第346話 突き飛ばす

 百年を越えた戦国の世が終わり、復興需要に沸く王都は、空前の規模の繁栄を享受しようとしていた。

 関西と関東が統一されたことによって有斗の王都である東京龍緑府には関西から大勢の官吏が引っ越してきた。そのことによって、戦国の長い時間の間、時が止まったかのように寂れていた王都に建築ラッシュがまず起こった。

 移住してきた官吏だけでなく、建築現場で働いている人夫の生活を支えるための多量の生活物資が必要になり、それを売る商人が各地から集まるだけでなく、その物資を運ぶための人足も必要になる。

 そうすればその彼ら相手の商売を目論んで、また新たな商売人が集まってくるといった具合に、需要が需要を生み、商売が新たな商売を生み出すことによって、かつて中央目抜き通りですら屋根に穴の開いたようないつ建てられたか分からないと揶揄やゆされるような古屋が目立った東京龍緑府も、この三年で次々と新しい官吏の館と商人の店舗、新たな住人が住む住宅で、古びて朽ちた建築物は次々と一掃されていた。

 だがそういった金の臭いに引き寄せられ集まってきた人間も、全ての人間が等しくその恩恵をこうむることができるわけではない。

 あぶれた者たちは好景気で一旗上げた幸運な者たちの手から零れ落ちたその日限りの仕事にでもありついて糊口を凌ぐ。

 彼らはもちろん王都に一軒家を構えて住むことも、華やかな宿に泊まることも出来なかった。

 王都の外れ、王城のある北辺、そして華やかな朱雀大路のある中央通りからはもっとも離れた場所の南東にその一角は存在する。

 王宮の近辺や朱雀大路及び四条通沿いなどの一等地は改築、新築が盛んであったが、王都は広い。そこは繁栄から取り残されかのように色あせた建物が立ち並んでいた。

 道端には住むところも泊まるところも無い浮浪者が座り込んでいた。それどころかその一角を歩けば一日何体か死体が転がっているのを見ることが出来る。

 もっともその一角を意味なく歩こうなどとは住人ですら思わないことではある。そんなことをすれば命がいくらあっても足りやしない。治安の極めて悪いところだ。

 建物の多くは官の許可のないまま建てられた不法占拠の建築物、それもつぎはぎだらけの建築物、小さな建物が並び立ち、中には傾いたものもあるような地区だった。

 まとまな整合美など求めようの無い世界、貧民街。それは有斗の知らない王都のもう一つの顔だった。


 そんな貧民街の一角にその店はある。

 何かを焼く香ばしい匂い、熟れた柿のような臭い、日々の不満を忘れ仲間と大声で笑い合う声、将来の不安を意味などない狂ったような大声に変えて口から出しては酔いつぶれる男、見知らぬ相手同士で勝負が行われて飛び交う銭、しきりに羽振りの良い男の腕を引き己を売り込む女、猥雑な空気はこの時代のどこの酒場でも変わらない。

 店の入り口には板をくりぬいて作られた酒樽の形をした看板が下げられて、そこが酒場であることを指し示しており、その下には勇ましい空想上の怪物が描かれた看板がさらにぶら下がっていた。

 怪物はところどころ焼け焦げ、血でも染み込んだのか黒くなっているところもある。どこぞの傭兵団の旗印ででもあったに違いない。

 そこの店主は女主人だった。かつて彼女は酒保の女だった。それはなけなしの金を集めて、ようやく開いた彼女の城だった。

 戦争が終わり傭兵隊が解散し、酒保も必要なくなったため解体され、彼女は稼ぎ口を求めて仲間と共に王都へとやってきたのだ。

「はぁ・・・」

 日付が変わる頃にようやく酒場は閉じる。今日も赤字だった、と女主人は溜息をついた。

 それもしょうがない。

 彼女は軍隊に共に行動する酒保の女がおしなべてそうであったように、どちらかというと磊落らいらくで豪快だった。

 戦場で生きるにはそうでないといけなかったし、また明日をも知れぬ傭兵たちには、いくら美しくとも、女の中にはかなさや脆さを感じて死の危険を思い浮かべるよりも、そうであったほうが生命の力強さを、生きている実感を感じさせられる分だけ良かったのだ。

 だが平和な時代の華やかな都市の酒場女となれば、むしろいかに可憐でたおやかであるかを競う。そして硝子細工のように繊細で壊れやすい、作られた女性像を男は求めるものなのだ。

 とはいえ彼女の性格のせいだけではない、何より立地が悪い。貧民街の真中にある酒場だ。

 町の繁華街の一等地にある酒場と違い客層が悪い。大半の客はツケだ。それどころか平気で代金を踏み倒す。

 もちろん共に戦場で暮らした馴染みの顔は訪れては来るものの、彼らもまた職を求めて王都に来た身、職にありつける運のいいものは少ない。食うや食わずの彼らを見かねた彼女が食事を奢ったりするものだから、僅かな儲けなど吹き飛んでしまうのだ。

 閉じたはずの表の扉がかたことと騒がしく音を立てる。彼女が内鍵を外すと酒の臭いと共にひげを蓄えた精悍な厚みのある体を持った男が中へと転がり込む。

「帰ったぞ、イアネイラ」

「あんた、遅かったわね」

 男の名はメネクセノス。かつてイアネイラの酒保が付いてまわった傭兵団『火吹き蛇サラマンドラ』の百人隊長だった男だ。

 いかなる戦場に出ても帰ってくると言われたほどの剣の腕を持ち、部下からの信任も厚い男だった。他の傭兵隊にも名前の知られたほどの強者で、その姿は戦場でいつも眩しく輝いていた。イアネイラの憧れの人であった。

 イアネイラとは長い付き合いで、平和になったこれを機会にと、二人で誓い合って所帯を持ったのだが・・・

「そろそろ新しい仕事には慣れた?」

「あんなつまらねぇ仕事、こっちから辞めてやったよ」

「あんた、また・・・」

 イアネイラが咎めるような声を出すと、メネクセノスは思わず頭に血が上った。

「もう、その話はするな! 胸糞悪ぃ!!」

 メネクセノスはイアネイラを突き飛ばす。倒れこんだイアネイラの体が片付けたばかりの周囲の椅子を派手に転がした。

 かつてイアネイラにとっても誇りだったメネクセノスは今や仕事に就くも直ぐに辞めたり、首になったりとイアネイラの頭痛の種の一つだった。

 これまで幾度か仕事にはあり付いたものの、戦場でなら箸にも棒にも引っかからないような遥かに年下の男に、馬鹿にされたような目つきで顎で指図されることに我慢がならず、その度に仕事をやめていたのだ。相手をぶん殴って首になったことも一度や二度のことじゃない。

 戦場での働きが素晴らしいものだっただけに、自身の能力に誇りを持っていたから、他人から馬鹿にされることに耐え切れなかったのだ。そして見るからに若い格下の男が簡単に処理できる仕事ができない自身がたまらなく恥ずかしかったからだ。

 誇り高い男であったからもし何か大志を抱いていたなら、生きるためにどんな屈辱も耐えたであろう。

 だが戦場を失った今の彼には命を燃やすに足るものが何一つなかった。生きることとイアネイラのことだけが辛うじて彼をこの世に繋ぎとめているといった状態だった。

「あたいたち、どうしてこんなことになっちまったのかねぇ・・・」

 目を両手で覆いイアネイラはうつむいて嘆いた。

「・・・しらねぇよ」

 さすがにイアネイラを突き飛ばしたことに良心が痛んだか悲痛な顔をしてメネクセノスは溜息混じりに呟くだけだった。


「お願いでございます。私たちから土地を取り上げないで下さい!」

 農民たちは一斉に頭を下げた。

 有斗がラヴィーニアに命じて荘園の土地の価値を調べるように言ってから二ヶ月、各地ではその調査にようやく着手を始めていた。

 想像していたよりも荘園は数多く、そしてそこで働く小作の数も多かった。地方官らはてんてこ舞いである。

 だがその多くが集中していた南部では所有者である荘園領主だけでなく、そこで働いて暮らしている小作たちからも国が荘園を収公することに激しい抵抗が見られた。

「分からない奴らだな」

 その地方官は気が知れないといった顔で前に立ちふさがる荘園労働者たちの顔を眺めた。何故なら彼ら小作に、そのままこの荘園の土地を給付される可能性が極めて高かったからだ。

 なにせ一旦は国が収公するといっても、そのままでは荘園は一銭も金を生まないただの土地だ。再度人民に供給されない限り税を生み出してはくれない。すると都合のいいことにその土地のことに詳しく、しかも働く意欲のある大勢の無職の者がいるという。彼らに供給しないという理屈がない。

 もちろん一から開発しなくても済む土地を人民に支給するのは官吏にとって旨みのある話だから、自分の家族や親戚などの次男三男にそういった豊かな土地をあてがおうとする者も出るに違いないが、だがそういう方向で進めるようにとの有斗からの通達も来ている以上、どちらかというと後難を恐れて小作に元の耕作地を与えるようにするのが賢明なことだ。

 今や有斗の政権基盤を揺るがしそうなものはアメイジアに何一つ見当たらないのである。その絶対権力者の意向を無視することは、すなわち命の危険を顧みない行為である。しかもその絶対権力者には眺めただけで不正が分かるとまで言われる冷徹非情な中書令まで付いているのだ。頭が飾りで付いている者以外は、命令をそのまま実行することだろう。

「確かに荘園が無くなれば、お前らは一旦職を失うかもしれないが、お上は代わりにお前たち一人一人に立派な農地をくれてやろうと言うのだ、悪い話ではあるまい? そこはお前たちのものだ。小作料より遥かに安い税さえ払えば、今までよりもずっといい暮らしが間違いなく出来る。どうだ、素晴らしいだろう?」

 地方官はそう言って彼らに薔薇色の未来を提示する。小作をやる程度の才覚しか持たぬ人間どもだ、甘い言葉に直ぐにのってくるだろうとその地方官は楽観視していた。

「そんな旨い話があるものか!」

「そうだそうだ!」

 だが口々に上がる言葉は官を信じない言葉ばかりだった。長い戦国の末に民の間には朝廷に対する大きな不信感が生まれていたのかもしれない、と地方官は遅まきながら気付いた。

「お役人様、我らは今の生活で十分満足しております! ここは戦国で傷ついた我らが最後に辿り着いた終の棲家、どうかこのまま平穏に一生を過ごさせてください!」

 地方官は心底うんざりした。それなら一生そうして暮らしていろと言い放ちたい所であったが、それでは今度は官吏としての自分の首が飛ぶのだ。

 もはや公権力をもってしてでも強行するしかない、と地方官は一転して強気の態度を示す。

「これは陛下が決めたことだ。お前ら下民風情がどうこう言って変わることはありえない。どけ! これ以上邪魔立ていたすと牢屋に放り込むぞ!!」

「そんな・・・!」

「横暴だ!!!」

 非難の声にまったく耳を貸さず、地方官は連れてきた兵に指示を出し、前に立ちふさがる住民の強制排除に乗り出した。

 兵を連れて来て良かった、と地方官は思った。これでここの調査も今日明日中には終えることが出来るであろう。なにしろ似たような荘園はこの近辺だけでも六つもある。彼の担当範囲全域では大小あわせて五十近い。たった一個の荘園に時間をかけていては報告の提出期限に間に合いっこないのだ。

 地方の治安維持や罪人の追捕に使われる兵ではあるが、やはり唯の民とは体力も腕力も違う。次々と人を捕まえ、放り投げては荘園内部へと道を作った。

「お願いです、おやめください。わしらにはここより他に行くところなどないんじゃ」

 一人の老婆が地方官の腰にすがり付き、涙を流して嘆願する。

「ええい、離せ! 汚い手で触るな!!」

 地方官は腰をつかまれたことで、咄嗟に本能でその老婆を突き放した。意図したわけではないが全力で振り払ったため、老婆の体は手毬のように何回も地面を転がる。老婆は言葉にならないうめき声を上げながら転がり、小屋にぶつかってようやく止まった。

 老婆はぐったりと首を垂れ、身動き一つしなかった。

 慌てて駆け寄った男性が老婆をしげしげと観察し、やがて何かに気付いて腰をすとんと地面に落とした。

「息が・・・! 死んでいるぞ・・・!!」

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