第355話 傭兵(中)
夜こそが稼ぎ時である酒場は深夜遅くまで開いている。その代わりに当然のこととして朝は遅い。その日も朝と言うよりは昼前と言ったほうが正しいような時間になって、ようやく女主人であるイアネイラは睡眠を終えて寝床から這い出してきた。
酒場の清掃をし、料理の仕込をして今日の晩の開店に備えなければいけない。イアネイラは半分眠ったままの頭をあくびで無理やり目覚めさせながら、狭い廊下を厨房へと向かう。
そこでイアネイラは予想もしない光景に出くわして思わず目を疑った。自身の夫が鎧に身を固めて、旅支度を整えていたのだ。
「あんた・・・! 何をしているんだい!?」
イアネイラが声をかけると、彼女の夫であるメネクセノスは旅支度をする手を止めて、罰の悪そうな顔を彼女へと向けた。
「起きちまったか・・・寝ている間に行こうと思っていたんだがな・・・」
「あんた、あたいを置いてどこに行こうって言うんだい!!」
「・・・俺は南部に行く」
「南部にって・・・南部に行ってどうするって言うんだい?」
元傭兵の夫が武装して出かけようとしている姿に向かってのその疑問は明らかな愚問ではあると思ったものの、イアネイラはその自身の想像が間違っていることを願いつつもそう聞かざるを得なかった。
「南部では傭兵を求めているって話だ。それに加わろうと思う」
想像通りの答えにイアネイラは頭が痛くなる。
「南部って・・・あんた、それは戦じゃなくて叛乱だよ!? 今までの諸侯同士の戦いの手助けってのではなく、王に対する叛乱の手助けだよ! しかも叛乱の母体となったのはソラリア教とかいう怪しげな連中だっていうじゃないか? そんな連中に勝ち目なんかあるわけが無い! 金は払ってくれるかもしれないけどさ、やってることは王に対しての反逆、犯罪行為だよ! たとえ生き残ったところで縛り首になっちまうんじゃあ、金なんていくら貰っても割が合わないじゃないか!」
「・・・金の問題じゃねぇや。俺はただもう一度戦いたいんだ」
「そんなことで、あたいを置いて勝手にどこかに行っちまうなんて酷いじゃないか!」
「すまねぇ。だがそれでも俺は・・・戦場に戻りたいんだ。ここはいい場所さ。活気があって平和で・・・道を行く人々の顔には笑みが溢れている。戦場のように何かといえば意地の張り合いばかりで、つまらないことで争いになり命を落とすようなこともない。それにお前はいい女だ。お前みたいないい女、俺みたいな
メネクセノスは親も知らぬ街の浮浪少年だった。盗みや暴力など日常茶飯事という、街の鼻つまみ者だった。
戦国の風に煽られ、一攫千金を夢見て傭兵になると頭角を現し、たちまち百人隊長にまで上り詰めた。
彼もその他の傭兵と同じように夢を見た。戦場で大きな手柄を立て諸侯の一員となり、それまで見たことも無いような飛び切りの女を手に入れ、贅沢三昧に安楽な生活を送るという夢、そうまさに夢でしかないようなことを望んだ。
本当に堅実な者は彼ぐらいの立場になると自ら傭兵団を作り、兵達の給金をピンハネし、いつか来るであろう引退のときに備えて溜め込んでいた。
だがメネクセノスはそんな彼らを
ここは自分の居場所じゃないと、いつかもっと上の素晴らしい場所に行くことだけをその頃のメネクセノスは考えていた。
だが結局、彼はそこに辿り着くことはなかった。そこは彼のいるべき場所では無かったのだ。だがメネクセノスがその場所に辿り着いたとしても、きっとそこは彼にとって居心地のいい場所では決して無かっただろうと今では分かる。
今になって思うことがある。駆け引きも打算も損得も無い仲間たちと過ごした日々が無性に懐かしかった。そんな馬鹿な生活が何よりも楽しんでいたことに気が付いたのだ。
失って始めて分かったのだ。気の置けない仲間たちと共に過ごした戦場こそが、メネクセノスの本当の居場所だったのだ。
「・・・・・・はぁ・・・」
イアネイラはメネクセノスの顔に揺るがぬ決意が浮かんでいるのを見ると、大きく溜息をついて
何を言っても無駄なのだ。その表情は彼女にそう思わせずにはいられない静かさと深遠とを
それにその顔は彼女が何よりも好きだった男の顔だった。戦国が終わった時に失われた誇り高き戦士の瞳だった。
イアネイラは顔を上げると少しはにかんだ笑みを浮かべた。
「あたいも行くよ」
残るとばかり思っていたイアネイラからの思いも拠らぬ返事にメネクセノスは戸惑いの表情を浮かべる。
「でも店はどうするんだ。それに行ってどうするんだ。これは今までのように勝敗のつかない、なあなあで終わる戦国の世にあった尋常の戦じゃねぇ。王と教団とのアメイジアの覇権を賭けた最終戦争だ。中途半端な決着は許されねぇだろう。勝者は敗者を完全に滅ぼすまで容赦はしないだろう。だが、きっとお前の言うとおり、教団に勝ち目はないだろうな。・・・だから・・・きっと俺は死ぬ。ついてくることはねぇぞ」
「店なんかいいじゃないか。だってそこには軍隊があるんだろ。なら酒保だって必要じゃないか。そこで酒場をやればいい。それに酒保の女は軍隊と共に泣き、笑い、生き、そして死ぬのが
「しかし・・・」
「あたいはあんたの女房じゃないか。最期まであんたの傍にいたいんだよ」
そして目の端に小さな涙を浮かべながらも、不幸せさを一切感じさせない笑い顔でこう言った。
「あたいたちには・・・人並みの幸せって奴は分不相応ってやつだったのかもしれないねぇ・・・」
王暗殺に失敗したバアルとデウカリオはイロスやガルバら教団首脳部と共に南部へと向かった。
やがて来るであろう王師の追討軍を教団が迎え撃つためには、蜂起した教徒たちや諸侯、傭兵たちを速やかに組織化し、命令系統を確立しなければならない。
地方官の引き起こした暴挙に対する怒りと、自ら属する教団の命令とで立ち上がった教徒や南部の民も、時間が経って頭が冷静になれば朝廷の武威に対する恐怖が頭をもたげてくる。これからの展望が無いだけに不安になるに違いない。
イロスが彼らに朝廷に戦うに足る正義を示し、そして朝廷に対抗する組織を作り、さらにはバアルやデウカリオといった将軍たちをもって朝廷と戦う軍隊を作ることで、反乱軍内の動揺を早急に沈めなければならないと考えたということだ。
もちろん勝算あって挙兵の準備を進めてきたのではあるが、そうはいっても相手は朝廷という巨大組織だ。
予断を許さない極めて厳しい先行きに頬を引き締める思いのイロスやガルバたちと対照的に、ようやく王と戦うことが現実味を帯びてきたことで、ひとりデウカリオだけは上機嫌であった。
確かに想定していたような諸侯の軍が叛乱側に加わらないことで戦力的に不足はあるし、実際に戦ともなればどれほど自分に権限が与えられるか分からないという不満はあるし、彼にはとうてい理解できない教義をありがたがる教団と言う存在は不気味ではあるが、亡くなったカヒの仲間たちの、そしてなによりもカトレウスの
「なるほど。これで直ぐにでも十万の軍を用意できると言った理由が理解できた。だが戦は兵站だ。王との戦いが長期に渡り行われることになった時にそれを支え続けることが教団とやらにできるのか?」
精兵を揃えられないのならば速戦速勝は望めない。ならばじっくりと時間をかけて新兵を熟練兵にすればいいというのがデウカリオの考えだった。
だがその為にはその間、兵士たちに武器と食を供給し、死んだ兵士を補充することができる後方支援体制を整えてもらわなければ話にならない。
「その為に長い年月をかけて荘園を作っておいたのだ。そもそも教徒全てを兵士として前戦に送り込むわけでもない。後方から万全の体制で将軍たちを支援する心積もりだ。なにしろ我ら教徒は清貧に慣れておるからな。多少の無理は利く」
教団の叛乱で南部からほぼ朝廷の影響力は排除した。南部の支配権は今や教団にある。南部一帯の租税も全て教団のものだ。
信者以外の南部の民の支持を取り付けるために朝廷よりも軽い租税にしなければならないだろうが。
「それに今年の収穫はこれから。これまで蓄えた分をも併せ持つ我々としては優に二年はそれだけで戦える。対して朝廷は度重なる遠征に国庫は空、我々が河東西部を押さえた以上、河東からのコメは一粒たりとも朝廷には渡さない」
河東から畿内へ、とりわけ王都へと米を輸送するには大河を使うより他はない。大河の東岸を押さえた以上、河東は朝廷から切り離したとばかりにガルバは自信満々だった。
「それに関西と関東を切り離す策も既に準備している。王は畿内という狭い地域だけの力で我らと戦うことになるであろう」
教団はアメイジア全土を支配する巨大組織を相手にする気は最初から無かった。有斗の命令が行き届く範囲をかつての関東の朝廷の勢力範囲程度にまで狭めて、朝廷全体を干上がらせてしまおうといった戦略だった。
「なるほど、考えたな」
デウカリオはこれならば朝廷にも存外勝てるかもしれないと教団幹部を大いに見直していた。
「しかし・・・」
デウカリオは集団の後方でひとり
教団幹部一同に引き合わされたバアルやデウカリオが一番驚いた顔は、なんといってもアリスディアである。
「王とはどういう人物だ?」
デウカリオはアリスディアに近づくとさり気無く訊ねて見た。一度その姿を見たことがあるバアルと違い、デウカリオにとって王とはまさに未知の存在だった。
「・・・そうですね・・・ごく普通の人の良い少年です。それ以上でもそれ以下でもありません」
「我らを怖気づかすまいと気遣うことは無いぞ。ただの少年などと・・・相手はアメイジアを征した天与の人だ。そんなことはあるまい」
デウカリオにとって王とは、戦場であのカトレウスを打ち破る手腕を持ち、邪魔だと思えば暗殺などと言う卑劣な手段を用いてでもカトレウスを消すことに
であるから、是非ともそうあって欲しいといった願望も含めて、有能な戦略家ではあるが冷血非情で他人を虫けらにも思っていない男だと、王のことをよく知るアリスディアの口から言って欲しかったのである。
「・・・いえ・・・王は本当にどこにでもいそうなほど自然な少年でしたよ。もっとも王であってもそうであり続けることができるということは、何よりも不自然なことでしたけれども」
アリスディアはそう言うと何かを思い出したのか少し口元を
バアルはその間、ずっと一言もしゃべらず押し黙ったままである。
ついに目の前に辿り着いたにもかかわらず、セルウィリアに差し出した手を振り払われるような形になったことはバアルにとって大きな心理的痛手となった。
デウカリオまで気を遣って話しかけないほどだった。もっとも元々馬の合わないバアルにデウカリオが話しかけないことが本当に気を遣った結果なのかと問われると答えに困るところではある。
その時のバアルはまさに闇の中にいる気持ちだった。
バアルはこれまで白鷹の乱前にセルウィリアと誓った約束を叶えるべく奮闘してきた。
関西復興、セルウィリアを至尊の地位に
だが今のセルウィリアはそのことよりも大事なことがあると言った。バアルが差し出した手を跳ね除けた。
それが何であるかバアルは知らなかったし、また知りたいとも思わなかった。もっとも薄々とそれが何であるかは勘付いてはいたが。
だが、だとするとバアルが王と敵対する理由は無くなる。
サキノーフの血を引くセルウィリアが王位を望まないと言うのならば、召喚の儀で呼び出された有斗の王位に文句をつける正当な理由が無くなる。
それに王はこの戦乱棚引くアメイジアを見事に統一し、平和にしたのだ。ならばアメイジアの民の一人としてその治世を諸手を挙げて歓迎すべきではないのだろうか、とバアルの心に漠然とした思いが浮かんでくる。
しかし今更、王に屈するのはバアルの
例え王がバアルを許したとしても、バアル自身が王に膝を屈するバアルを許さないであろう。
だが王と戦うということは、王がもたらした平和を打ち崩すといったことに他ならない。それは誰が考えても明確な悪である。
何のために戦うのか。バアルは心の暗闇の中、その理由を手探りでただ探し続けた。
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