第351話 王城炎上(Ⅱ)

 アエネアスが左に回りこむということは、バアルにとって右側に回られるということである。

 もちろんバアルは右手で剣を構えている以上、多少右側に回りこまれても対処は可能だ。だが目の前の赤毛の女がどんな奇手を使用してくるかも分からない以上、用心することに越したことは無い。左足を半歩前へ踏み出し体を傾け、アエネアスが右側から大きく切り込んできても即応できる体勢を整える。どんな相手であろうとも油断はしない。

 バアルの想像通りにアエネアスは寸前までバアルの死角だった右側から円を描くように剣を切り入れる。

 バアルは剣を下からすくい上げるようにしてアエネアスの刃を跳ね上げ攻撃を防ぐ。だが剣と剣とが衝突したにもかかわらず、その手応えは軽く、本気で切り込んできた一撃とは思えなかった。

「軽い・・・?」

 剣の軽さ、アエネアスの武人としての体重の軽さ、それらを考えても軽すぎる。

 戸惑うバアルの前でアエネアスはその初撃の為に軽く踏み込んだ左足で地面を大きく蹴り返し、体を沈めて素早く右側に、バアルの背後へと円のような軌道を描いて回り込む。

 初撃は教科書どおりの攻撃と見せかけた、あくまで牽制の一撃であり、渾身の力を込めて斬りかかる二撃目こそが本番の攻撃であった。尋常の一手では勝てないかもしれないと思ったアエネアスが選んだ奇策である。種明かしが無い状態であるならばどんな剣術の使い手であろうとも初見の攻撃には対応しづらいもの。それが特にトリッキーな動きであるならなおさらである。

「たあああああっっっっっっっっッ!!」

 アエネアスは裂帛れっぱくの気合と共に剣を頭上で一回転させ右上段へと構えを変える。そこで剣を止めることなく、己が上半身の力と左足の力だけでなく、バアルが跳ね返した力をも利用し、バアルの左半身目掛けて斬り付けた。正確さは求めなかった。求めたのは速度。バアルは金吾の正装をしているが首から頭に掛けては無防備だ。例え急所を外したとしても、そこに一撃を喰らわせることが出来れば、いかな剣豪とはいえ継戦能力を失うはずだ。

 だが叩きつけられたアエネアスの剣は肉に食い込み骨を擦るような人を斬った手応えをアエネアスの手に返してはくれなかった。

 返ってきたのは金属が金属とぶつかったときの、手が痺れるようなあの鈍く重い感触。

「大したものだ。一瞬、視界から消えるとは・・・焦らせてくれる」

「・・・ッ!?」

 アエネアスの体の切り返しは右方へと注意を向けていたバアルの視界を振り払うほどのキレのある動きだった。

 だが右方向から襲い掛かってきたアエネアスの剣があまりにも軽すぎること、そして苦も無く跳ね返せたこと、さらには右へ右へと視線を向けていたバアルの目から姿が消えたことを総合的に判断すれば、敵はバアルの左へと攻撃を切り替えしたと考えるのが合理的だ。ならば見えなくてもバアルほどの達人であればその攻撃は十分に防ぐことはできる。

「くっ・・・!」

 奇手が見破られ、アエネアスは慌ててバアルと距離を取ろうと後ろへ跳んだ。

 バアルはベルビオのように体格で相手を圧倒するタイプの剣士ではないが、それでも女の体よりは遥かに大きく力強い。完全な近接戦闘に持ち込まれたら、アエネアスに勝ち目はほぼ無いことは誰でも分かることだ。

 だがバアルは女だからと言って手加減する男でもない。そして敵の不利は自分にとっての有利であることを何よりも知悉ちしつし、それを見逃さずに直ぐに行動を起こす抜け目のなさを兼ね備えた男であった。

 アエネアスを追うようにバアルも前へ歩を進め、その距離を詰めると、動きを止めるために矢継ぎ早に剣を繰り出した。

 素早く距離を取るために後方に跳ぶことだけを優先したアエネアスは重心が後ろに拠ったまま。

 それでも最初のうちはその人間離れした運動能力でバアルの攻撃を防ぐが、切っ先を凌いでいくうちに体のバランスが完全に崩れ、徐々にその攻撃を防ぐポイントが体に近づいて来ていた。

「・・・しまった!」

 バアルの攻撃は一部の隙も見られない。このままでは体勢を復すことなどきっとできない。

 バアルの攻撃にいいように翻弄された挙句、アエネアスはいつか体勢を崩し倒れこむか、剣で防御体勢を取れなくなるに違いない。

 つまりアエネアスは斬られる。

「一気に行くぞ!」

 バアルはもはや勝利を確信し、余裕の笑みを浮かべていた。

 その意識が乗り移ったかのようにバアルの剣は鋭さを増してアエネアスに襲い掛かった。もはやアエネアスにはそれを防ぐ手段は残されていなかった。

 アエネアスの剣を左方へと完全に弾き飛ばしたバアルの剣が、顔面を二つに引き裂くかに見えたその時、鋭い火花と共に金属音が鳴り響いて、渾身の力を込めて振り下ろしたはずのバアルの剣は上へと跳ね返された。

「女の顔に傷をつけようなんざ男の風上にもおけないやつだな。もっとも無辜むこの民がいる王都を焼いてでも目的を果たそうなどと考えるような外道にそんな正言を言ったとしても無駄か」

 そっと目を開けたアエネアスの後ろには槍を持った一人の偉丈夫が立って敵をめ付けていた。

「ヒュベル殿!」

「アエネアス殿、一人で手柄を立てようなどとは欲張りですな。私にも少し分けていただきますよ」

 ヒュベルはアエネアスに茶目っ気たっぷりにそう言うと、一歩前に出て槍を突き出した。

 そこにはバアルに加勢しようと駆けつけてきた金吾の格好をした敵がいた。バアルらと行動を共にするため選抜された者達である。ヒュベルのその攻撃は見切っている。素早く突き出された槍にも十分に反応できた。

 体捌きで体の中心線から槍先から逸らし、剣を使って受け流そうとした。

「馬鹿が! それは罠だ!」

 せっかくのバアルの助言もその男には間に合わなかった。くるりと十文字槍の横の枝を使って剣を巻き取り、己の膂力りょりょくとてこの原理を応用して跳ね上げる。

 その次の瞬間、無防備に開いたその男の胸部を鎧ごと、ヒュベル自慢の業物わざものの十文字槍が刺し貫いた。

「うわあああああっっつ!!」

 槍は死体から素早く引き抜かれ、ヒュベルの手元まで引き戻される。仲間の死に逆上した敵は制止するバアルの声を無視し、次々と前へと進み出た。

 一足一刀の間合いに入られたら槍では対処しようが無い。ヒュベルは近づこうとする敵に順に軽く突きを入れて牽制する。三人同時の相手という圧倒的不利の局面にもかかわらず、ヒュベルは現状を余裕を持って対処していた。

 だがヒュベルにも弱みがあった。それは獲物が十文字槍という長物であったことだ。

 ここは王城内、しかも後宮の廊下である。もちろん一般の家の廊下ほど狭くは無いが、それでも槍と言う武器の能力をフルに使うにはここは狭すぎた。一歩間違えて、天井や柱に刃が食い込んでしまえばそれで全てが終わる。突く、はともかくも薙ぐ、払うといった行動には制限が付いたのだ。

 もしヒュベルほどの達人でなければ、たった一人でこれほどの人数を、しかもバアルのような猛者をも含めて相手にすることなど不可能ごとであったであろう。

 だが体勢を立て直したアエネアスがそこに加わっても全面的に押し返すまでには至らなかった。いかんせん不利な条件が重なりすぎていた。

「アエネアス殿!」

「なんでしょう、ヒュベル卿?」

「陛下はまだ中におられるのか?」

 ヒュベルはアエネアスが王の執務室の前で敵と交戦しているのは、なんらかの理由で王が執務室を離れられないからではないかと疑っていたのだ。例えば王が動かせないほどの重症を負っているとか。

 だがアエネアスは中を確認する前に敵と交戦した。当然知りうる立場ではない。

「・・・セルウィリア、知ってる?」

 顔を蒼ざめさせたまま、バアルを見つめていたセルウィリアはその言葉が自分に向けられたものであることをしばらくの間、認識できなかった。

「あ、はい。・・・いいえ、わたくしが来たときにはもう中はもぬけの殻でした。陛下はどこかに動座されております」

「ならばここを死守する意味は無い。私は屋内で戦うには不利な得物、アエネアス殿も鎧すらつけておられぬ身、ここは一旦退いて味方と合流して反撃体制を整えるべきではないでしょうか? ・・・守らなければならない方もおられることですしね」

 ヒュベルはそう言うとバアルから視線を逸らさないセルウィリアをちらりと横目で見る。

「同感です」

 ヒュベルの提案ににこやかに笑みを返すと、今度は一転して冷たい表情をセルウィリアに向けた。

「聞いたでしょ? 早くその女官と共に下がりなさい。もっともあんたが下がりたくないと言うのならわたしは止めないけどさ」

 その言葉にセルウィリアは顔を曇らせる。そこに今度はバアルから誘いの言葉が投げかけられる。

「姫陛下!」

 ヒュベルとアエネアスをバアルはセルウィリアに向かって手を伸ばす。

 だがセルウィリアはバアルの伸ばした手を掴もうとはしなかった。

「ごめんなさい、わたくしにはやるべきことがあります。バアルと一緒には行くことはできません」

 悲しげな顔をして首を横に振り、バアルの提案を婉曲に拒否すると、バアルに背を向けて女官と共に後宮の廊下を紫宸殿ししんでんに向かって駆け出していった。

「姫陛下ァァァァァァァア!!!」

 バアルの悲痛な叫び声はセルウィリアの心には届かなかったのだろうか。セルウィリアはバアルの方向を一度も振り向くことなくバアルの視界から消えていった。


 一旦、混乱が落ち着くと、同じ鎧を来ていても明らかに他と違ってイレギュラーな動きを見せている者は否が応にも目立ってしまう。

 それで思ったよりも敵の人数が少ないことが徐々に判明し、王城全ての奪回は時間の問題かと思われた。

 だが敵味方の判断が外見で簡単に出来ない上に、敵には何人か手練てだれがいて、思った以上に強力な抵抗に合って後宮の制圧に苦戦する。それどころかいつまで経っても肝心の王の行方が判明せず、アエネアスらを焦らせた。

 だが時間が経つにつれ、非番の者や自宅に帰っていた兵も官吏も続々と王城へと詰め掛ける。数は力だ。王城と後宮との間にあり敵の手に落ちていた諸門を取り戻せば、後は一気呵成いっきかせいだった。

 しかし敵を後宮の奥に追い詰め、逃げ場を塞いだと思って敵を逃がすまいと重囲を敷くのに時間を掛けたことが結果として失敗だった。

 いつまで経っても反撃してくる様子が見られず、兵を突入させると、そこは既にもぬけの殻だった。

 そこには誰も知らない抜け穴が存在し、そこを通って生き残った教団の者は逃げ出した後だったのだ。

「こんなところに抜け穴があるなんて、羽林将軍であるのにわたしは知らなかった」

 その抜け穴を眺めてアエネアスは憮然としてそう言った。

「私はじめ内侍司ないしのつかさの者さえも誰一人知っておりませんでした。おそらく知っていたのは尚侍ないしのかみ様だけかと」

 アエネアスはその名前を痛痒と共に聞かねばならなかった。アリスディアはアエネアスの数少ない大切な友人の一人であり、そしてソラリア教の熱心な信徒であることを知っていたからだ。

「・・・・・・アリスはどこ?」

「申し上げにくいことですが、賊徒と共に行動をしていたとの目撃証言があります。もちろん未確認ではありますが・・・」

 申し訳なさそうにグラウケネはアエネアスに頭を下げた。

「・・・そう」

 アエネアスはそっと表情を曇らせる。

 私よりも、そして有斗よりも、教団を取ったということか。

 信じるということはそれほどまでに当人にとっては素晴らしいことで、人を惹き付け已まないものなのだろうか。

 その気持ちはアエティウスに対して信仰にも近いものを抱いていたアエネアスには分かりそうなものであったが、何故か微塵も分からなかった。人は自分のことは分かっても、他人のことは分からないのかもしれない。

 アエネアスは頭を振ってアリスディアのことを追い出すと、傍にいる羽林の兵たちに手早く指示を出した。

「とりあえずは陛下の安否を。陛下を探さなきゃ・・・死体になっていなければいいけど」

 もちろん人質として叛徒に囚われているという選択肢も無いわけではないが、であるならば叛徒が王城から撤退するのは理に合わない。有斗に剣を突きつけられては朝廷としては両手を挙げて降参するしかないのだから。

 だからその可能性は少ないだろう。ということは・・・・・・

 アエネアスは少し悲観的にこの先の成り行きを想像せざるを得なかった。

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