第384話 砕けた欠片

 翌日から、晴れ渡っていた南部一帯に突如として雨が降りしきる。南部に秋雨の季節がやってきたのである。

「これでは道がぬかるむだろう。双方、足を取られて行軍速度が低下することは間違いない」

 アンテウォルトはディスケスのさかずきに酒を並々と注ぎながら、そんな話題を切り出した。

 カシウスと共に先陣を務めているアンテウォルトは早々に陣営地を築くと、やることもなく酒瓶を抱えてこうして毎日、ディスケスの陣営地を訪れていた。

 日々狭まる王師との距離にピリピリしている教団幹部から見ると、それは気の緩みとも見えているようで、しばしばアンテウォルトに対して嫌味を言ってくる。

 もっともアンテウォルトは一向に気にしない。それどころか、むしろ見せびらかすように酒を引っさげて、わざわざ本営の傍を通ってからディスケスの陣へと向かうようなことまでしてのけ教団幹部たちをますます怒らせた。

 だがアンテウォルトは考えなしにその行為を行っているわけではない。まだ大丈夫だと確信して自分の陣営を空けているのである。互いの距離はまだ一舎を切っていない。それは偵騎を出して確認済みである。いくら王が天与の人といえども、天から翼でも授からなければ、いきなりその距離は縮められない。

「特に王師はこれから山道に入る。行軍の難しさは我らの比では無いだろう。距離はそれほど稼げない。先頭の我らは昨日に引き続き、動きを止めるか、動いても半舎にしておくのが賢明というものかもしれないな。我らが麓に到着するより先に潜龍坡を抜け出ることが出来ないと王が思ってしまえば、これまでの苦労が水の泡だ」

 もちろん山道を進む王師だけでなく、平地を進む彼らにとっても雨の行軍は労苦が多い。だが全てがマイナスに働くかといったらそういうわけでもない。

「だが足の遅い教徒が多い我らにとってはこれは朗報と言えよう。これで各部隊の間に不必要にあいた間隔を詰めることが出来る」

 一日の行軍距離が短いほうが、教徒が歩くのに余分に費やす時間も少なくなる。よって、教団側に日々生じて頭を悩ます元になっている、全体の行程に対する遅滞を新たにはもたらさないであろう。

 よりによって全軍の中で中段に位置することになった教徒たちの足の遅さのせいで、軍が二分されかねない状況になりかけていただけに、これは教団にとってプラスに働くはずだ。

 ふとディスケスが視線を横へとずらし陣の外を見ると、バアルが馬に乗って通り過ぎようとしている姿が目に入った。

 バアルの部隊はディスケスの陣より更に後備に位置する。おそらくディスケスの前に位置するイロスら教団幹部らに思いついた作戦の細部の修正案でも披露しに行くのであろう。

「今日もバルカ卿は教団幹部たちの元へ日参か、ご苦労なことだな」

「おおかた、この雨で作戦行動が遅れることで、生じる不都合や危険性を教団幹部どもに喚起させようというのであろう。少しでも勝利の可能性を高めようというところかな」

「マメなことだ。我らにはそのような情熱はひとところもない」

「いやいや、まったく。若いというのはいいものだて」

 バアルの王との戦に対する不屈の情熱には彼らとて大いに敬意を払わねばならないものだった。

「若さだけではないかもしれん。デウカリオ殿とて同じだ。教団幹部の無能さに失望し、バルカ卿のような提言などはしない上に、教徒どもの存在をもはや無いものとし、自分の出来る範囲内のことのみ専念しているが、それでもあの王から勝利を奪うことを諦めていないことには変わりが無い」

「アンテウオルト殿もな。いやはやカヒの者というのは、どうやら主のカトレウスと同じく野望と自信に満ち溢れた男たちのようだ。あれでなかなか可愛げがある」

「まったく、まったくそうだ。敵として戦っていたころは正義のなんたるかを解することのない、ただ戦うだけが生き甲斐の鬼のような連中だとばかり思うておったが、こうして毎日顔を突き合わせていると見えるものもある。なかなかどうして・・・人間味があるではないか。戦場でやることは抜け目なく、狡猾で残忍でさえあるのに、陽気で明るく稚気にあふれておる。・・・ひょっとしたら、カトレウスもそんな人物であったのかも知れぬな」

「度し難い愚か者であるが、同時に極めて楽天的で理想家な性分であるらしい。我らなぞよりよほどな・・・教団のこの数々の醜態を見ても、自分たちが力戦すれば、いまだ勝てると思っているところなど特にな」

 テイレシアに代表される彼らは現世の利益に目を瞑り、観念的な正義というものを標榜して戦ってきたからには、さぞかし楽天的で理想化肌な人間の集団であろうと世間の人は想像しがちであるが、実態はさにあらず。

 もちろん最初は彼らは真っ直ぐに心から正義を信じていたからこそ、標榜していたのではあるが、いくら正義を掲げて戦い続けても、いつまで経っても世は変わらず、彼らに共感して共に大事を成そうとする同志も現れなかった。現れるのは彼らを馬鹿にして利用しようとする者ばかり、彼らは現実に打ちのめされ、失意の海に当てもなく漂っていた。

 彼らは既にこの非情な世の中に対して達観しきっていたのだ。

 それでも彼らが戦い続けていたのは、テイレシアと共に正義を掲げて戦うことで、在りし日の輝いていた自分たちを思い出すことができたから。

 砕けた夢の欠片をそっと握り締めることで、今や見えなくなったものでも、かつてのように見えるような気になることができたからだ。

 だが今やそのテイレシアも、共に夢を見た仲間もこの世からいなくなってしまった。かつて見た夢と同じように何一つこの世を変えることなく彼らの前から全て消え去ってしまったのだ。

「もはや我らはそのようなものを望んではおらぬ」

 ディスケスの言葉は悲しげだった。アンテウォルトも憂いをたたえた顔でその言葉に重々しく頷いて同意を示す。

 彼らにはもはや王に勝利することなどどうでもよいことであった。王に勝利したとしても失われたものは何一つ戻ってこないのだ。

「オーギューガの武辺の意地を世に示せれば、それだけで十分だ」

「ああ・・・その通りだ」

 二人はそう言うと黙し、空虚な胸を埋めるかのように杯を勢いよく空にする。そして互いの空になった杯に代わる代わるに酒を満たしては幾度も飲み交わした。

「後の世の者は我らのことをどう言うであろうかな。地獄の鬼も得物を投げ出して逃げ出すほどの戦国の世に、気高くも大義を掲げて一生を過ごした泥中の蓮のような存在と見てくれるだろうか。それともこの現世にありもしない理想などというものを掲げて、その実現に有限な人生を費やした狂人と見るだろうか」

 それは深刻な疑問だった。彼らが人生をかけて行ってきたことがまったくの無駄ではなかったかという疑問は、彼らの人生そのものを否定することと同じなのだから。

 だが彼らの掲げた大義は戦国の世を終わらせることは出来なかった。その理想は叶うことなく天与の人の前に無残に打ち砕かれた。戦国の世を集結させたのは彼らとは違う理想を掲げ、彼らをその手で打ち砕いた有斗だった。

 このままでは彼らがこの戦国の世で成し遂げたことは、カトレウスの野心の前に立ちふさがり、その覇業を遅らせたことだけだったということになりかねない。

 彼らの理想はただ戦国という荒波の中で僅かなさざ波を立てたに過ぎなかったということなのだろうか。

 そうだとすると他人の目から見れば、彼らの立場は恐ろしく喜劇的なものに感じられるであろう。

「・・・あるいは天与の人に逆らった度し難い稀代の愚か者と言われるかも知れぬな」

 アンテウォルトはそう自嘲すると酒をあおった

「いや・・・愚かではあっても、偉大な精神の持ち主であると見てくれるに違いない。全ての人がそう見てくれることは無いかもしれないが、きっと心ある一握りの人間は我らの生き様を見て、そう感じとってくれるはずだ」

 ディスケスはそう思った。いや、そう信じたかった。

 確かに彼らの夢は結局のところ、叶わなかった、それは誰が見ても間違いが無い。彼ら自身が見てもだ。

 だがそれをもって彼らの人生全てを否定し、嘲笑の対象としていいということにはならないはずだろう。

 第一、それでは人が人生を懸けて何かをすること自体が無駄ということになる。

 何故なら、抱いた夢を全て叶えることが出来る人など限られているからだ。いや、そんな幸せな人間は人類始まって以来、一人もいなかったに違いない。誰もが挫折し、妥協して来たに違いないのだ。

 夢を叶えられない人生が愚かで滑稽で無駄であるというのならば、全ての人の人生を否定することになる。

 人が生きることそのものが無駄ということになる。それではあまりにも生きるということが遣り切れないではないか。

「そうだな・・・その実現を目指して一生を費やしたテイレシア様の為にも、是非ともそうであって欲しいものだ」

 テイレシアのことを語る時の彼らの顔はまるで憧れの人について話す少年のように輝いていた。頬を赤らめていたのも酒のせいだけではあるまい。

 もちろん、彼らには愛する妻も子も既にいる。

 テイレシアは彼らにとって実際の血肉を持った情念の対象となる女性ではなかった。バアルにとってのセルウィリアにあたる存在ではなかった。

 そうではなくテイレシアは永遠の偶像アイドルなのだ。青春を共に過ごした彼らの女神だったのだ。

 彼らの思慕と憧憬をテイレシアは一身に集めていた。

 テイレシアを手に入れたいと彼らは共通して思ってはいたが、それは女性としての肉体といったものが目的でなく、彼女の理想の為に働き、功名を立て彼女の心を虜にするといった精神的なものだった。

「テイレシア様の為か・・・」

 アンテウォルトはその敬愛する人の名前を口にすると、突然、顔を曇らせる。

「テイレシア様の為に皆、死んでしまった・・・我ら二人を除いてな。だが彼らはある意味幸せだった。テイレシア様の掲げた大義が王の前に敗れ去り、夢は結局叶わずに途中で終わりを迎えるという悲劇的な結末を知らずにすんだのだから。我らのように人生の意味、自分の存在価値について悩まなくてもすむのだからな」

「そうかもしれぬな・・・」

「だが同じ戦場にいながら逝きそびれてしまった俺はどうすればいい?」

 口調も言葉も重かった。アンテウォルトの言葉には彼にしか知りえぬ孤独が詰められていた。

「俺はあの日以来、毎日夢を見る」

「・・・夢?」

「俺はテイレシア様やカストールたちと共にあの白鹿館にいる。かつて日常だったあの光景だ。庭で剣術の鍛錬をするものもいれば、すごろくに興じている者もいる。横でこっそりその勝敗について賭けている者もいたり、かとおもえば部屋の隅で本を一人泰然たいぜんとして読みふける者もいる。テイレシア様はそんな俺たちを見て、ただにこにこと笑って座っておられる・・・そんな当たり前の風景。だが急に王が上州を攻めたと報告が入り、皆は慌てて戦支度をして出て行くんだ。もちろん、俺は声をかけて止めようとする。そこに行っては駄目だ、王と戦ってはいけないと大声を出すんだ。だが俺の声は彼らには届かない。彼らの体に俺は触れられない。そして彼らは俺をおいてどこかに行くんだ。もちろん俺も行こうとするんだが、何故か体は動かない。俺だけがひとり、館に取り残される・・・そんな夢だ」

 アンテウォルトは心中、苦しかった。主たる将で自分一人だけが生き残ったことに申し訳なさと恥ずかしさで一杯だった。

 もちろんそれにはきちんとした理由がある。会戦初期段階で甚大な被害を出さざるを得なかったアンテウォルトは、配下の将士を無駄死にさせぬためにも早くに撤退を決断せねばならなかった為、まさかテイレシアが苦戦に陥った結果、その場で最後の決戦を行おうとは考えもしなかったし、知ることも出来なかったのだ。

 だがどのような理由があろうとも、牧野が原でテイレシアと彼以外のオーギューガの宿将は全滅し、彼だけが生き残ったことは事実である。

 そのことが彼を大いに苦しめていた。

「生きているのが辛いんだ。・・・何故俺はあの戦場で死ななかったんだろう」

 そう言うとアンテウォルトは目を両手で覆い、さめざめと泣いた。

「いいではないか。少なくとも御館様の最期の戦場に共にいれたのだから。私も同じ戦場で戦いたかった。御館様の為に槍働きをしたかった。そなたが力戦したことはオーギューガの誰もが知っている。そなたが一人生き残ったからといえども、誰もそなたを攻めたりはせぬよ」

「・・・・・・」

 それを言われるとアンテウォルトとしては返す言葉も無い。共に戦う機会すら与えられなかったディスケスはアンテウォルトよりも遥かに辛いに違いない。

「泣くことは無い・・・まもなく共に御館様の元へと逝けるであろうよ」

 そう言うとディスケスは杯に満たした酒を一気に喉元に流し込んだ。

 それ以上、悲しみが心の奥から出てこないようにするために。

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