第387話 潜龍坡の戦い(Ⅲ)

 カシウスが死の直前まで待ち望んでいた援軍であったが、濃い霧に阻まれて見えなかっただけで、実は既に戦場に到着していた。

 日が昇ってもなかなか霧が晴れずに道に迷ったアストリア隊とカレア隊は、戦場への到着が遅れたものの、この時点で既にカシウス隊の真後ろの位置にまで来ていたのである。

 善戦を続けているアンテウォルト隊と見比べて、より苦戦しているカシウス隊の支援に回ろうと、後方を迂回中だったのだ。

 あと半刻、いやほんの少しだけ持ちこたえることが出来たならば、カシウス隊は持ち直すことが出来たであろう。

 だがそれは全てあくまで『もしも』の話である。ようやく到着した援軍の援護を受ける前に、主を無くしたカシウス隊は四分五裂し、王師に追い立てられ甚大な被害を出しているというのが現実だった。

「遅かったか・・・!」

 カシウス隊の側面を攻撃するリュケネ隊の側面に回りこむことによって、今度は逆に王師を劣勢に追い込もうというアストリアの戦略は破綻した。

 こうなってしまった以上、戦線の一角に開いた穴から王師が雪崩れ込んでくるのは必定だ。そうなればアストリア、カレア隊とアンテウォルト隊は分断され有機的な繋がりを失い、組織的な反撃は行いがたい。

 戦闘に加わったばかりだというのに当初から、三方を囲まれるという劣勢な状態に追いやられることは間違いない。

 アストリアにできることは友軍の撤退を援護して出血を少なくすることくらいである。

「油断するな! カシウス隊の後ろから敵が直ぐに来るぞ! 右側はカシウス隊の兵のために空けておけ。正面と左側面は敵の襲来に備えよ! 急げ!!」

 味方の敗走に動揺する配下の兵の手綱を引き締めつつ、アストリアは手早く正確に、そして効率的に陣形を移動陣形から迎撃に適した陣形へと変形させ王師を迎え撃つ準備を進める。

「さて、カレア隊はどう動くかな」

 ちらりと頭を過ぎる不安と共にアストリアは一傭兵上がりだという教徒上がりのその将軍の部隊を見遣った。

 コルペディオンのように教徒たちが恐怖に駆られて後ろを見せて逃げでもしたらアストリアといえども戦は終わりである。敵が至近距離に迫ったこの状態でそんなことになれば、王師は一方的に殺戮を欲しいままに行うであろう。組織的な抵抗の手段をなくしたカレア隊の兵は逃げ惑うことだろう。しかし退路には既にカシウス隊の兵でいっぱいなのである。アストリア隊に逃げ込む兵も出ることだろう。

 つまり、その混乱は横にいるアストリア隊にまで波及して、戦う前にアストリア隊は崩れ落ちることになる。

 できれば隊形を維持したまま退くという決断を下してくれるとこちらとしては大いに助かるのだが、とアストリアは軽く祈った。

 そうすればカレア隊、アストリア隊とで歩調を合わせ、カシウス隊の援護を行いつつ組織的に兵を退くことが出来る。

 孤立したアンテウォルト隊には悪いが、それが一番確実に敗北の損害を小にし、この場より生きて逃れる確実な方法であった。

 アストリアはカレアなる人物が常識的な判断ができる将軍であることを切に祈った。全面崩壊だけは避けたいのだ。


 アストリアと違い、この教団の騒乱に紛れて一旗も二旗も揚げてやろうという野心だけで加わっているカレアには味方の逃走を手伝ってやろうとか、あるいはしばし戦線を押しとどめて、いつ来るか分からない後続の味方を待とうなどという殊勝な心掛けはちらりとも心に無かった。

 だがこのままここでただ後ろを見せて逃走にかかっても、無駄なことも分かっていた。

 潰走するカシウス隊がカレア隊の後方を扼すような形に蓋をしている以上、逃げたくても逃げ道が無かった。無秩序に後ろを見せれば敵はここぞとばかりにカレア隊にも襲い掛かってくるに違いない。

 先に逃げ出したカシウス隊の生存者は増えるであろうが、逆に後から逃げ出したカレア隊の死亡者は増える。

 別に部下が何人死のうがカレアは一向に責任も痛痒も感じないという実に人をくった性格をしていたが、問題はその増えるであろう戦死者の中に自分の名前が入りかねないことである。

「チッ、しゃーねぇ。ここは歩調を合わせて一手になって、戦いながら退くしかないか」

 不本意ではあるが、ここはアストリア隊に倣って足並みを揃えて防衛戦を行い、撤退する機会を窺うしか手は無い。

 いざとなればアストリア隊を盾にして逃げるという選択肢も増えるしな、とカレアは内心で素早く功利的な計算を立てる。

 それにアストリア、カレア隊の後ろからも続々と教団の部隊は今も潜龍坡目指して陸続と駈け上がっているはずである。

 彼らと一手になれば戦線を建て直し反撃するということも夢ではない。

「アストリア隊に使者を! 撤退の手法の細部を詰めるぞ!」

 カレアは使者を送ってアストリアに判断を仰ごうとした。なんといっても将軍としてものが違うし、踏んだ戦の場数が違う。そうするのが賢明な手法であった。

 それに誇り高きカヒの旅長、誇りにかけても、また自らが生き残るためにも、殿という危険な役目は自ら行うだろうし、撤退に失敗したときには責任を押し付けることが出来ると、カレアはしたたかに計算したのだ。

 だが、そうしている間にもカレア隊に加わる王師の攻撃の手は増えていき、カレア隊の陣形は少しずつ変形を生じていた。

 教徒で構成されたカレア隊は王師に比べると劣弱なのである。アストリア隊のように効果的に王師に抗することができていなかった。


 王師は既に潜龍坡へ五軍を入れることに成功していた。もはや出口を塞いで王師を押し留めることは神にでも不可能なことであった。

 カシウス隊は崩壊し、カレア、アストリア両隊にはザラルセン、エレクトライ、リュケネの三軍が襲い掛かっていた。

「どうやら私の出番はこちらにはなさそうだな」

 五番目に戦場に到着したエテオクロスは前方を塞ぐ三隊を恨めしそうに眺めながらそう呟く。

 敵にありつこうにも前方は三軍団が半ば混成しながら埋め尽くしていたし、その三部隊の外側から回り込むのは少しばかり手間だった。

 第一、霧が濃くて周囲の地形が見えない。回り込んだはいいが、そこは崖でそれ以上進めなかったとかであったならば、目も当てられない。

 陛下に頼んで地元の者を一人二人付けて貰うんだったかな、とエテオクロスはいまさら悔やんだ。

 だが霧で目が使い物にならなくても、耳は十分にその役目を果たす。

 エテオクロスはその時、前方からの音に隠れがちだが、僅かに左からも違う剣戟音が響いていることに気がついた。それはベルビオ隊とアンテウォルト隊が繰り広げている激戦の音だった。


 視界不良のため、王師の各隊は直ぐ前の部隊に付いて行く形で戦場に展開した。

 ベルビオ隊の右へと移動して側面強襲を図るであろう敵を探して第二陣であるザラルセン隊が右へ右へと移動した結果、計らずもベルビオ隊とアンテウォルト隊は主戦場から外れることとなったのである。

 ベルビオは孤立無援でアンテウォルト隊と一進一退の互角の攻防を二刻もの間、繰り広げていた。

「どうやら大きく回りこまねばならない右よりも左側の方が兵は少なそうだし、敵もいるようだ。あちらへ行ってみるか」

 木霊である疑いもまだ頭の片隅にはあったが、前方の戦場に旗が見えない先頭のベルビオ隊が敵と戦っているのかも知れぬと思い直すと、エテオクロスは隊に命じて大きく左へと旋回させた。


 ベルビオ隊が直面したのは、隊単位でも、備え単位でもない完全な乱戦。百人隊長の指揮すら届かぬ血風吹き荒れる大混戦である。

 こういった事態にまで物事が悪化すると、個人の勇気と膂力りょりょくが何よりもものを言う。そういう意味ではこの混戦はまさにベルビオ向きの戦場とまで言える状態だった。

 自慢の大双戟を右へ左へと回転させ、兜を叩き割り、鎧を刺し貫き、盾をし折った。ベルビオの戟に触れて倒れないものはなく、アンテウォルトの兵は恐れて後ずさった。

 しかしベルビオの超人的な働きによっても戦局が好転する様子は見られない。それどころかアンテウォルト隊が、たびたびベルビオ隊を押し込める様子すら見られた。

 僅かばかりに指揮下に残った僅かな兵を器用に使って、アンテウォルトは混乱する味方の指揮系統を整えて、戦場の支配権を得ようとしていた。一人の戦士としてはベルビオにとうてい敵わぬが、将軍としてはアンテウォルトの方が一枚も二枚も上手だった。

 だがアンテウォルトは戦場全体の局面を左右するだけの兵も権限も持ち合わせていない。

 カシウス隊が崩壊するのとほぼ同時に、エテオクロス隊がベルビオ隊を大きく回りこんでアンテウォルト隊に横から攻撃を加え始めた。

 側面に割く兵力を所持していないアンテウォルトは、巧妙に攻撃と撤退とを織り交ぜて戦列を湾曲させ、その曲面でベルビオ隊、エテオクロス隊の攻撃をひとたび急襲し、一旦、膠着こうちゃく状態に持ち込んでから打開の手段を探ろうとしたのだ。

 それは半ば成功し、半ば失敗した。曲面を形成し、二方向からの攻撃を辛くも受け止めたアンテウォルト隊だったが、二刻にも渡る激戦で将兵の体力が限界に達していたのだ。そのため、攻撃を押しとどめるのに、この戦闘で最大の犠牲者を出すこととなった。

 しかも、そうこうしているうちにカレア隊、アストリア隊が退却を開始したという知らせがもたらされた。

 ことここに至ってはアンテウォルトはついに抗戦を諦め、撤退を決意する。

 だが手短に撤退の段取りを旅長や百人隊長たちに伝える間にも、アンテウォルト隊の旗色は悪くなっていった。

 ザラルセン隊、エレクトライ隊、リュケネ隊は後退するカレア隊、アストリア隊を追撃するだけでなく、一部の部隊は戦場に孤立するアンテウォルト隊の背後へと回り込む動きを見せたし、正面のベルビオ隊もようやく平静を取り戻して組織立った攻撃を見せるようになった。側面からはエテオクロス隊に続いて来たヒュベル隊が攻撃に加わって、事態はまさに四面楚歌といった情勢に変容を見せていた。

 前後左右から繰り出される攻撃に翻弄され、アンテウォルト隊の旗は風も無いのにくるくると回る。

 アンテウォルトにはカレアやアストリアのように優雅に撤退線を行う余裕は与えられなかった。

 放っておけば逃げ道は塞がれ、周囲を完全に包囲されるのである。

 アンテウォルトは攻撃を受けつつも、隊を一本の鋭い槍に纏め上げ、敵の包囲の薄いところ目指して突撃させた。

 後ろに回りかけたリュケネ隊の兵を突破して逃れえたアンテウォルト隊の兵は千に満たなかったという。


 この瞬間も潜龍坡から続々と王師の兵はサマリア高原へと吐き出されていた。

 それに対してカレア隊、アストリア隊が到着してから幾分経つのに、一向に教団側の後続の軍は姿を現さなかった。

 次のメネクセノス隊とプリュギア公の兵は少数である。その分、部隊の移動などには小回りが利くはず。未だ来ないことはおかしなことだった。といっても彼らが怖気づいて来ないわけではない。

 この二隊は知らせを受けた後、直ぐに出発しようとしたのだが、そこにイロスから急遽きゅうきょ命令が届き、イロス率いる教団の中核部隊と行動を共にするように命じられたのだ。

 軍としてまとまって動かねば各個撃破の対象になることにイロスが気付いたのだ。この二隊は規模が小さいだけに、特に留意したということであろう。

 とはいえ、それでは教団の露払いのようなものである。そんな役目を負わされたことに二人は不満たらたらであったが、総大将の命である。従わないわけには行かなかった。

 だが教徒が集結するのに遅れ、暁七ツ半(午前四時頃)になってようやく出発できた。

 しかも彼らと第三陣は陣営地が近かったのに対し、同じ第二陣であるカレア隊、アストリア隊とは距離をとって陣営地を築いていたことが運が悪かった。そして潜龍坡へ向かう道の分岐点に似たような目印がある箇所があったことも運が悪かった。

 霧という特殊条件、前方を進む部隊を視認できないという悪条件もあったが、途中、三度ほど道を間違え無駄な時間を費やすなど、総大将であるイロスの判断にも大きく問題があった。

 しかも兵の練度にも問題があり、これらの要因が複雑に絡み合った結果、進軍は順調にはいかなかったのだ。

 街道という容易な移動手段があることにおごって主戦場から離れた土地に縦長の陣形を敷き、霧という特殊な気象条件をかえりみなかった教団側は大きく後手を踏んだのである。

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