第365話 南東より来る

 翌朝の青野ヶ原はその日も一面の霧に覆われていた。

 有斗は念を入れて、霧が晴れ渡るまで出立を遅らせることを全軍に通達する。

 霧の中での不意の遭遇戦ともなれば戦術も戦略もあったものじゃない。目の前の敵とただ斬り結ぶだけの白兵戦が展開されることだろう。

 一対一の戦いであっても王師の兵が万が一にも後れを取る恐れは無いが、敵がこの濃霧を待ち伏せに利用してこないとは限らない。その場合、待ち構えている教団側のほうが格段に有利であることは言うまでもない。

「晴れ渡ったらふもとより兵を入れて、山中に潜伏する敵を攻撃する。山中と言っても街道を通る僕らを迎撃できるように道沿いに兵を伏せているだろうから発見は容易いはずだし」

 とはいえ渓谷を抜ける道は数キロはある道程だ。しかも連なった山は峰ごとに大きな高低差がある。断崖や落差がある場所も多い。

 道を間違えて下ろうにも崖、上ろうにも急坂といった窪地にでも誤って兵を入れてしまったら、脱出させるのに無駄な時間を費やしてしまう。まさか兵を見捨てるわけにもいかないし。

 だからある程度の目星をつけて行かないと余計な時間を費やすことになりかねない。それを避けておきたかった。

「敵は何処で待ち構えていると思うかな?」

 それは本営に集められた将軍たちに向かって訊ねた一言であったが、答えたのは有斗の横に立つアエネアスだった。

「渓谷が曲がって見通しの聞かない地点が二、三箇所あったはずだよ。兵を伏せるならあそこが一番良い」

 南海道を通ったことはそうあるわけではないアエネアスだったが、地図を指差すその手にも地図を見るその目にも一切迷いは見られなかった。

 アエネアスは総じて記憶力が良い。一度通ったことがある場所ならば、今はどのあたりだろうと尋ねる有斗に正確に現在位置を答えることもしばしばだ。

 それにひょっとしたら南部から王都を攻めたときに、アリアボネと兵を伏せるならこの辺りといった話をしていたのかもしれない。

「私もそう思います」

 エテオクロスも同じ考えであったらしい。アエネアスの言葉に賛同する。

「ではそこを目掛けて山中に兵を入れる。別働隊には本隊より先に進発してもらおう。将兵には苦労をかけることになるけれども」

 有斗の言葉に将軍たちは一斉にこうべを垂れる。

「御意!」


 別働隊は二軍。左の山はベルビオ、右の山はヒュベルが担当した。個人の武勇が物を言う狭い戦場での限定的な戦いになるということで、王師きっての二猛将を惜しまずに投入したのだ。

 先に接敵したのはベルビオである。ベルビオは目的地までもう少しと言うところで、森林に偽装した敵陣を見つけたのだ。

「もうちょっと気付くのが遅れていたら、損害を被るところだった」

 そのまま前に進んでいたら横槍を入れられ崖下に叩き落されるような形で開戦することになるような巧みな布陣だった。

 それは遥か下の街道を通る敵に備えたというよりは、山中を進んでくる敵に備えて敷かれた布陣だった。

 教団にも知恵者がいたと言うことであろう。だが見つかってしまえば単なる横陣に過ぎない。

 ベルビオは手早く傍の百人隊長を集めて指示を出す。

「よし攻撃を開始する。だがいつものように一気呵成いっきかせいに攻め立てるな。一度攻撃したら退く。そして次の部隊が入れ替わって敵と攻撃するという繰り引きの要領で敵を攻撃するのだ。長く、粘り強く戦うのだ。敵を休ませるなよ」

 これは彼らにとってはとても珍しい、そして思いもかけぬ命令だった。

 ベルビオ配下の兵士は将軍に似て、防御も考えずに勢いのまま敵にぶつかり先手を取り、その勢いを生かして敵を撃砕するという戦い方を得意とする。当然、普通ならばその戦い方をするべきであろう。

 だがベルビオは考えた。敵は難所に堅陣を張って待ち構えている。それだけでなく、なんとしても敵を食い止めてやろうと言う意思が陣全体から漂ってくる。さすがのベルビオをもってしても最初の一撃で敵陣を抜くことは無理であるに違いない。

 そうなれば却って劣勢に立たされるのは攻撃を行ったベルビオ隊と言うことになる。それでは例え敵を撃破出来てもこちらの損害も無視できないものになるに違いない。

 だが敵は戦の素人、つまり戦を体験したことも無い人間の集まりである。

 長時間、槍を握って振り回すのがどれだけしんどいことかを身をもって体験したことも無いに違いない。

 溢れ出るほどに迎え撃つ気力に溢れているならば、敵の攻撃に全力を持って応戦することであろう。最初から全力を出して戦ってしまっては半刻後(一時間後)には、くたくたになって疲労困憊こんぱいということになろう。疲れだけでなく、己が傷つき、味方が倒れ、そして鬼のような形相で迫ってくる敵兵の表情に旺盛な戦意もやがてしぼんでいくことだろう。

 要は敵が長く戦うことになれていない分、短い時間で決着を図って被害を増やすよりも、長時間戦った後に打ち崩すほうが容易く敵を攻略できると考えたということだ。

 だからベルビオは最初の攻撃こそ自ら双戟を引っ提げて敵陣を攻撃したが、その後は攻撃を手控え、後方に留まり、適宜に攻撃を指示して均一的な攻撃を敵全体にかけることに専念した。敵陣に亀裂が出来るまで待ったのである。

 このような戦い方をするなど以前のベルビオでは考えられなかった。ベルビオも長い戦いを通じて成長したということであろう。

 教団側は時間と共に疲労で兵が倒れ数が少なくなり、恐怖で腰が引けた兵は王師の攻撃を支えきれずに陣の一部が破砕する。

 ベルビオはそれまで休み休み戦っていた兵力の全てをそこに叩きつけて一気に陣の突破を計った。

 こういった場合、本来ならば将が兵を補填ほてんし、兵長が兵を鼓舞して、陣の破れを繕わなければならない。

 だが教団側はその局面局面において兵隊が個別に敵の攻撃に合わせて応戦しているだけで、陣全体として一つになって戦おうとしない。いや、できないのだ。

「布陣を見れば明らかに敵は兵法を知っている。だが戦を知らぬ」

 どうも今まで戦ってきた敵とは明らかに勝手が違うようだ、とベルビオはあまりの手応えの無さの不思議さに首を捻った。


 それもそのはずである。教国が誕生したときに必要となる人材を確保するために、教団幹部は様々な教育を受けていた。

 敵である王朝の法律や組織について深く学び、国のあらゆる官吏に成り代わって政治を行える下準備を整えていたのだ。

 もちろん最終的には武装蜂起しなければならないことは分かりきっていたから、その中でも特に選ばれた一部の幹部の間で、いざと言うとき教徒を率いて戦えるように、兵法の研究も行われていたのである。

 彼らは兵書七経を研究することに情熱を傾け、互いに互いを研鑽けんさんし、そこらの兵法家も舌を巻くだけの学識を手に入れた。

 だが兵法とは王や諸侯や将軍として、既にある程度の実地の経験を積んだ相手が読むことを念頭に書かれた書物である。

 決してずぶの素人を一人前の将軍にするために書かれた書物ではない。だから基本中の基本、戦場で行われる当たり前の進退について知らなかったのである。

 だから確かに兵である教徒は素人であるが、兵法上有利とされる高地に前もって布陣し、水や食料の補給体制も整えた以上は負けることなど到底考えらなかった。

 必勝の態勢を構築した己の知識を過信するがあまりに、負けるはずはないと現場で起きていることに対する対応が後手後手に回ってしまったのだ。

「そんな馬鹿な! 必勝の態勢を整えた我らが何故負ける!? こ、こら、お前ら逃げるな! 踏みとどまって戦え!!」

 柵を破られたことで陣営地の有利さがなくなると、教徒では一対一、いや一対二でも王師の兵の相手にはならなかった。

 押し止めて戦線を維持しようとする教団幹部の手を振り払って、教徒たちは武器を投げ捨てて我先に逃げ出し始めた。

「慌てるな! 慌てなければ十分に戦える! 柵が破られていても高地に布陣した我らが依然として有利なのだ! 列に戻って戦え!!」

 だが襟首を掴んで押し止めようとした教団幹部の体に王師の兵の槍が突き刺さると、教徒たちを押し止めるものは無くなり、部隊は壊乱した。

 青野ヶ原へと続く山岳地帯で王師を押し止めようとしたことで分かるとおり、この方面にいる教団は兵の数がそう多くは無かった。だから王師が一部の兵を山中に入れて攻撃してきた場合に備えて配置しておいた兵はそう多くは無い。

 だからベルビオが打ち破った一陣の後ろにはベルビオらを食い止めるための予備の部隊はもう無かった。後は渓谷の下を通り抜けようとする王師に対して攻撃を仕掛けるように布陣した部隊だけである。

 中には迫ってくる王師に対抗しようと部隊を変形させて戦おうという意思を見せる部隊も無いことは無かったが、王師の兵の怒涛の攻撃の前に束の間の抵抗の後、崩れ去る。ベルビオは兵に命じて攻略を終えた峰では狼煙を炊いてその合図とした。

 同じ頃、ヒュベル行きいる王師第三軍もベルビオ隊に負けず劣らずの快進撃で敵を駆逐していた。

 そうやって渓谷を挟む両側の峰々から次々と黒い狼煙が上がるのを見た有斗は手を前に倒し、王師を一斉に谷へと侵入させた。

 敗走してくる味方の姿、峰々から上がる黒い煙、眼下の街道をこちらに向かって王師が進んで来ることを知ってはいたが、後陣の教団の兵はもはや戦う気力を失い、敗走する。まさに壊走と言う言葉が相応しい逃げっぷりだった。

「追え! 教団に立ち直る機会を与えてはいけない! 王師に二度と戦うことなど考えられないようにしてやれ!」

 有斗の命は非情だった。彼らも民である。であるからにはもはや抵抗する気力も失せた彼らを追撃し、痛めつけたり殺したりするのは為政者としては避けるべきことかもしれない。

 だが、ここから逃げた彼らはやがて本隊と合流して、再び王師に戦いを挑もうとするであろう。その時に王師に犠牲者を少なくするためにも、彼らにはしばらくの間忘れぬ程度に恐怖を刻みつけ、戦力として使い物にならないようにしておく必要があったのだ。

 教団を打ち崩さなければ戦はいつまでも続く。ここは心を鬼にしなければいけない局面だと有斗は己に言い聞かせる。


 一方の教団である。味方を鼓舞する歴戦の百人隊長や戦術に優れた旅長がいない以上、一旦崩れた教団は退勢を食い止める術を持たなかった。

 リュケネもベルビオも敵を倒すのよりも、鎧を着て武器を持って移動するほうが大変、といった具合の快調さで敵を山岳から排除していく。

 そのおかげで有斗をはじめとした他の部隊は敵の妨害に会わずに楽々と回廊を通行することが出来、その先の鹿沢城へと通じる平原へと出ることが出来た。

 有斗は小高い丘に本陣を置くと、陣形を整えるよりも先に敵の追撃を命じた。

「敵に立ち直る隙を与えてはならぬ! このまま敵を南部まで叩き返せ!!」

 有斗の横を次々と後続の兵馬が追い抜いていく。王師の各軍は有斗護衛の任に当たる第一軍と羽林の兵を除いて全て平原に広がり敵兵の追撃を始めた。

 教団の兵は所詮は元農民が多い。拠るべき地形も無く、しかも数も劣るとなれば王師の敵ではなかった。王師の兵の前に次々と命を落としていく。

「・・・・・・なんだ?」

 とその時、遠く南東の街道の向こう、地平間際の空が一瞬黒く曇ったことに兵が気が付き始めた。

 まだ日がかげるには早い、それに翳ったのは南東の空だ。雨雲だろうか、王師の兵は一斉に足を止めて目を凝らして南東の空を睨む。

 だがそれは雨雲では無かった。

 それは兵が移動するときに巻き上げる砂塵、それが幾重にも重なり空を覆い隠して黒くしたのだ。

 やがてその下の地平線一杯に横一列の人影が現れた。それは王師に近づくにつれ横一杯に広がって行き、終には東西の端が見えないほどにまで広がりきった。兵たちは眼前に現れた巨大な影に思わず唾を飲み込んだ。

 王師全軍五万が移動しても天が暗くなるほどの土煙が上がることはまず無い。ということは眼前に現れた敵は・・・

「いったいどれくらいの人間が集まったら、あんなになるって言うんだ・・・?」

 教団の本隊、二十万とも号する大軍勢が遂に有斗たちの前に姿を現したのだ。

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