第381話 拒絶
延々と何キロも連なる
二十万もの軍をひとところに宿営させる場所などどこにもあるわけもなく、軍は日が暮れれば行軍を停止し、道々に沿って思い思いにその晩の宿営地を作ることになる。
その全ての人間が一晩過ごすのに適した地に宿営できるとは限らない。おまけに数が多い。おかげで水や
このことを起こることを想定し、水や薪をある程度確保していたのはバアルやデウカリオら傭兵隊くらいなものである。
しかも同じことはもう何日も起きているというのに、教団幹部は一向にその対策をする気配が見られない。それらを手配し、配分するといった
揉め事が殺し合いや兵乱に発展してから動いたのでは遅いのであるが、教団幹部はそうは思わないらしい。
かといってバアルらは自らの部隊のことだけで忙しく、こういう時に当てになりそうなガルバは全部隊に食料を供給することだけで手一杯であったから、彼らとしても結局は放置するしか出来ることはなかった。
バアルはその日も自分の天幕で一人になると椅子に深く腰掛け、ぐったりと肩を落とした。
一日の半分程度しか行軍してないのだ。肉体的な疲れはない。ただ、心理的な疲れが大きかった。
小さな明かりが僅かに照らしているだけの仄暗い天幕内はまるでバアルの今の心中を表しているかのようであった。
「溜息なんてついてあんたらしくないね。どうした? ソラリア教に手を貸したことを後悔でもしているのかな?」
油断しているところに突然、横手から声をかけられ、バアルは慌てて椅子から飛び上がり、反射的に剣を抜いて、切っ先を声のした暗がりに向けて薙ぎ払った。だが何かを斬った感触はない。空を斬っただけだ。
バアルは剣を振りぬいたまま身動きしない。だがそこにあるのは再びの静寂。気配はない。
「気のせいか・・・」
これは本格的に疲れているな、とバアルが剣を
「いや、違う。気のせいじゃないさ」
バアルが再び振り返ると、そこにはいつぞやバアルの命を狙った女刺客が闇に身を沈めるようにぼんやりと存在していた。
「ふん・・・本当に神出鬼没だな」
バアルは相手の手先をじっと凝視し警戒しつつ、ゆっくりと剣へと手を伸ばす。
「おっと、待った! 今日は首を狙いに来たんじゃないのさ! 騒ぎはごめんだよ」
なんとあれほど血に飢えた女が、何も持たぬ両手を広げて見せて、バアルに敵意は無いことを示した。
とはいえそれは罠かもしれない。油断はするまいと身構えて、一刻も早くこの油断ならない女の本心を知ろうと探りを入れる。
「ならば直ぐに出て行くがよい。ここは戦陣だ、そなたのような怪しげな者が気安く出入りするべき場所ではない。ましてやそなたは王に仕える身であろう。我らにとって敵であるはずだ。私が一声かければ周囲にいる兵士たちが一斉に襲い掛かってくるぞ。いくらそなたが
バアルは柄を右手で握り、刀をいつでも抜き放てる体勢を崩さない。
「今日はあんたも喜びそうなものを持ってきたんだ。そう邪険にするものじゃないよ」
「ほう・・・?」
取り付く島もなさげだったバアルがその言葉に方眉を上げ、反応を示した。
己が言葉で興味を惹くことができたことを、バアルの全身から敵意が消えていくのを見て確認すると、満足そうに頷いて、その女は懐から一通の書簡を取り出した。
「あんたの大事な可愛いお姫様から手紙を預かってきたんだ」
「・・・何!?」
女の手から奪うようにしてひったくった書簡を広げると、そこには懐かしく美しい筆跡が広がる。それは確かにセルウィリアの真筆に間違いはなかった。
人目があるにも拘らず、バアルは思わず涙ぐみそうになるなど狼狽を見せる。その姿を興味深そうに眺めていた影だったが、バアルが読み終わるまでは一言も声をかけなかった。
短い、だが一人の男の未来に関わるだけに、濃密で深遠で
幾度も幾度も読み直して、バアルはようやく大きな溜息をひとつ吐くと顔を上げた。
想像していたとおり、それはバアルに降伏を薦める文章であった。
バアルが降伏の意思を示せば、セルウィリアが王や朝廷と仲介の労をとることで、王に逆らったそれまでのあらゆる罪は許されるだけでなく、それどころか卿として朝廷に復することも可能だと告げられていた。
「どうだい? 良い話であろう? さすがは天与の人、恩人の仇敵であるあんたを許すとは実に懐が広い。並の男ではこうはいかないものさ」
女はこの説得工作がうまくいくことを疑わなかった。冷静なバアルが外面に表すほどの反応を示したことは、心の中の動揺が現れたものであると捉えたからである。
そもそも教団みたいな得体の知れないものよりは戦国の世を終わらせんとする偉大なる天与の人のほうが当然仕えるに値する主君であろう。それに教団がいかに法外な報酬を約束しようとも、現時点で実際には何も所持していない以上、それは空手形、虚にすぎない。対してアメイジア全土を手にしている王から渡されるであろうものは実のある報酬である。しかも王の側にはバアルが好意を寄せているセルウィリアがいるのだ。バアルがどちらを選ぶかは火を見るより明らかだと影は思っていた。
だがバアルはセルウィリアの差し出した救いの手を昂然と拒否した。
「・・・確かにいい話だ。今の私の身の上を考えると、もったいないくらいに。だが、だからこそ私は膝を屈するわけにはいかない、と姫陛下にそう伝えてくれないか」
確かにこの発案はセルウィリアによるもので、影が行ったものではない。だが任務とはいえ、危険を犯して敵中を突破しバアルの天幕を訪れたのだ。
自らが行ったそれを好意のようなものと思っていただけに、手で払いのけるようなバアルの言葉に影はいい気分はしなかった。
「それってさ・・・結局、あんたの大事なお姫様とやらを王に寝取られたからかい? やめなよ、男の嫉妬はみっともないだけだよ」
「王や姫陛下は関係ない」
「ほう・・・? 本当にそうなのか? ならば何故、王とあんたが戦わなければならない? 何か戦うに値する理由があるというのか?」
「・・・・・・」
「何故だ?」
口ごもったバアルに影はもう一度詰問した。
「いや、関係ないことはないかもしれないな・・・」
「・・・・・・」
「私は今でも姫陛下が好きだ。例え、その心が私に無くて王にあるのだとしても、私の心は常に姫陛下に捧げる。・・・これは私の我侭だ。だがだからこそ、他の誰にもその想いを妨げられたくはない。そう、例えそれが王であってもだ。だが私が王に膝を屈したら、臣下となってしまったらどうなる? そのような我侭は臣下として許されることではないだろう。例えそれが一人の女を巡る小さな戦いであっても、主である王と戦うなど言語道断の大罪だ。王と臣下とは決して並び立つ関係ではないのだから」
「考え直したらどうだ? 今のあんたの立場だって王と並び立つ存在というわけでもないだろう」
「そうだな・・・他人が見たら、私と王との立場の間には厳然たる差が存在するだろうな。しかし王と敵対している間は、少なくとも私の心の中だけであっても、私は王と対等でいられる。王がアメイジアを統一するべく生まれた偉大なる天与の人だというのならば、私はどれほどのことが出来るのか・・・何のために生まれてきたのか、その意味を天下に問うてみたい。天下分け目の合戦で手腕を存分に振るい、王と真正面から勝負を行ってみたい」
そう、バアルが王と比べて劣るのだとしても、せめてやれるだけのことやって敗北してから認めたいではないか。いくら相手が天与の人であっても、戦わずに敗北を認めるのは人としてあまりにも惨め過ぎる。
カヒの時もオーギューガの時も、バアルはまだ次があると思っているうちに、常に有斗に上を行く手を打たれ続けて決戦に参加する機会を逃してしまった。
だが天はバアルを見放さなかった。教団が挙兵したことで、こうしてもう一度王と戦う機会を得ることができたのだ。だが、おそらくこれが最後だ。これを逃したら、きっと次はもう無い。
「この混沌とした乱世を終わらそうとしている王は天与の人なのかもしれない。ならばその王に膝を屈することは決して恥ではないし、むしろアメイジアの民としては率先してその偉業に協力しなくてはならないのかもしれない。それが賢い生き方というものなのだろう。だが私にはそういう生き方は出来そうに無い」
王の足下に跪き、笑いあう王とセルウィリアの姿を見、己を殺して敗北感の中、死ぬまでの日々を過ごしていく。
それはバアルにとって死よりも辛いことに違いない。
「せっかく苦労をして書簡を運んできてもらったのに、すまぬな」
バアルはそう言うと、セルウィリアからの書簡を未練も見せずに火の中にくべ入れた。
「・・・あんたは馬鹿さ。稀代の大馬鹿者さ」
影はそう言うと、現れた時と同じように暗がりの中へと姿を消していった。
影は続いてリュサンドロスの天幕へと忍び込む。もっともこちらは顔見知りというわけではなかったから、書状を渡すまでにひと悶着があった。
だがさすがに書状を見せて、セルウィリアの真筆を確認すると、話を聞く気になったようだ。
「これは確かに女王陛下の御真筆・・・! この私にいったい何の用件で!?」
「書状を読めば分かる。陛下とセルウィリア様は将軍のことをいたく気にかけておいでだ」
リュサンドロスは
「女王陛下の期待に背き、西京前で惨めに敗戦した、まさに廃物同然の私に再びお声をかけていただいたこと、このリュサンドロス、感謝の念に耐えない。しかも女王陛下からだけでなく、天下人たる天与の人から仕官の誘いを受けるなど、まさに生涯の誇り、後々の世まで我が家の誉れとなるであろう!」
大仰な、とは思ったものの、その言葉はどちらかといえば書状をもらったことに対する感謝の念、肯定的な色合いが濃いだけに影は今度こそ策が首尾よく進むことを期待せざるをえなかった。
「ならば、この件はご了承と考えてよろしいか?」
「ひとりの人間として心が大きく動かされたことは事実だが、ひとりの武将としては別だ。武門の意地がある。関東の足下に跪き、屈するしかなかった弱兵の群れ。ただ一度の敗戦で蒙ったその汚名を注ぐためだけに、わしらは立ち上がったのだ。それを世に示すためには王と戦うしかない。わしは降伏などせぬ」
「・・・!」
「それにここでわしが裏切ったら、わしと共に戦おうとしてくれている関西の元諸侯や元兵士たちはどうなる? 彼らを見捨てて一人ここを出て行けというのか? それは無責任すぎる。わしには彼らに対する責任がある。関西の武人の意地を共に世間に見せようではないかと一抹の夢を見せたからには、その責任を最後まで取らなければなるまい」
そう言うとリュサンドロスは笑みを浮かべた。どこか説得や交渉を受け付けない何かが感じられる不思議な笑みだった。
「見つからぬように出て行くが良い。ひっそりとな。女王陛下にリュサンドロスが不忠を詫びていたと伝えておいてくれ」
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