不安だ。とりあえず陛下にご報告申し上げるか」

 ベルビオは帰ってきたばかりの物見に使者をつけて本陣に走らせた。


「潜龍坡はここ数日の雨で様相が一変し、出水で行き来もままなりません。我らのように馬術に長けた物見ですらも僅か一舎にも満たぬ先にいる敵軍の様相を確認するために半日以上を要するような有様です。もし今から潜龍坡に兵を入れても、おそらく夜中になってようやく先団が抜け出るか抜け出ないかといったことになると思われます」

「潜龍坡を抜け出てしまえば、敵とは指呼の距離ということになる。そのまま戦闘状態に突入すれば王師には勝ち目は薄いな」

 今、教団は潜龍坡出口から離れたところにいるが、もし王師が潜龍坡に入ったと報告があれば、おそらく直ぐに全部隊を移動させ潜龍坡の出口付近に兵を展開するであろう。

 我々から潜龍坡出口までの距離と、潜龍坡の出口から敵陣の距離はほぼ等しい。だが平野を通る敵と違い、我々は雨でぬかるんだ難路を抜けねばならない。どちらが先に現場に着き、部隊を展開し終わるかは子供でも分かる計算だ。

「敵の方からこちらに近づいてくるという気配はまだ無い?」

「はっ! それはこの目で確認しました! 昼の時点でまだ確かに敵は前日の宿営地を築いたままで、行軍隊形に移行する様子は取っておりませんでした!」

 どうやらこちらと戦う意思はあっても、自ら潜龍坡に入って来ようというまでの意思は無いようである。

 ということは、やはりこちらから潜龍坡を抜けていかねばならないということだが・・・

「潜龍坡を抜けて輜重しちょうは通れそうかな」

 それも確認しておかねばならないことである。運よく敵を撃退するか、もしくは敵の妨害に会わずに南部南域に入れたとしても、輜重の馬車が潜龍坡で立ち往生をしては補給に難をきたす。兵士たちに担がせて輸送するとなると人手を取られることになる。

 もちろんそうなれば有斗の乗っている馬車も通れないということになり、歩いていかなければいけなくなるであろう。

「馬車で越えるのは難所が多いかと。ですがヴィオティア山脈から流れ出す川は元々多く、おそらく出水は一時的なもので、明日にはほとんどの水が引いていると思われます。梃子摺るのは二、三箇所といったところでしょう」

「明日にしたほうが無難ということか・・・夜のうちに抜けるのも一つの手ではあるが・・・」

 だが全ては敵の出方しだいだ。

「僕らが対策を練っているこの間に敵が陣を前進させ、潜龍坡の出口を塞いでいるということは無いかな?」

 わざと敵の物見に擬態を見せて油断させたところで行動を起こすのはよくある一つの奇策である。

「敵には物見を張り付かせております。動きがあれば直ぐに連絡が来るようになっております。それに敵は既に夕方の炊飯の準備に取り掛かっておりました。それを中止するとはなかなか考えられませんし、もし食後、夕刻から移動するのだとしたら食事の準備はもう少し早く行われるはずです。もちろん、敵も同じように山中に我らを監視する物見を置いておりましょうから、こちらが動けば、その動静は向こうに伝わり、動き出すことは大いにあると考えねばなりませぬが」

 ぬかるんだ山道を夜間移動するには松明で照らさねばどうにもならないはずだ。動けばこちらの哨戒網に必ず引っかかる。

 それに奇襲を受けたときのことを考えればいい。山中の細い道で奇襲を受けるよりも、平地に陣取っているほうが奇襲を受けたときに反応がしやすいであろう。反撃も即座に行えるであろうし、陣形から考えても有利なのはこちらだ。

 有斗はものの得失を考えた結果、ベルビオの言に理があると考えた。

「よし、ここはベルビオの言うとおり、宿営の準備を命じることにしよう。潜龍坡を越えるのは明日にする」

「御意!」


 一礼して早速使者がベルビオに報告に戻ると、有斗は各隊に進軍の停止を命じ、宿営の準備にかからせた。

 もちろん羽林も早速に有斗の天幕を馬車から運び出し、設営にかかる。

 軍の心臓であり急所である有斗の天幕を中心に配置して、それからその周囲に決まりにしたがって天幕や兵士を配置していくのである。

 その規律正しい建築行程を有斗は馬車に座ったままでぼーっと眺めていた。

 別に有斗が偉ぶっているというわけでも、兵に混じって働くなど王様としての威厳が失われるといった原則論から手伝わないというわけではない。単に力仕事に非力な有斗は完全に邪魔だからである。

 天幕内における物の設置は何故か南京南海府から付いて来ているセルウィリアが侍女に命じて設営を行っているため、こちらも有斗の出番は無い。

「ともかくも雨が上がってよかったなぁ・・・」

 幸い潜龍坡の出水はそれほどではなく、明日にはほとんど引くという話だが、もし雨が降り続いたら王師はしばらくこの場所で立ち往生していたかもしれない。

 南部南域に入る道は少なく、大きく北西へ二週間ほど迂回するという手がなくは無いらしいが、そうすれば今度は敵が再び南海道を通って手薄になった南京南海府を突くという可能性も出てきてしまい、あまり取りたくない経路だった。

 ともかくも西の空は雲ひとつ無い。秋雨は小康状態に入ったと見てよかった。

 明日の朝も晴れるだろう。

「今晩は冷えそうだ。布団を首まで被って寝たほうがよさそうだな・・・」

 本来ならば今日の昼には行われると考えられていた敵との決戦が伸びたことで有斗は気が緩んでおり、お気楽にそんな言葉を口にする。

「何故そんなことが分かるの? 王たるもの適当に思いついたことを口にしちゃだめだよ。兵士たちが必要以上に着こんで寝て、体調を崩しでもしたら戦いにならないじゃない。数日来の雨で少しばかり大地は冷えたかもしれないけど、まだまだ残暑の時期だよ。雨が降ったんだからかえって蒸し暑くなるかも」

 何故か嘘と決めてかかるアエネアスに、有斗は眉をひそめて抗議の意思を示しながら自らの正しさを抗弁する。

「もう秋だよ。昼は気温は高くとも、夕方になれば涼しく、夜のうちは寒い。特にこんな晴れた日の夜は気温が下がるって昔、言ってたし」

「言ってたって・・・誰? そんな適当なことを言ったやつは?」

 どうやらアエネアスは忘れてしまったらしい。言ったのはアリアボネだ。少なくとも十人中九人はアエネアスよりはアリアボネの言うことを信用するに違いない。

 もちろん有斗も九人のほうに属することは間違いない。

「・・・アリアボネが言ったじゃないか、昔───」

 突然、有斗の脳にアリアボネのその言葉が響き渡った。

『青野ヶ原にはここ数日の雨天で山も森も草木も大地もたっぷりと水を含んでおります。今夕は西日が眩しく輝き、雲ひとつ無い空。こんな夜は冷え込みます。朝方は寒暖差で地面から吐き出された霧で一面覆われて、それこそ一足先すら見えぬくらいになるはずです。その霧に紛れて移動し、敵に気付かれぬうちに兵力を集中して敵陣の側面から奇襲し各個撃破すれば、戦力の劣る我々でも勝利する可能性は大いにあります・・・!!』

 あの時は初夏、今は秋という違いはあれど、気象条件はまったく同じだ。山中、山の傍という地形的条件も極めて似ているではないか。

 ということは明日の朝は・・・霧が出るに違いない。きっと前が見えぬほどに。

 とすれば・・・敵のこの状況は気象条件という重大な要素を見過ごして布陣していることになる、と有斗はあっと声を上げる。

「軍に加わっている者の中でこの近隣出身の者はいないかな? この周辺の地理に詳しい者でも構わない。直ぐに探して欲しい!」

 有斗の急なお願いに傍らに近似する羽林の兵たちは顔を見合わせ困惑する。だが王の願いというのは命令と同義語である。

 出来る出来ないに関わらずやるしかないのだ。早急に手分けして各部隊の内実に詳しい百人隊長に手分けして該当人物がいないかどうか尋ねに回ることにする。

「それから将軍たちを集めておいてくれ。明日の打ち合わせを早急に行いたい」


 王師は夜半に全軍を起床させると、翌払暁までに潜龍坡を抜けて敵に気づかれる前に南部南域に侵入することを期した。

 深夜にもかかわらず陣営地が明るく照らされ、人の動きが活発になる。

 だがその動きを森の中から覗いている影がある。

「夜のうちに動いたか。早くに兵士たちを寝かしつけていることから、そうではないかと思っていたが」

 一応、イロスの下には敵の動きに不穏の影ありと日暮れ前には報告してある。であるからには教団側も即応体制をとっているはずであった。

 教団は物見が潜龍坡を走りぬけ報告を受けてから動き出すことになるが、敵はぬかるんで足場が悪い上に狭い潜龍坡を抜けねばならないのに対して、味方は平原を潜龍坡の出口前まで兵を移動させるだけでいいだけだ。時間的な問題は無い。

 しかも一朝このことあるを考え、陣営地は全て街道上から外して建設している。陣営地を放棄すれば、急ぎ潜龍坡の出口を塞ぎに前方へと進出できるようになっているのだ。万事抜かりは無い。

 闇に潜んだ教団の物見は王師が動き出す前にその場を離れると、まったくの闇に包まれた潜龍坡の山道を駆け上り始める。


 山道を月明かりを頼りに駆け抜けた彼は、幸いなことに潜んでいたであろう王師方の物見などにも見つかることなく、無事に潜龍坡を抜け出て味方の陣営地に転がり込んだ。

「王師が出立した!? こんな時間に!?」

 思わぬ時間に起こされたアンテウォルトの機嫌は甚だ宜しくなかったが、それでもことの軽重を見誤る男ではない。

 その内容の持つ重要性に気付き、未だ半ば夢の世界に留まっている暢気な自身の脳細胞を叩き起こして情報から導かれる真相を考えようとした。

「潜龍坡の途中で、あるいは出口付近で我らに攻撃を受ける不利に気づいて、夜間兵を動かすことで我らの隙を突こうとしたか・・・? あるいは夜通し駆け続けて、未明に寝込んでいる我らを朝駆けする気やも知れぬな」

 なんにせよ潜龍坡の出口前で迎撃するという教団の思惑を見破って、その上を行こうとしたことだけは間違いが無い。

 だが王のその策は完遂されたわけではない。未だ実行中だ。まだこちらにも打つ手段も時間も残されている。

「急いでイロス殿に使者を! それから我が隊の兵どもを起こせ! ただちに出立するぞ! 急げ!!」

 アンテウォルトが今すべきことは一刻も早く潜龍坡の出口に兵を配し、王師の侵入を防ぐことだ。

「そうだ・・・! 後陣の諸将にも使者を出せ。早めに告げておいたほうがよかろうよ」

 それは本来は主将の仕事である。前線の一将軍が行うのは僭越だと後々教団幹部からちくちく嫌味を言われるかもしれないが、一旦本営に知らしてから各将軍の下に使者が行くのでは諸将がこの事態を知るまでに時間がかかりすぎる。何より教団幹部が状況を理解して行動を起こすまでに要らぬ時間を費やす可能性が考えられる以上、少しでも早く行動を起こすためにできることはなんでもしておくべきだ。

 そんなことを考えながら、急いで鎧を着込むアンテウォルトだったが、ふと泥まみれの物見がまだ平伏していることに気付いて声をかける。

「ご苦労だったな。水でも飲んで息を整えられよ。それとも体を温めるために酒のほうが良いか? 腹が減ったならば湯漬けでも用意させるが、どうか?」

「ありがとうございます。出来ますれば湯漬けを所望いたします」

「わかった。賄い所に連れて行ってやるが良い。夕べの残りが少しはあるだろう」

 アンテウォルトは命の危険を冒して、味方に貴重な情報を持ち帰ってくれた物見を労った。


 これで己の仕事は終わった。その物見としては肩から荷が降りた思いだった。

 だが潜龍坡を抜けるのに思った以上に時間がかかってしまった。夜の山道を疾走するのはいくら彼とても難しい。しかも折からの出水で幾度も足を滑らした。足を挫かなかったのが奇跡なほどである。

『だが王師も同じ山道を歩くことになるのだ。明かりがあるという有利さはあるにしても、同じように時間を浪費するに違いない。それに俺ほどの健脚があるわけでも無い』

 物見はそう考え、己がきちんと職責を果たしたことを疑わなかった。

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