第383話 潜龍坡を前にして

 敗走を続けていた教団は南部南域の出口付近で突如として立ち止まり、そこで活動を停止した。

 有斗は関西の諸侯の兵が集まったのを見計らって、膨れ上がった軍を率いて南京南海府を後にする。

 畿内だけでなく南部でも次々と武器を持った民が加わり、その数は総計十二万を越えた。もはや教団をその兵数の差で怯える必要はなくなった。

「南部南域は彼らの巣です。そこに王師の足が踏み入ってしまえば、後方兵站拠点を荒らされるのと同義、長期戦を行うことが出来なくなります。教徒たちに与える心理的な影響も大きい。最終防衛戦をその前で行おうとするのは理に適っています」

「あるいは・・・我らと戦うのに有利な地形を見出して、そこに我らを誘い込もうとしているのかも」

 教団の目的に対する諸将の意見はまちまちだったが、これを決戦を行う好機と見ているという点では一致していた。

 補給は王都にいるラヴィーニアが寸分たがわぬ正確さで行っていたが、朝廷にこの大兵力を維持して数年にわたる長期戦を行う力が無いということは皆が熟知していた。南京南海府という安全な甲殻を失ったヤドカリのような教団を打ち負かすのは今しか無いという思いを共有していたのだ。

 有斗は偵騎を出して、引き続き教団の動静に油断なく目を配りながら、南部南域に向けて進軍する。

 静まり返った教団の軍が動きを見せたのは、王師との距離が六舎に近づいた時だった。

「教団が動き出したって? やっとか! で、どこが決戦場になりそうかな?」

 てっきりこちらに向かってきているとばっかり思った有斗は地図を広げると物見に敵の詳細な動きを指し示すように促した。

 だが有斗の期待に反して、物見は申し訳なさそうに頭をうなだれるばかりだった。

「それが・・・敵は我が軍に背を向けて、再び後退をはじめたようでして・・・」

 その報告に有斗は唖然とした。開いた口が塞がらないとはまさにこのことであろう。

「・・・敵は何を考えているんだ!?」

 一旦、移動していた軍を止めたからにはそこに何らかの思惑があったはずである。混乱の収拾、防戦、あるいは反転攻勢。だが再び無意味な後退を続けては、全てが水泡に帰すではないか。いったい教団の首脳部とやらは何を考えているのだろうと、有斗は彼らの正気すら疑った。

「いざ決戦を目の前にして、臆してしまい、慌てて後退を始めたってとこかな」

 そばにいるアエネアスも教団の考えが掴めず首を軽く傾けるだけだった。

 だが、と有斗は慌てて思い直す。王師が近づいたので慌てて逃げ出したというのでは、六舎では少し遠すぎやしないか。何か不逞な意図がこの退却劇には込められているのかもしれない、と。

 敵にはバアルだけでなくデウカリオやディスケスといった名の知れた多くの良将がいるのである。

 たった一度の野戦で勝ったからといって敵を愚か者と侮るのは墓穴を掘る行為に他ならない。

「少し王師の足を速めたほうがいいかもしれないな」

 教団の意図が何であるかまだ分からないが、敵の思惑に乗らないためにも、少し通常とは違う動きをしてみることで敵を揺さぶり、敵の出方を見て思惑を探るといった行為が必要かもしれない。

 もちろん教団がただ逃げているだけで意図などまったく無いといったことも無いわけではないけれども。


 数日後、少し足を速めて前進を続ける有斗の下に容易ならざる知らせが舞い込んできた。

 南京南海府より南部南域に入るには大きな障害がある。南部中央部を南東から北西へと貫通するヴィオティア山脈という急峻な山岳地帯が立ちふさがっているのである。

 教団がそのヴィオティア山脈を抜けて南部南域へと後退したという知らせだ。

 ヴィオテォア山脈に入ったこと自体は既に昨日のうちに確認していた。

 だが現場は細く険しい山道、見通しが悪い。かといって物見が不用意に近づくことも出来ず、敵の動静を把握するのに時間がかかった。

 有斗をはじめとした将軍たちも前日に敵が山岳地帯に兵を篭めて防戦する可能性について論じ合っただけに、敵が南京南海府にも勝るとも劣らないその要害の地をあっさりと捨てたことに戸惑いを隠せなかった。

 立て続けに起こった怪事に頭を混乱させながらも、ともかくも王師はヴィオティア山脈に近づいていった。

 だがヴィオティア山脈まであと三舎を切った時点で、止めとばかりにさらに有斗を混乱させる事態が巻き起こった。

 突如として教団は軍を反転させ真っ逆さまにし、今度は王師に近づいてきたのである。


 ここまでの退却は王師を誘い出す罠であったのか?

 だとしたら何の目的で?

 それとも急にヴィオティア山脈の戦略的重要性に気がつき、兵を返す気になったとでもいうのだろうか?


 答えが導き出せずに混乱する有斗の前に敵が迫る。王師と教団はこのままならばヴィオティア山脈近辺で激突することになるだろう。


 南京南海府から南部南域へとヴィオティア山脈を抜ける大きな道はひとつしかない。

 その道を潜龍坡せんりゅうはと言う。

 とは坂道や斜面のことである。南部南西部に連なる連山のひとつヴィオティア山脈には山を穿うがつように一本の道が貫いている。

 両側を切り立った崖で挟まれ曲がりくねるその山道は、天から堕ちてきた龍が大地に潜んだ痕だという神話を持ち、潜龍坡と呼ばれ、天下の険として知られていた。

「潜龍坡を越えても敵影なし」

 偵騎は予想に反して一人も欠けることなく帰還した。

 敵が一旦ヴィオティア山脈を離れるにあたって一部の兵をどこかに伏兵として隠している可能性を考え、広範に偵騎をばらまいたのに、その探索の網に引っかからなかったということだ。おそらく伏兵は無い。

 教団は一切の伏兵を配置せずに真正面から王師と激突する気なのだろうか。

 ならば敵との距離はおよそ三しゃ。有斗はすばやく頭の中の地図で敵との距離を割り出す。

 舎とは建物を意味する。軍で使われるときは兵舎を指す。転じて兵舎を建てる距離、すなわち軍隊が一日に行程する距離をも指す。一舎は約十五キロメートル、三舎は約四十五キロだ。

 昨日は敵との距離は四舎だった。王師が一日で一舎進んだ以上敵も進むと考えると、普通なら二舎に縮まるはずだ。とすれば敵は何故か潜龍坡を目前にして足踏みしたということになる。


 潜龍坡は幅が狭く、曲がりくねり、見晴らしが利かない。一度入り込めば今自軍がどういう形でいるか把握するのすら難しい隘路あいろだ。

 有斗が敵の立場ならどうするか、と考えを馳せる。

 南部南域へと向かって緩やかに続く坂道のいずれかの途中に兵を伏せ、軍が中ほどまで過ぎたところで一斉に両側から兵を立たせて痛烈に叩き、初手を取る。それが常道である。

 そうすれば戦の主導権は教団のものだ、上手くすれば将の一人二人は討てる。両軍合わせて二十万を越えるであろう戦国始まって以来の大戦だ。その局地戦だけで全ての決着が着くことはないだろうが、引き続き行われるであろう決戦の、少なくともその緒戦に勝ったという自信を味方に与えられるというのは大きい。

 だがそのためには今日中には潜龍坡に軍を入れておく必要がある。

 昼間は我々を油断させるためあえて休憩し、夜のうちに、または明日早朝に兵を動かし、潜龍坡に兵を潜ませるということも考えられるが・・・

 潜龍坡は険しい。暗闇の中、兵を進軍させるには危険を伴う。また短時間で気配を残さず兵を埋伏させるのは、どんな熟練した将士をもっても至難の業。兵を伏せたことに気付かれれば、伏せた兵は単なる高所に布陣した、連絡と補給に難をきたす孤軍でしかない。

 それならば王師は戦うことなく包囲し糧道を断つだけで勝利を拾うことができる。


 だが、それはおそらくないだろう。敵はそれほど愚かではない。

 有斗は未だ見ぬ敵指揮官の顔を想像するに、無意識のうちに端正な顔立ちをした一人の男をイメージしていた。

「バルカがそんな馬鹿げた戦をする男だったら、僕はもっと楽に天下を手に入れていたな・・・」

 ということは、それができない理由があるというのか?

 あるいは・・・有斗たちを誘っているのか?

 あえて潜龍坡を空にし、その出口を塞ぐような形で布陣し、もし王師が隘路あいろを抜けてきたなら、陣形も組ませぬうちに先頭から順に叩いていく。

 王師は兵を送るのに細くて狭い潜龍坡を抜けねばならない以上、戦力を逐次投入する形になる。優位に戦闘を進めていくことができるだろう。

 それも定石じょうせきではある。

 だがそれであるにしても少しもこちらに近づいていないのは納得できない。

 なぜなら、このままの進軍速度を保ちさえすれば、王師全軍は教団の兵の妨害を一切受けずに、南部南域へと足を踏み入れることが出来ることになるからである。


 いやバルカのことだ、潜龍坡だけではなく戦場となるサマリア高原全体を見て、戦を組み立てようとしているのかもしれない。油断は禁物であると、頭の中で地図を広げ、有斗はしばし考える。

 だが諦めた。有斗にはそんな芸当は逆立ちしても不可能だ。しょせんこの世界に来てから必要に迫られて付け焼刃で兵法を覚えただけの有斗には七経無双の名を誇る男と真正面から戦略や戦術を戦うというのは荷が重い仕事だ。

 ふと、ここに至るまでに有斗を支えてくれた人々の顔が浮かぶ。

「アリアボネやアエティウスが今ここにいてくれたなら、僕に何をするべきだと助言してくれるだろうか」

 もしできるというなら、救いを求めるように彼等に手を伸ばすだろう。

 だが伸ばしたとしても、その手はもう誰も取ってくれないのだ。全ては王である有斗が決めなければならない。

 彼等はもう幽明界ゆうめいさかいことにしているのだから。


 有斗は空を見上げた。蒼い空は沈み行く夕日で紅く染まりだしていた。

「戦いは明日ではなく、明後日になりそうかな」

 有斗の視界の端にその声の持ち主の、夕日のように赤い色の髪が風になびいて横切る。

 小高い丘の端に上って一人思案に暮れたまま、いつまで経っても戻ってこない有斗が心配になってアエネアスが傍に来たのだ。

「おそらくは・・・ね。でもこれが最後の戦になるだろう。これで全て終る」

 有斗は横に立って同じように夕日を見つめるアエネアスにそう告げた。

 そう、これで戦乱は終る。有斗が勝つにせよ、教団が勝つにせよだ。

 約束した。

「これで戦国の世を終らせる」

 アエネアスと・・・そしてセルノアやアリアボネやアエティウスやラヴィーニア・・・いや、アメイジアの民全てにそう約束したんだ。それが叶う日が遂に来る。だけどその為に多くの犠牲を出し、多くの命を奪った。平和を得るために必要な犠牲だと言い訳して。


 だがもし、と有斗は思わずにはいられない。

 ここで有斗が負けたほうがより良い世界になるのだとしたら、有斗はどうしたらいいのだろう。

 性質たちの悪いことにその可能性はゼロではない。

 アメイジアに平和をもたらすために、良かれと思って政治を執り行っているつもりではあるが、結果としてもたらされたものはこのような反乱劇である。アメイジアの民にとって有斗の正義は正義ではなく、単なる押し付けがましい親切でしかないのかもしれない。

 有斗は確かに武力による天下統一を成し遂げた。だがその状態がイコール平和であるわけではない。武力での統一とは言い換えれば、既存の権力構造や支配構造を破壊することであり、平和にするというのは新しい秩序を作り、それを未来永劫続くように創造することなのである。

 二つは二律背反、まったく違うものなのだ。ならば平和にする役目を負うのは有斗ではなく、誰か違う別の人物ということになりはしないだろうか?

 この世界における有斗の役割はカトレウスを倒したことで既に終わってしまっていたのかもしれない。

 何万もの犠牲を強いたのが、本当に平和の為だと言うのならば、死んでいった彼らのためにも、世界が平和になるというのならば、この世界の為に有斗は喜んで死ななければならないのではないだろうか。


「セルノア、君が僕を天与の人であると信じてくれたからこそ、僕は君の想いを汚さぬように、そうであろうと努力してここまで来れたんだ。ならばこれから僕は一体どうすればいいのか、君がここにいたならばもう一度、僕に未来を指し示すことができるのかな? 僕を導いてくれるのかな・・・?」

 有斗は考えにふけるあまりに、心中で密かに行われていたその思案を思わず口に出したことに気がついていなかった。

 有斗の口から飛び出た名前に思わずアエネアスは有斗に振り向いたが、有斗のいつにない真剣な表情に声をかけそびれる。

「・・・・・・」

 だが有斗の瞳は現在でなく過去を見つめていた。有斗を心配して振り向いたアエネアスのことなど目に入らない。

 焼けゆく空をいつまでも見ながら、有斗はこの世界に来た日のことを、昨日のことのように思い出していた。

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