第311話 翻弄(Ⅳ)
敵は王師中で最も東に位置するリュケネたちをまず襲い、次いで北西へと進路を変えザラルセン隊を撃破した。
ステロベやベルビオが兵を集めて救援に赴いたときには敵は兵を
敵は芳野を東から西へと移動している。王師に襲われた諸侯を助け吸収しつつ、北西奥地へと兵を退き王師を誘い込んでいると見るべきだろう。だがその経路には北西に向かって芳野の攻略を進めているエテオクロス隊が存在する。エテオクロス、ヒュベル、プロイティデス三将軍率いるその軍は王師の最精鋭部隊であると言ってよい。
有斗はエテオクロスにザラルセン隊が敗北したことを知らせ、次いで念のために警戒を怠らぬようにと厳命した。
有斗ごとき軍事素人が王師の誇る三将軍に言うべきことではないとは思ったが、念には念を入れたのである。
また同時に順調に攻略を終えている三隊の距離を近づけ、再び兵力を一本化することにした。これで例えどこかの部隊が襲われても、これまでと違いすぐに援兵を派遣することができる。敵もこれまでのようには行かなくなるはずだ。次の
とはいえ、それは命じただけ。三軍、いや有斗の本営を入れて四軍が
敵はその間隙を見逃してはくれなかったのだ。
有斗は敵に襲われ大きく陣形を崩したステロベたちを一旦後方へ下げ、次いで本営を前に進めて合流し、その場でエテオクロスらと連携を取りつつ、リュケネらの部隊を東方より戻すことで部隊を一元化しようとしたのだ。
皆が集結するまでの間、有斗はガニメデ相手に、この戦役における、次の一手をどうすべきか話し合っていた。他に対してすることもないし、全員が集結してから、さてどうするかと考えるよりも、ある程度の方針だけでも
将軍たちの話や合戦の勲功帳からガニメデが有能な将軍であることは充分理解していた有斗であったが、実際話してみると、確かにその片鱗を
「今我々がいる荒城平を制圧すれば、我々は中越街道を通り、雪越山脈を抜けて妻科平へと向かうことになります。雪越山脈の下を抜ける檜尾峠は切り立った崖にへばり付く様にして進まなければなりません。大軍の行軍には極めて不向き、何よりも兵站に支障をきたします。ですから我々はこの際、雪越山脈を大きく迂回し、平坦な場所を通って侵攻すべきです」
ガニメデは有斗と共にずっと本陣にいたはずなのだが、何時の間に調べてきたのか、地元民から周辺地理について詳しく聞きだしてきていた。
その情報は三方に派遣した各王師から送られてくる報告よりも、より有用で細密だった。
ガニメデは本陣で過ごさなければならない余った暇な時間を、そういった情報を集めることに使うことに余念が無かったということであろう。
「だとすると軍は妻科平ではなく塩田平へと出ることになる。越へは近づくことになるけど、芳野の西半分がまだ敵の手中にある限りは、そこから越へと進むわけにもいかないだろう。むしろ王師は越からくるオーギューガの軍と挟撃される危険性だってあるんじゃないかな」
「それなら我々の思う壺です。我々の最終目的はオーギューガを屈服させることです。その為には野戦であれ、攻城戦であれ、一度は戦場にて打ち破らなければならないでしょう。もちろん攻城戦よりも野戦のほうが兵数の多い我々には有利です。一旦、越からオーギューガを引っ張り出しさえすれば、一万もの大兵を収容できる施設が芳野にはほとんど無いことを考慮すると、野戦に持ち込むことはさほど難しいことではありますまい。また、塩田平と妻科平の間は、荒城平と妻科平の間と同様に兵の往来が容易くできる状況ではないようです。例えテイレシアが挟撃策を企てようとも、両者の連携は取りにくく、実質機能しないでしょう」
「なるほど。だとすれば、我らは芳野の兵と越の兵とを分断することに成功することになる。その侵攻作戦は極めて有効に機能しそうだ。さっそく皆が集まったら、検討することにしよう」
「はっ!!」
と、秩序と静寂が支配する王師の陣営地に相応しからぬ時ならぬ人馬のいななきが響き渡る。有斗は思わず顔を上げた。
「・・・なんだろう?」
「喧嘩でしょうかね。すぐに行って抑えてまいります」
いくら統率の取れた軍隊である王師とは言え、血気盛んな男たちの集団だ。些細なことから喧嘩になり、刃傷沙汰にまで発展することは実はそう珍しいことでもない。しょせん前近代の軍隊なのである。上位の命令を下位の者が絶対に聞き入れるような関係ではないのだ。
「陛下、たいへんだよ!」
本営を出て行こうとしたガニメデに、荒い息を弾ませて逆に本営の中に入ろうとしたアエネアスがぶつかった。
「・・・・・・っっっっツ!!」
金属鎧と金属鎧が衝突する、高くそして鈍い音が響き渡る。
身長では高いアエネアスであったが、安定性の違いか吹き飛ばされた。短足で腹の出ている重モビルスーツみたいな体型のガニメデは重心が低そうだものな、と有斗は一人納得する。
「・・・これは! 羽林将軍殿、申し訳ない! 怪我はござらぬか!?」
「いや・・・大丈夫です・・・こちらこそごめんなさい。急いでたから
アエネアスが痛そうにぶつけた額を押さえながら立ち上がる。
「アエネアス、何が大変なの?」
「あ、いや、こんなことをしている場合じゃなかった! 大変よ、陛下! 敵が攻めてきた! 羽林の兵も出して応戦させているけど、敵は想像以上に多勢なの! 防衛には第十軍の力が要る! ガニメデ殿、急いで!」
アエネアスの言葉に有斗は今度こそ本当に仰天した。
「え!? 敵だって!? 一体どこの誰が王師に攻めかかって来たというんだい!?」
三方面に派遣した王師はデウカリオらからの奇襲にあったりはしたものの、正面から王師の前に立ちふさがるものは現れず、攻略自体は順調に進んでいた。
もちろん後々残しておいては、禍根になりそうなものは、一つ残らず刈り取っている。
その攻略地帯の中心にある有斗の本営に襲いかかれるだけの戦力は周囲には存在しないはずだったのだ。
「敵は前方、つまり北方から攻めかかって来た。その数は四ないし五千、兵数を考えるとリュケネやザラルセンらを手玉に取ったデウカリオやバルカの部隊という事になるとおもう! 大菱旗も赤獅子の旗も確認済みだから、間違いないよ!」
「そんな・・・!」
有斗は絶句する。それは芳野における敵の主力である。まだ全て把握しきれてはいないが、兵数においても本営の兵と大差ない可能性が高い。というよりもおそらく大差が無いからこそ勝機有りと見て襲い掛かってきたであろうと推察されるからだ。
だが王師全軍と比べるとあまりにも少ない。
「馬鹿な! 敵は王師全軍に比べて一割にも満たない数だ! 確かに本営の兵とはそう大差ないかもしれないが、ステロベたちもリュケネたちも今、現在こちらに向かっている。西方にはエテオクロスたちもいる。つまりこれでは敵は、わざわざ三方を囲まれるために王師の網の中に飛び込んだみたいじゃないか!こんな馬鹿げた作戦を取るなんてどうかしている! 狂っているよ!!」
「たしかに敵は我が軍の只中に飛び込みました。このままでは敵は四方を囲まれ、包囲殲滅されてしまうでしょう。ですが、まだ包囲されたわけではありません。そして今ここには羽林一千と第十軍五千しかいません。敵もほぼ同数です。これなら充分、戦になります。全体の兵数が少ないならば少ないなりの戦い方があります。どうにかして敵の隙を突いて本陣を強襲し、大将の首を取るしかない。敵はそう考えたのでしょう」
「王師が集まる前に本陣を、つまり僕を直接葬ることで戦争に決着をつけようとしているということか」
有斗が混乱から立ち直り、冷静に現実を把握し出したことにガニメデは一安堵する。
敵は不意を突いて奇襲し、その当初の混乱を利用し王の御座所まで一気に突き入ろうとしているに違いない。つまり、その一撃を防ぎさえすれば、無理をして急襲した敵の鋭鋒は脆くも崩れ去るということでもある。
敵はバアルやデウカリオら五千の兵ではない、己の中にある混乱だけなのである。
兵が同じならば、前もって堅固な陣営地を築いていた王師に圧倒的に利があるのだから。
「ご明察です」
「じゃあ、こんなところで暢気に話し込んでいる場合じゃない! 急いで応戦して、敵を打ち散らさなくっちゃ!」
慌てて自分一人でも飛び出そうとするアエネアスの手甲を掴み、ガニメデは言い聞かせる。
「おちつかれよ羽林将軍殿、私は敵のこの鋭鋒を防ぎきって見せます。それでも名高きカヒの黒色備え、私が敷いた陣形を突破しないとは限りません。陛下に万が一ということがあれば困ります。貴女は急ぎ兵を纏めて王の陣営を十重二十重に固めていただきたい」
「あ、うん・・・わかった」
「陛下、ご安心を。我がガニメデ隊は既にこういうこともあろうと万全の備えをして布陣しております」
突然起こった緊急事態にも関わらず、ガニメデはその場にいる誰よりも落ち着いてこの出来事に冷静に対処しようとしていた。
「それでは少しばかり行ってきて、敵を撃退して参ります。陛下は本営にて吉報をお待ちください」
外見に似合わぬガニメデの広言に有斗もアエネアスも面くらい、思わず顔を見合わせていた。
デウカリオらが最初に兵を出した目論見は、王師に攻められた芳野の諸侯を救援して、諸侯の心を繋ぎとめておくことだった。もちろん隙あらば敵を奇襲し打撃を与えることも、短期的にも長期的にも悪くは無いことだから行った。
その過程で思ったより王師は四方に攻略の手を伸ばし、本営にいる兵はそう多くは無いことを掴んだ。
だがそこで直ぐに王目指してまっすぐ兵を動かすのは考えものだった。警戒も厳しいだろうから、見つからないとも限らない。そうなれば王は三方に派遣した軍隊を呼び戻して包囲しようとするであろう。そうなればまさに袋の
そこでわざと王師の外縁部をなぞるように襲撃して西へ退却し、王師の目を西へと惹きつけたのだ。その後は慎重に慎重を重ね、王師の警戒の目をくぐり抜け南下し、王師の只中である王の本営を今日まで目指したのである。
「よし奇襲は成功したぞ! このまま一気に敵本陣まで突き抜ける!!」
先鋒の強襲に、王師の外陣は早くも混乱を見せカヒの騎兵隊の突撃に逃げ惑っていた。
「我らの強みは奇襲をかけたことで敵の不意を突けること。敵が混乱している間は我らが有利。だが混乱から立ち直れば、長期戦は陣営地を築き、援軍も期待できる敵が有利です。くれぐれも無理をなさらぬように」
バアルが立てた作戦ではあるし、充分勝機がある作戦ではあるが敵は王師、舐めるわけには行かない。
兵力的にもこの優勢は制限時間付きの優勢に過ぎない。万が一最初の一撃に失敗したなら、王の首を諦めきれずにぐずぐずと戦いを続けることだけは避けねばならない。一旦立ち直れば、王師は付け込む隙を与えてはくれないだろうし、救援も駆けつけてバアルたちには帰る道すら閉ざされることになるだろう。
「わかっている。それまでに決着をつけるさ! 者ども続け!!」
デウカリオはバアルに不敵に笑みを浮かべると、片手を振り下ろすことで、それを全軍攻撃開始の合図とした。
まず王師に奇襲をかけたのはデウカリオ指揮下のカヒ四翼から選りすぐられた三百の兵だった。
もし万が一、彼らが奇襲に失敗した場合は、彼らは囮となって王師の目を惹き付けることになっていた。その間に本隊は大きく迂回し、反対側から襲い掛かるというわけだ。
だが奇襲が成功したからには、わざわざ迂回して大切な時間を浪費するよりも、このまま勢いに乗ったまま混乱する敵兵を突き崩したほうが良い。
デウカリオが腕を振り下ろすと、少数の先行して奇襲した部隊に遅れじと、一斉に兵は槍を引っさげ突撃した。
先行した部隊も奮戦した。選りすぐられた精鋭だからなのか、王師の不意を突いたからなのか、カヒの兵は陣営地の一角をあっさりと切り崩すと、その勢いのまま次々と陣内に雪崩れ込んだ。
「想像以上に手ごたえが無い。これが王師の一角か?」
曲がりなりにも王のいる本営なのである。その手ごたえの無さはもう少し苦戦すると身構えていた彼らには拍子抜けする事態だった。
「行ける! 王の首を取れるぞ!!」
彼らは高揚するまま敵の戦列を寸断し、陣営内を突き進んだ。
だが王の馬印のある本営の方へ進もうとすると、重厚な隊列の兵が彼らの行く手を阻み、なかなか割り込む隙を見出せない。
「さすがに本営、なまくらな兵だけでは無いな」
着ている鎧は王師の兵と違い華美、だがその様相よりも、統率の取れた手堅い防御、そして何よりも一人一人の卓越した武技が彼らの行く手を阻む。
「この派手な出で立ち・・・! 羽林の兵か・・・!!」
それは手強い相手に出会えた戦士としての喜びだけではなかった。羽林の兵が彼らの前進を阻むということは、それだけ王の側にまで到達したということを表してるのだ。莫大な恩賞が彼らの頭の中にちらつき始める。王をその手にかければアメイジアの未来をその手に掴んだに等しい。天与の人をその手にかけるということは恐ろしいことではあったが、同時に歴史に名を刻むという栄誉にくるまれることは間違いが無い。
だがそんな夢に酔うことができる時間はほんのつかの間に過ぎなかった。
彼らは右に左に分け入って、敵兵を打ち倒しているのに、一向に王の本営には近づけなかった。
しかし敵の戦列を押し割れないのではない。幾度も敵戦列を突破し、その向こう側に出ているのだ。だが打ち破っても打ち破っても王と彼らの間には、羽林なり王師なりの兵が立ちふさがるのだ。
これはいったいどういうことであろうか・・・? 敵は古の魔術でもって彼らと王との間に無限の空間を作り出しているとでもいうのであろうか・・・?
兵たちの間に徐々に徒労感がつのる。
そんな中、やがて一人バアルだけが真実に気付いた。
カヒの攻撃を受けてあっさり戦列を突破されているかに見える王師の兵だが、突破した時にその先に斜めの戦列を作ることでカヒの攻撃を常に外側へと受け流していたのだ。つまりカヒは四角い王師本営の一面を突破してと思っているが、実際は右側面なり左側面へと排出させられているだけなのだ。戦列突破時に起きる混乱と興奮とで当事者であるカヒの兵は一切そのことに気が付いていなかった。
またこのような複雑な混戦状態では、右に左にと動かされることで当事者は方向感覚も失いがちなのである。
結果として、いくら敵戦列を突破しても、目の前に次々と新しい戦列が現れ、いつまでたっても王の下に辿り着けないといった不思議な感覚だけが残るだけなのである。
「兵のこの動き・・・! まさか!」
バアルはどこかでこの感覚に出会ったことがあると思った。そう、これは韮山で、そして河北でバアルが苦戦した時と同じような感覚。兵を精巧かつ緻密に動かし、敵兵の行動を思うがままに操るという大胆な用兵だった。
そして敵旗に翻る鷲獅子の紋章を見て、その疑問は一気に全て氷解した。
「やはり第十軍の軍旗、ガニメデか・・・!」
バアルは隊の指揮をパッカスらに任せて、デウカリオの元へと馳せ参じる。
「デウカリオ殿、我らは敵の思惑に乗せられている! このままではいつまで経っても王の足下にはたどり着けない! 勢いに任せての我攻めは中止すべきです!」
「なんだと! そんな馬鹿な! 我々はこの通り、あらゆる局面で敵を圧倒しているではないか!」
確かに今だ王の顔の見える距離には近づくことはできてはいないが、味方は優勢に戦を進めているようにデウカリオには思われた。それが証拠に、敵は反撃すら行っていない。
「それが敵の目論見なのです。わざと弱い箇所を設けて敵に攻撃させ、そこをわざと突破させる。我らは大した抵抗も受けずに突破できることから攻撃が上手く行っていると錯覚しているに過ぎません。実は敵は巧みに右へ左へと我らの攻撃を受け流しており、我らは決して本営には突入させておりません。我らは本営の周囲を実はぐるぐる走り回らされているだけなのです!」
「そんな馬鹿な! そんな器用なことができるものがいるものか・・・!」
日頃から抱いているバアルへの反発にそうは言ったものの、同時にバアルの才覚には十分敬意を払うだけのものがあるとも考えているデウカリオは、その言葉を全て退ける気にもならなかった。だからバアルのその言葉に応えるように、その時初めてこの戦場を
そしてデウカリオも気付いた。
カヒの兵が攻撃すると、王師の戦列は脆くも破断するが、その破断は中央ではなく、必ず左右どちらかで起こる。そしてその亀裂にカヒの兵が飛び込むと王師は後ろの戦列も持ちこたえられずに裂けるのだが、その裂け方が巧妙で、入ってきたカヒの兵を斜めに排出する弁のような形となってその破断面に新たな戦列を作るのである。そのおかげでカヒの兵は斜め前方にスライドするように進むことになる。斜めであっても、とりあえず前進していることには変わらないから、我が方は優勢であると錯覚してしまうだけに極めてたちが悪かった。
「なんと・・・! なんと
「カヒの兵が自然と何も考えずに敵の弱点を見抜き、何も考えずとも体が敵の弱点を突くことができる熟練した戦士であるが故、余計に引っかかってしまうのです」
「・・・して、これを打ち破る術はバルカ殿はお持ちか」
「方法はただ一つ。あえて敵が重厚に槍を重ねている戦列中央を強行突破することだけです」
「・・・それでは敵の最も堅固なところの突破を計ることになるぞ。我が方の被害も無視できない。それこそ敵の思う壺ではないか?」
「もちろんそれ相応の被害は覚悟しなければなりますまい。もしこれ以上の犠牲を惜しまれるなら、早く撤退なさるべきでしょう。ですが敵は応変の動きをして、我が方の攻撃をかわすように適した陣形を組んでおります。見掛けは堅固に見えるかもしれませんが、実態は見かけほど手強くないはずです。もちろん正面突破するにはそれなりの犠牲を払わねばならないでしょうが、我々の目的は敵の不意を突き、王の首を取ることです。奇襲には既に失敗したと考えるべきですが、まだ敵を正面から襲い掛かることで不意を突くという奇手が残されております」
そう言ってバアルはデウカリオに決断を
確かにデウカリオにとって仲間であるカヒの兵は大事であろうが、王の命を取ることよりもそれは大事にすべきものなのかと、バアルは言外にデウカリオに問いかけていた。
もしここで退けば、確かにこのまま強硬に攻撃を続けるよりも多くのカヒの兵を一旦は生きながらえさせることはできようが、王と戦い続ける限り、カヒの兵は死んでいくのである。王を殺す機会を逸失することで最終的により多くのカヒの兵の命が失われることだって十分考えられる。なにしろ今や王はアメイジアのほとんどを手にしているのだから。
冷血な意見であることは十分承知していたが、その得失を将として考えてほしい、とバアルは訴えたかったのである。
「む」
どちらとも取れる曖昧な返事を残してデウカリオは口篭る。もちろんデウカリオほどの男だ。バアルの意図を瞬時に理解していた。
だが部下を危険に晒す覚悟も無い将軍は尻尾を巻いて逃げ帰れと言わんばかりのバアルの言葉に反発を感ぜずにはいられなかった。それがデウカリオの一瞬の無言となったのだ。
しかしデウカリオは最終的に判断は誤らなかった。
王の首が取れる機会など、そうは巡って来ないのである。デウカリオと王、いやオーギューガと王とは所持している戦力には大きな開きがある。今回、この場を逃すと、戦力面でほぼ同じ条件で戦える好機など恐らく二度と巡ってはこない。
「わかった。どうやらそうするしかなさそうだな」
自慢の黒髭を撫で付けると、納得したのかデウカリオは全軍に響き渡る大声で命令を下した。
「者共、敵戦列を分断して突破することではなく、敵戦列を完膚なきまで破壊して前進することだけを考えよ! 目指すは王旗唯一つだ! 迂回や回り道は許さぬ! ただ真っ直ぐ前へと突き進め!!」
応、と応じる声が上がると兵たちは隊列を整えなおして、デウカリオの指示通りに真っ直ぐに突き進んだ。
今度は敵戦列を寸断しても、破断点を広げて向こうに行く行動はせずに、ただ敵戦列全体の壊滅だけを心がけるように横と連携しながらじりじりと前へ進んだ。
もちろん王師もその場に留まろうと踏ん張るが、どうしても防御一辺倒だと押されてしまう。かといってガニメデは攻勢に移る気にはなれなかった。攻撃するということは自ら作った堅陣を崩すということでもある。それこそ敵の思う壺であろう。
「戦い方を変えてきたか」
ガニメデは先ほどまでと違う敵の動きを見て口元を引き締める。
デウカリオは先ほどまでと違い、機動力を使って王師を翻弄させるといった方法ではなく、正面からのぶつかり合いという素朴で単調な戦闘方法に切り替えてきた。
だがそれこそがガニメデがもっとも恐れていたことである。
もちろん正面からの攻撃にも耐えられるだけの布陣であると自負はしているし、それに対応するように兵を動かせる自信はガニメデにもある。
だが戦は所詮水物である。いくら全体的に有利に戦を進めていても、ほんの一瞬の油断が元で王の側まで敵兵の接近を許し、討ち取られないことが無いとは言い切れない。
早速その恐れていた事態が発生した。
黒色備えの強兵の攻撃に押されて上手く後退することができずに、中央が裂け、そこから完全に敵の突破を許してしまった。
だがガニメデにはまだ余裕があった。王師第十軍五千で周囲を取り囲んだ陣の中には疲弊していない重装備の羽林の兵一千が待ち構えていた。
「今だ! カヒの山猿どもに羽林の兵の精強さを思い知らせてやるが良い!!」
アエネアスが素早く兵を指揮し、陣内に入り込んだ敵兵を文字通り叩き返す。
王旗を目の前にして、カヒの将士はむなしく一旦引き返して体勢を整えるしかなかった。
有斗は敵襲を受けたことを各地に散っている王師に知らせ、迎撃を指示するとやることが無くなった。後は前線の将兵に託すしかない。
「・・・大丈夫かなぁ・・・」
有斗の本営にここまで兵が近づくのは韮山での敗戦の時以来である。その時のことを思い出して、どうしても不安が募る。
戦の勝敗、自分の身の安全、そして有斗は督戦のために有斗の側から離れて前線に立っているアエネアスの身を心配した。
いたらいたでたまにはもう少し離れてくれないかなぁなどと常に考えるほど身近な存在なのだが、いないならいないでやはり不安になる。もう生活の一部になってしまっているのだ。
大きく攻め込まれるたびにアエネアスは陣頭に立って剣を振るい、兵と共に敵を押し返した。そのたびに有斗はハラハラしながらその小戦闘の成り行きを見届けねばならなかった。
その後も一進一退の攻防がしばし続いた。相変わらず攻めるカヒ、守る王師の形態は変わらない。
それと同様に戦況も
さらには無視できない事態もデウカリオたちに襲い掛かった。
「デウカリオ殿! あれをご覧ください!」
その一人の将士が指差す先には土煙がもうもうと舞い上がっていた。
「援軍か・・・」
デウカリオは顔を顰めて東方を見た。それが意味するところは明々白々だった。敵に援軍が到着したのだ。
強行軍に長時間の交戦、デウカリオの兵は疲れきっていた。このままでは士気も旺盛で疲れが無く、数にいたっては三倍近い敵の新手に叩き潰されるだけだ。
「デウカリオ殿、敵の新手だ。これ以上戦っても利あらず。ここが引き時かと」
「分かっている。しかし・・・」
王まであと一息というところまで迫りながら、このまま指を咥えて退却することにはデウカリオはまだ未練があるようだった。
「いいではありませぬか。王師に劣る兵力にもかかわらず敵をいいように翻弄して打ち破り、さらには王の本営まであと一息というところまで攻め込んで、王の心胆を寒からしめたのですから」
バアルがそう言うと、デウカリオも少し気を持ち直した。確かにそれだけでも十分すぎる功績だと言えよう。オーギューガが彼らに望んだことは王師への
それにまだ戦は終わりじゃない、戦が続く限り、いつか再びこのような機会が訪れないとも限らないのだから。
「まぁ・・・それもそうだな」
デウカリオは退き鉦を鳴らし、揚げ太鼓を叩かせた。カヒの兵は一方的な攻撃がもたらす熱狂から急速に冷め、我先に撤退準備に取り掛かる。
それを見て。それまで押さえつけられていた
だがカヒの兵は王師の追撃をなんなく振り切り、見事に撤収に成功する。
もっともそれはカヒの精強さを示すというよりは、ガニメデが追撃に兵力を裂くと、逆に手薄になった本陣を再び襲われるのではないかという危険性を考えて追撃に主力を回さなかったためでもある。
なぜなら東方に土煙を上げたのは戻ってきたリュケネたちの軍ではなくて、ガニメデ隊の一部の兵だったからである。彼らが馬の尻尾に木の枝を取り付けて走ることで土煙を上げ、さも大軍が近づいてきたかのように装ったのだ。
そういう小細工をしなければいけないほど、ガニメデにも最後のほうには余裕が無くなっていたのだ。
だがデウカリオやバアルらも戦場であげたその功を誇ってばかりはいられなかった。
王師は手痛い損害をこうむりながらも地道に、着実に一歩一歩前進し、そのたびに彼らの行動圏は狭まっていかざるを得なかったのだから。
だがガニメデがデウカリオたちが王の本陣へ強襲することを看破していたように、バアルも王師が取るべき行動をこの時、既に予測していた。
神知を持つ者は何もガニメデ一人だけではなかったのである。
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