疾駆の章

第350話 王城炎上(Ⅰ)

 アエネアスが異変に気付いた時には、既に王城だけでなく王都内のあちらこちらで一斉に火事が起こり、王都の街路という街路は騒乱で包まれていた。寝巻きの上から軽く上着を羽織って街の街路に出ると、王都のあまりの変貌振りに思わず声を洩らした。

「なにこれ・・・何が起こってるの!?」

 まだ夜も明けきらないというのに、王都の街では夜空を焦がすようにあちこちから炎が上がり、既に朝が来たかのように明るかった。

 火に追い立てられるようにして王都の住人も手に持ち抱えられるだけの荷物を持って逃げ惑っていた。もっとも中にはこの騒ぎに乗じて盗みを働こうとする不埒ふらちな者もこっそり紛れているのであろうが。

 燃え上がる火炎の音、燃え落ちる建築物の崩壊音、足音、叫び声、会話の声。王都全体がこの時間にもかかわらずざわめいている。

「わ、わかりません。私が起きた時にはもう既に・・・! お、王都中で何かが起こっているようです!」

 今まで経験したことの無い怪事に恐怖を覚えているのであろう、テルプシコラはかたかたと小さな体を震わしていた。

「テルプシコラ、門にかんぬきを掛けて戸締りして中に籠もっていて。わたしが帰ってくるまで誰も入れちゃだめよ。あ、ただし周囲の火の様子だけは気を配っておきなさい。火事が迫ってきたら、消火しようだとか余計な考えは抱かずに直ぐに逃げて!」

「わかりました! アエネアス様は?」

 うまやから愛馬を引き出し、鞍を手早く装鞍そうあんするアエネアスの後姿にテルプシコラは声を掛けた。

「わたしは王城へ向かう! 陛下が心配なの!!」

 そう言うと、剣一本だけを持ってアエネアスは馬に跨ると、王城目指して人ごみの中に馬を駆けさせて消えて行った。


 有斗の居室がある清涼殿せいりょうでんの西側に後涼殿という殿舎が存在する。本来はそこは王の御物などを入れておく納殿おさめどのや王の食事を整える御厨子所(みずしどころ)があり、後宮十二司こうきゅうじゅうにしのうち、蔵司・膳司・酒司の女官がいる場所でもあるのだが、西に羽林大将詰め所、右武衛大将詰め所があり、東に有斗の住まう清涼殿、南に王の私設秘書の役割を果たす侍中じちゅうが詰める侍中府があって、宮中内で一番監視が容易な場所だという理由で南側の上納殿を改装し、セルウィリアの居室に充てている。

 清涼殿の王の間は四師の乱で焼け落ちたままであるため、有斗の部屋は本来はその前の控えの間を使っている。後宮内にはもっと広い部屋も豪華な部屋もあることはあるのだが、そこに入るべき后妃こうひが一人としていない現状、セルウィリアが使っているこの後涼殿の部屋こそが一番広い部屋なのである。しかも有斗が好きにしていいといったものだから、王宮内の倉庫から好きなだけ高価な壷だとか絵画を選び出して飾り立てるものだから、後宮随一の豪華で華麗な部屋でもあると言ってよい。

 女官たちの間では誰が本当の王なのやらと陰口を叩かれるが、当の本人は陰口も嫉妬も一切気にせずに気ままに暮らしている。

「セルウィリア様、セルウィリア様」

 自分付きの女官に揺すられてセルウィリアは目を覚ました。眠さで重くて持ち上がらないまぶたこすって、変な時間に自分を起こした女官に文句を言う。

「・・・なんなのですかいったい、もう少し寝ないとお肌が荒れるではありませんか・・・美容には十分な睡眠が必要ですってよ・・・」

 セルウィリアは後宮内なら行動の自由が許されており、いつ寝ようがいつ起きようがまったく自由と言う結構なご身分である。

 もっとも王として厳格なしつけを施されてきたセルウィリアは、きちんと化粧して盛装して、朝議に間に合うように起きることができる便利な体内時計を所持している。その体内時計がセルウィリアにまだ起きるべき時間に達していないと頭の中で告げていた。

暢気のんきなことをおっしゃっている場合ではございませぬ。王城内で火事でございますよ。こちらに燃え広がるかもしれません、お早くお支度を!」

「・・・え!?」

 女官から容易ならざる事態が現在進行形で起きている事を告げられ、セルウィリアはようやく頭の中の奥深くまで冴え渡る。

「そ、それは本当ですか?」

「嘘などついて私に何の得があるというのですか」

 それもそうだ。セルウィリアは慌てて跳ね起きると手早く上着を羽織り、廊下へと出ると有斗と同じようにしとみから顔を覗かせ、周囲一帯を確認する。まずは火事の規模と方角、風の方向を把握しないと逃げても火に囲まれてやぶへびになりかねない。

「・・・火事の規模はそれほど大きくないようですわね。後宮全体に燃え広がることはなさそうですよ。でも随分離れたところが延焼していますね。あら・・・あんなところにも火の手が・・・間の殿舎に火が付いた様子も見られないのに・・・不思議なことですこと」

 ざっと見た感じ後宮全体が火炎で明るく照らされているが、それは一面の炎と言うわけではなく、三、四箇所の場所で燃え上がった火の手が篝火かがりびのように後宮全体を照らしているだけだということにセルウィリアは目聡く気が付く。

「どうやら複数の箇所で同時に燃え出したようです。羽林や武衛の兵が総出で消火活動に当たっているとか・・・きっと失火ですわね。なんて恐ろしいことでしょう」

 言葉の中に見逃せぬ情報を見つけ、セルウィリアは思わず振り返ると女官に詰め寄った。

「同時に!?」

「あ・・・はい。何かおかしなことでも申したでしょうか?」

 きょとんとした表情の女官に呆れながらも、セルウィリアは時間を無駄に費やす具を犯すまいと、小走りで廊下を走りながら女官に説明した。

「同時に失火などありえぬこと、これは何者かの謀反です! 敵の狙いはきっと陛下のはず! 急いで知らせなければ!」

 セルウィリアは有斗の寝室のある清涼殿へと足を急がせる。


「・・・・・・!」

「・・・・・・・・・・・・!!!」

 セルウィリアたちは目の前に突然現れた凄惨な光景に思わず眼を背けた。

王の執務室の前、すなわち有斗の寝室の前の廊下は一面の血の海であった。

「陛下お付の羽林の方々・・・ですわね」

 死体の数は全部で七つ。多くは羽林の兵の死体で、何故か金吾の鎧を着た兵までもがそこで絶命していた。

「敵はここまで攻め込んで来て、羽林がここで迎え撃ったんだわ」

 何故、門も無いのにここに金吾の兵がいるのか、ちらりとセルウィリアの頭を疑問が横切ったが、今は有斗の安否を確認することが何よりも最優先、と頭脳が考えを切り替えてしまい、それ以上の思案には至らなかった。

 セルウィリアは意を決して有斗の執務室に、そしてその先の寝室へと足を向けた。

「・・・・・・いない」

 いないし、死体も無い。安堵すると同時に、今度は今頃有斗はどこでどうしているのだろうかいった不安が首をもたげてくる。

 それに敵の正体も気になるところ、と様々な思案にふけるセルウィリアに女官が震える手で袖を引っ張り注意を促した。

「セ、セルウィリア様。いつまでもこのようなところにいては危険です。は、早く別の場所に移動いたしましょう」

 そう言われるとセルウィリアにも自分の身に対する不安が一気に襲い掛かってきた。

 敵の狙いが王の命なのはまず間違いの無いところ。だからといってその他の者に一切手出しをしないなどといったことは考えられない。

 もちろんセルウィリアは羽林の兵のように彼らに出会っても剣を向けることは無いし、そもそもそんな腕も度胸も無い。

 しかし彼らが姿を隠したほうが都合が良いと考えているなら、見られただけで口封じのために殺されることだってありうるだろう。

「そ、そうですわね。いつまでもこんなところにいたら無用心ですわね。とりあえず陛下がおそらくはまだご無事であると分かったのですから、一旦ここを離れましょうか」

 セルウィリアはそう言って慌しく有斗の寝室を後にし、血の海と化している表の廊下へと歩み出た。

 その時、大勢の人間の足音とおぼしきが音が後宮の裏側、弘徽殿こきでんの方角から響いてくる。

 セルウィリアと女官はぎょっとした表情をつき合わせて、恐る恐る足音のする暗がりへと目を凝らした。遠くから明かりが動いてくる。

 明かりは暗闇から金属製の鎧を次々と浮かび上がらせた。

「なぁんだ金吾の方々ですよ。きっと陛下をお守りに駆けつけたんですわ。陛下の代わりに私たちも守ってもらえますよ。良かったですね」

 救いの使者を発見したかのように無邪気に喜ぶ女官の脇で、セルウィリアは一人凍りついていた。

 見た顔がある、知った顔がある。その中の一人にセルウィリアは大いに心当たりがあったのだ。

「バアル・・・・・・!!」

 それはここにいるはずのない顔、いてはいけないはずの顔だった。


「姫陛下・・・!!!」

 セルウィリアとほぼ同時にバアルも相手の存在を認識していた。最後に互いの姿を身、声を交わしてから幾年の月日が流れたことか。

 バアルは胸中で何かが大きく揺れ動くのを感じた。セルウィリアのことは半ばもう諦めていただけに、まだ自分の中に沸き上がる感情があることにバアルは大層驚いた。セルウィリアも思いは同じなのか、目に見る見る涙が溢れて溜まっていく。

「バルカ殿、感動の再開に水をはさむようで申し訳ないが、今は目的が違いますぞ」

 思わず固まってしまったバアルにガルバは苦笑いを浮かべながらも、本来の目的を思い起こさせようと注意を促した。

「だが・・・セルウィリア様は関西復興の旗頭だ。関西の旧臣を集めるためには是非とも味方につけなければ。それにその方らもセルウィリア様がいたほうが関西の諸侯を味方に付けられるし、王の権威を弱めることが出来る。味方にするほうが得策ではないか」

「・・・ですが時間がありません。説得は手短に頼みますぞ。我らはそのまま王の寝室へと向かいます」

 ガルバは舌打ちしたい気持ちをどうにか押さえ込んでここは譲歩を見せる。

 火をつけると同時に信徒である武徳門の金吾十名ほどが王の部屋に押し入って、王を殺害する手はずになっていた。

 だが何かの弾みでそれが失敗する可能性は考えなければならない。他の諸門に屯する信者の金吾の兵を第二陣、第三陣として回すという考えもあったが、金吾の兵が大勢後宮をうろついていれば目立つし、信徒は金吾全体から判断すると極僅かだ。持ち場を離れるときに不審に思われるかもしれない。

 だから念には念を入れて、地下通路から王城へと侵入したガルバの手の者やバアルたち精鋭が第二陣として王を襲う手はずになっていたのである。

 成功したら金吾の兵と一手になって行動する予定だったから、途中で出会わなかったということは失敗したということであろう。

 念のために裏から兵を入れておいて正解だったとガルバはほくそ笑んだ。

「姫陛下!」

 バアルは集団から一歩抜け出て、セルウィリアの元へと歩み寄ろうとする。

 と、セルウィリアの後ろから、追い越すように赤い影が出て、二人の間を阻むように立ち塞がった。

「ここは通さない。金吾の格好をしているけど知らない顔ね。さっき話していたようだけど、あんたの知り合い?」

 アエネアスがちらりとセルウィリアに厳しい目線を送ってそう言った。若干、責めているような威圧的な目線だった。

「アエネアスさん・・・!」

 その二人を見て、どうやらそれなりの関係がある間柄と見たバアルは一刀の下に切り捨ててはセルウィリアが泣くだろうと思い、寛大な、それでもってアエネアスにとってはありがた迷惑な提案をした。

「どけ。どうやら姫陛下と顔見知りなようだな。それに免じて今ならば、命だけは助けてやらぬこともない」

 確かに相手は多勢でこちらはアエネアスただ一人。しかも女だ。甘く見られても仕方が無いかとアエネアスは苦笑する。

 だがアエネアスは舐められことがなによりも嫌いなのである。むしろその有難い言葉に戦意を喪失するのではなく、闘争心が沸いてくる性質だった。

「こっちも仕事なの。そうも贅沢を言ってられないんだから。でも・・・」

 金吾の鎧を着た敵が揃いも揃って剣を抜き、あくまで押し通ろうとしている姿を見て、アエネアスはどうやら会話でどうこうなる連中ではないことを悟る。もちろん街中から王城、更には後宮にまで火をつけてでも目的を達しようとする連中だ。当然といえば当然だといえる。

「どうやら友好的な集団とは言えないようね」

 アエネアスは剣を鞘から抜き放つと上段に構えて間合いを詰める。

「仕方あるまい。女を切るのは本意ではないが・・・」

 バアルも溜息をつきつつ前へと半歩間合いを詰める。

「ふん。大きい口を叩けるのは今のうちだけよ」

「アエネアスさん、剣を退いて! 相手は関西随一の剣の使い手バアルです! 貴女では勝ち目はありません! 殺されてしまいます!」

 セルウィリアはバアルの目が真剣で、女相手であっても本気で斬り捨てる気でいることを察し、慌ててアエネアスに剣を退くように言った。

 アエネアスの強さも十分に知っているセルウィリアだったが、バアルの剣の強さも、また存分に理解していた。バアルの剣の腕はそこらの強さとは次元が違う強さなのだ。

「・・・バアルですって!?」

 普段のアエネアスならば自分が相手にならないと卑下されたことに怒ったであろう。だが今のアエネアスは目の前の男の名前がバアルだということで頭が一杯になっていて、それどころではなかった。

 バアルという名前、それは・・・

「それは兄様の命を奪った白鷹の乱の首謀者・・・!」

 つまりアエネアスにとって決して相容れることのない不倶戴天ふぐたいてんの敵。

「兄様の仇!!!」

 アエネアスは一歩前に踏み出し、体を深く沈みこませるとやや左に回りこみながらバアルに急接近を図る。

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