第366話 コルペディオンの戦い(Ⅰ)
小山に陣取った有斗からもその驚愕の光景は望むことが出来た。
突然、眼前に現れた暗がりに怯えたのは兵だけではない。有斗も見渡す限りの地平線を埋め尽くした敵の姿に、少しだけだがパニックを起こしていた。
「退き鉦を鳴らせ! 鼓を打ち鳴らして全ての兵を退かせよ! 急げ!!」
敵を追撃することに気を取られて陣形も整えず、部隊としての形も保っていない今の王師がこのまま戦に雪崩れ込んだら、王師が教団に対して優位に立っている点である組織だった攻撃を行うことが出来ず、敵の圧倒的な数の前に飲み込まれるだけだ。
いくら王師が精鋭であるといえども、あれだけの数の敵の相手をするのには堅陣を敷いて巧妙な作戦指揮の下で迎え撃つしかない。
いや、それでも支えきれるかどうか。敵はあれほど横に広がっているのに敵陣の向こう側が透けて見えない。つまりそれだけ敵軍は王師を前にして重厚な陣形を敷いているということだ。カヒの大軍勢でもこのような重厚な布陣は見られなかった。側面に回ることも、中央を突破して背後に回ることも不可能に近いであろう。
逆に圧倒的に数が足りない王師は横から回りこまれることは確実である。かといって教団にあわせて今現在より横長に陣を敷けば、薄くなった戦列を寸断されて指揮系統を分断され、これまた後方に回り込まれて包囲されてしまうだろう。
南部で挙兵した信徒の数は聞いていたものの、実際に目の前に軍隊として展開されると単なる数字以上にインパクトがあった。
「落ち着いて、陛下。陛下が不安を見せちゃ、兵も不安がるでしょ。それに戦う前から敵に呑まれてちゃ勝つことは出来ないんだから」
アエネアスが呆然とする有斗の袖を引っ張って現実に引き戻す。
たしかに言われてみればそれはその通りだ。有斗は慌てて半開きの口を閉じ、口を引き締め眉を吊り上げて顔を作る。
撤退の鉦を聴いて、本営を置いた小山の傍まで将兵が戻り、将軍たちが次々と本営へと駆けつけてきた。
幸い、敵は数が多いからか行軍速度も遅い。布陣する余裕はどうやら与えてもらえそうだった。
有斗はちらりと上天を見上げた。まだ日は高い。夕暮れまでにはたっぷり二刻はあるであろう。
「今日中の戦いは避けられないか・・・」
ということは布陣や作戦を考えるのにあまり時間を費やすわけにはいかないということだ。
集まった将軍たちを前にして有斗は議論もそこそこに己が下した結論をぶつけて反応を見ることにした。
「敵の横列はこちらより遥かに長い。回り込みを計るのは難しいだろう。敵戦列に裂け目を作ってそこへ飛び込むしかない」
だがその有斗の意見は将軍たちを感心させるものではなかったようだ。将軍たちは王に配慮して控えめながらも口々に反対の意を表す。
「しかし・・・敵陣の厚みは想像を超えるものですぞ。多少陣形を揺さぶったところで裂け目などできるかどうか・・・」
「それに裂け目に飛び込んだところで背後まで突破できるかどうか・・・もし、背後への突破に失敗すれば、そこは周囲を敵兵に完全に取り囲まれた死地。後世の史家に王師は愚かにも自ら進んでわざわざ死地に赴いたなどと、哄笑の声が筆跡から聞こえてきそうな文体で我々は書かれることは間違いないところですぞ」
どうも将軍たちはその攻撃方法に否定的なようで、一人として賛同の声が上がらないことに有斗は少しだけ自信を無くしかけた。
「もちろん、裂け目を作るのはこのままでは難しいことだろう。その手段はちゃんと考えてあるよ」
自信満々に断言する有斗に対して将軍たちは疑惑の眼差しを向けた。戦の玄人である彼らが十人打ち揃っていて思いつかないそれを、天与の人ではあるものの、お世辞にも戦が上手いわけではない有斗が敵を目にしてから今までの間の僅かな時間で思いついたということが信じられないのだ。
「陛下のお考えを我らにお教えください」
皆を代表して発せられたエテオクロスの言葉に有斗は素早く即答する。
「イスティエアで使ったのと同じやり方を使う」
有斗の言葉にその場には少し落胆した空気が流れた。彼らの想像を超えた新戦術ではなく、どちらかというと彼らの想像の
あれは奇手。戦の常道と、そんなことを敵が考えるはずが無いという思い込みを利用した奇策である。
王がその手段をイスティエアで取ったということを誰もが知っている今では、あまり有効な手段とは思えなかった。同じような動きをしたら、相手とて王がそれを狙っていると気が付くはずだからだ。
それに今はあの時とは状況が大きく異なる。あの時は敵の数は味方とそう大きく変わるものではなかった。
であるからこちらの戦列移動に付き合うようにして敵の戦列も移動し、それによって付け入ることができる破断点を敵戦列にもたらすことが出来たが、だがもし今回、敵戦列を破砕しようとこちらの戦列を片翼と中央との間で故意にずらせば、数に勝る敵は移動する王師戦列を追いかけるだけでなく、その豊富な余剰戦力を王師戦列間にできた裂け目を目掛けて投入するに違いない。今度は戦列を分断されるのは逆に王師と言うことにも成りかねなかった。
天与の人といえど所詮は人、成功体験からは逃れられぬかと失望する想いを将軍たちは一様に抱いた。
もちろん彼らは王である有斗に向けてそんな想いをおくびにも出さなかったけれども。
もっとも有斗は明敏にその気配を彼らの表情から十二分に察し、既に大きく傷ついていたが。
「確かに・・・あれは有効でありましたが、あれはあくまで奇手です。いわば種明かしが無い状態だから通用した策と申せましょう。もう一度同じことをして通用するとは思えません」
エテオクロスの指摘にも有斗はうろたえたり、怒り出したりもしなかった。むしろその言葉を当然であるかのように受け止めていた。
有斗は既にそこまでも想定していた。有斗ももはやその辺の素人ではないのだ。
「当然だね。敵もイスティエアのことは十分知っているだろう。そこで少し改良を加えることとする」
急がなければ開戦までに思い通りに布陣できない。有斗は地図を広げると作戦を説明し始めた。
対する教団でも同じように、幹部が顔を突き合わせて作戦は練られていた。
とはいえ、特にここコルペディオンは複雑な地でなく、圧倒的に大きい兵数をもって対峙している教団は定石どおりに両翼包囲を狙うだけだった。戦において王道を行うだけの戦力差がある分、なんら奇手奇策をもちいる必要は教団には無かったのだ。
だからもっぱらイロスは集まった教団幹部と共に敵陣の様子を眺め見、相手の出方を窺おうとした。
「変わった布陣だ。左右両翼に騎兵がおらぬ。本陣後方に騎兵を回しているようだ。定法とは違うな」
両翼には包囲を狙って、または包囲を狙ってくる敵騎兵隊に備えて、騎兵を置くというのが常識だ。あらゆる兵書はそれを前提にして書かれている。
だが有斗がこの時、コルペディオンで見せた布陣では両翼にその騎兵が存在しなかった。騎兵は集中して中央部、それも前部ではなく後部に配置しているように見られた。
あまりにも常道から外れている現実に眉を顰めるイロスに対して、他の教団幹部は大したことではあるまいと高を括ったかのように明るかった。
「彼我の兵力に差がありすぎますよ。騎兵をもって左右から回り込みを図ろうにも不可能と判断し、それよりも我々の攻撃で劣勢になった箇所に援軍を送ったほうがいいと考えているのではないでしょうか」
「勢い込んで王都を出てきたものの、いざ我々の大軍を目にして見ると萎縮し、ただ防御を考えたというのが実情かと」
「あるいは中央突破を計っているのかも」
そう指摘するものもいないではなかったが、可能性が薄いことは指摘した本人もよく理解していた。
「考えられる。だが我らの陣形は厚い。特に中央には戦場経験のある者を集めている。兵力全てをぶつけたとしても突破できまい。足が止まったところを包囲されて壊滅するのが落ちだ。我々にとってはむしろその方が都合が良いくらいだ」
楽観的意見を次々と述べる教団幹部たちにイロスは油断は禁物と釘を刺す。
「王はこれまであらゆる奇手奇策をもって戦場で幾度も勝利してきた稀代の戦術家だ。油断するまいぞ」
そう言われると、敵を軽んじるような発言を繰り返していた彼らにも、この定法を逸脱した布陣は何らか特別の意図をもって成されているように見えるから不思議なものである。
「そうだ! 傭兵たちの将軍を呼び出してみては如何でしょう?」
教団幹部の一人が手っ取り早い解決策を見つけたとばかりに皆に提案した。
「傭兵どもを・・・?」
「彼ら、特に王と幾度も槍を交えたバルカやデウカリオらなら王の思惑を言い当てるかもしれません」
それは確かにいいアイディアであるかのように思われた。だがそれでは彼らの手を借りねば戦場を把握できないということになり、彼ら教団幹部の面目は丸つぶれである。
教団幹部は賛成半分反対半分といった視線で、判断を仰ぐようにイロスの表情を窺った。
「・・・いや、彼らを呼び出して、戦い方をいちいち話し合っていては日が暮れてしまう。せっかく王を戦場に引っ張り出したのだ。夜のうちに逃げられてしまっては元も子もない。ここは速戦速勝を狙う」
少しの逡巡と共にイロスはそれを却下した。イロスが却下したのは己の誇りのためでなく、彼らの存在を軽視したからと言うわけでもなく、ただ王を葬る好機を逃すことを恐れたためだった。
時間を無駄に費やし、暗闇に紛れて逃れた王師が堅所に、あるいは王都や鹿沢城などに籠もられて篭城戦を行われては、大軍と言う教団の持ち味が失われてしまい勝敗は分からなくなる。
だから、ここでのこの判断をしたことで彼を責めるのはいささか酷というものかも知れない。
それにさすがのバアルやデウカリオでもこの時の有斗の思惑を看破するのは無理であったに違いない。もっとも教団により慎重な戦いを求めていたであろうから、完全に無意味であったわけではなかったであろうけれど。
有斗の心配を他所に、王師の布陣は敵が布陣を終えるよりも早く完了した。将軍たちが細部の手直しを行い、万全の体勢に整える余裕すらあった。それだけ教団側の動きが統制が取れず、尚且つ大軍であったということである。
教団は中央部に戦闘経験のある教徒を中心とした部隊を置き、両翼にはそうでない教徒や反乱に加わった一般人、そしてそのさらに外側の翼の外に最後部を進んできた傭兵隊を配置した。馬は確保できたものの、馬に乗って戦える者が教徒にはそれほどいなかったから、通常両翼に配置する騎兵隊の役目を彼ら傭兵たちに任せたということだ。
とはいえ両翼が王師よりも遥かに長い教団側であるから、彼らが戦場に到着するころには戦は終わり、彼らの出番は無いかもしれぬと考える教団幹部もいたくらいだった。
対する王師は中央に第六軍のステロベ、第七軍のベルビオ、第八軍のアクトールを配し関西出身の重装騎兵を最前列に配置して鉄壁の守りを構築する。右翼は第一軍のプロイティデス、第二軍のエテオクロス、第三軍のヒュベル、左翼は第四軍のリュケネ、第九軍のエレクトライ、第十軍のガニメデが担当する。残りの第五軍のザラルセンと各軍から集められた騎兵は全て中央戦列の後ろに控えていた。
王師が形成した戦列は教団の戦列の僅かに半分にも満たなかった。
だが教団が布陣にもたもたしている間も王師は林のように旗指物を
おかげで先に動き出したのは整列を終えたばかりの教団の側と言うことになる。
教団側に、王師が布陣を終わらない教団に先手を取ろうと襲い掛からなかったことは何故かと深く考える者はいなかった。彼らは王師は教団の多勢を前にして恐れて動けないのだとばかり考えていた。蛇に睨まれた蛙のように飲み込まれるのを待つしかない状況に陥っているのだと思っていたのだ。
教団は広げた両翼を
それを見た有斗は、頃合よしと手を上げて進撃の角笛と鼓を鳴らさせた。
剣を天にかざし大きく
だが教団の兵との間の距離が縮まるに従って、王師の部隊は両翼が僅かに変形を始める。まだ敵と剣を交えたというわけでもないのにである。
勝利を確信する教団側の中でそれに気が付いたものは、その時はまだいなかった。
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