第280話 凶刃(下)

 何が起きたのかを悟ると、将も兵も武器を手にして急ぎ立ち上がり、彼らの大事な御館様をこれ以上の凶行から守ろうと、そして剣を向けた刺客を始末しようと飛び掛る。

 見えぬ後方を含めた三方から一斉に襲いかかられては、どんな凄腕であろうがひとたまりも無い。

 左右にいた一門衆やガイネウスらも立ち上がって武器を手にする。逃げ場は無い、はずだった。

 女は傷にうめくカトレウスを足蹴にすると、カトレウスの向こう側へと走り出し、その先の森へと逃げようとした。

「追え! 決して森の中に逃がすな! 殺してでも止めよ!」

 一晩休んだことで敗兵といえども体力は回復している。男と女の脚力、普通ならば逃げ切れるはずは無い。だが女は低木が生え、草が密集する野をどういうふうにだか分からないが、高速で駆け抜けていく。

 そしておそるべき跳躍力で木上に飛び上がると、武器を向ける殺気だった男たちに勝ち誇った不敵な笑みを返した。

「あははははははは、長い間、この瞬間を待っていた! 警戒が緩むこの時を! カトレウスのお命はこの私がいただいた! あははははははは」

 女はもう一度冷たい声で高笑いをすると森の中へと消えて行き、カヒの兵はその姿を見失う。

 一方その頃、カトレウスの周りには男たちが集まり、悲痛な表情を浮かべて立ち尽くしていた。

 手際よく必死に傷口を止血する。幸い戦場暮らしの長い兵にとっては止血くらいお手の物だ。それに昨日まで戦場にいたのだ。止血用の絹布もあるし、先ほど民から出された酒もあった。足らないものは焼きごてくらいのものだった。

 だがその懸命な行為がやがて徒労に過ぎないことに気付き、彼らは言葉を失う。

 傷が深いせいではない。浅くは無いが出血だけならなんとかなる程度の傷だった。だが傷口にべっとりと、血と違う粘性のある液体が付着していたのだ。

 それが何かと問う馬鹿な者はこの場にいなかった。敵は手練てだれの暗殺者。刃に塗りこむのは即効性の毒しかありえない。だからこそ一度刺しただけで、確実に止めをつけずに逃げ出したのだ。

 手練の暗殺者ならば、自らの命と引き換えにする覚悟で敵に切りかかる。殺してからはじめて逃げることができるかどうか考えるものだ。

 それが証拠にカトレウスの顔色はみるみる青くなり、脈動が弱くなっていっている。

 普段ならば、カトレウスもこんなことにならなかったであろう。

 七郷には余所者を排除する厳しい検問がある。それを突破しても、館は兵に厳重に警備され、屋敷内にもサビニアス旗下の者が下男下女に混じって忍んでいて、怪しい行動をすればたちまち捕まってしまう。

 カトレウスほどの男だ。幾人もの暗殺者が命を狙ったが、そのことごとくは捕らえられ、悲惨な方法で処刑されている。

 それにそこを突破しても暗殺者の前には最後の難関が立ちはだかる。館内には外見がそっくりな弟がいるからである。カトレウスとグラウコスは家中でも見分けがつく人物は僅かしかいないほど似ているし、同じような尊敬を家人から受けている。家人の対応で本物かどうかを見極めようとしても無駄なのだ。

 だが戦場ではそうはいかない。両者から命令が出れば混乱するし、何よりグラウコスは頭は回る男であるが、何故か戦場で一瞬の切れを発揮するような判断が苦手だった。戦のほうはからっきしだったのである。自然、全軍に指示する男は一人。それがカトレウスということになる。

 あの女はもう何ヶ月も前からカトレウスに張り付いて機をうかがっていた。

 そしてついに戦場にて本当のカトレウスがどちらであるかを発見したのである。

「グラウコス・・・」

 カトレウスは視線を空中にさまよわせた。やがて一点を見つめると、弱弱しく弟の名前を呼んだ。

 そっと指差すカトレウスの手をグラウコスは両手で押し抱いた。

「兄上!」

「カヒは・・・これからはお前が率いていくのだ。いいな・・・」

 カトレウスから思いもよらぬ言葉が出てきてグラウコスは仰天する。兄の後を弟が継ぐことは珍しいことではないが、こんどの場合は異例すぎる。なぜなら───

「兄上にはお子も嫡孫もおられるではないですか! それを守り立てていくのが筋目かと!」

 長男は早世し、次男は裏切り、三男は行方不明だが、それでも才気に満ち溢れた四男がいる。無くなった長男の息子もいる。何もカヒという大家を筋道をげてまで弟が継ぐことは無い。

「あれはまだ若い・・・とてもこの難局を乗り切られぬ」

 その"あれ"が誰を示すのかはグラウコスには分からなかったが、とにかくガイネウスは彼らを考慮に入れた上で発言していることは分かった。

「それは私とても同様です。だが一門衆、譜代衆で支えていけばいいではありませんか! こんな横紙破りな相続、一門衆も納得いたしますまい!」

 カトレウスの名があってこそ一門衆も譜代衆も抑えられるのである。直系の血筋ならともかく、こんな無理筋では誰もグラウコスの命に従わないことすら考えられる。

 いくらカトレウスが指名したと言っても、納得せず独自の後継者擁立の動きを行うだろう。独立を図る者が出ることも覚悟しなければならない。

 それでは王に付け込まれる。カヒという家を保つためには一枚岩となって、今回の難局を乗り越えねばならないことを考えると避けるべきことだ。

「そなたではこの難局を乗り越えられぬ、というわけか?」

「残念ですが、」

「だがあれらでも同じこと。カヒをまとめきれぬ。カヒは分裂し、王の巨大な力の前に砕け散ってしまう。だが、それを可能にする一手があるのだ」

「それは・・・?」

「お前がカトレウスとなること。カトレウスが生きているうちは、一門衆や譜代衆も、海千山千の諸侯どもも、俺を恐れて勝手な動きはせぬ。カヒは一枚岩だ」

「!?」

「だがここで誰かが死ぬことは隠し切れない。ここにいる者の口からいずれ広がってしまう。例えここにいるもの全てを皆殺しにしても無駄であろう。秘事は漏れるものだ・・・」

 カトレウスはさらっととんでもないことを口にし、傍で腰を抜かしている村の長老をぎょっとさせた。

「ならば前もって先手を打っておく。今日、ここで死ぬのはカトレウスの弟のグラウコス。カトレウスは刺客の刃を逃れることができた、とな」

「しかし・・・! 外見は他人には見分けがつかぬほどそっくりであっても、中身が違う。私は兄上には遠く及ばぬ。代わりなど務まりますまい」

「確かに坂東の兵を上げて天下と衡を争うならばお前は俺に遠く及ばない。だが戦のことはダウニオス、ガイネウスの助けを借りればよい。デウカリオやサビニアスも戻ってくるようなら同じように手を借りよ。お前には家内に気を配り折衝する才がある。家内をまとめ上げ坂東を手放さなければ、王とても簡単に手出しできぬ。だがそれも全ては七郷に立て篭もり、王師を跳ね除けたらの話だ。少なくともその間はカトレウスという男がカヒには必要なのだ」

 カトレウスは周囲にいる者に目を向けて威圧する。

「ここにいる者は構えて他言するでないぞ。これからはグラウコスをカトレウスだと思って仕えよ。決して裏切らぬと誓え。さもないとこの場で殺す!」

 既に息も絶え絶えなカトレウスだったが、諸侯をも恐れさせるその眼光はまだ健在だった。周囲の者たちは一斉に頓首とんしゅし忠誠を示す。

「決して他言はいたしませぬ」

 周囲にいた者は一斉につばさやに打ち付けて金打きんちょうし、誓いを立てる。

「いいか、最後まで決して・・・降伏してはならぬ。カヒは古くミカヅチ様の血を引く家。その誇りにかけて屈してはならぬ。最後の一兵まで戦うのだ」

 何が兄をそこまで執念深くさせているか分からずに、グラウコスは戸惑いの色を目に浮かべた。

 カトレウスはそういった戸惑いが全員の顔に浮かんでいることを目聡く見つけたようだった。

「皆、分からぬような顔をしておるな。よかろう、その分けを聞かせてやろう。何故なら、この世に天与の人などという者がいてはならぬからだ。サキノーフ様はまだ良い。この未開の蛮地に統一国家をつくり、文字、暦、文化を授けていただいたのだ。我ら蛮人に歴史を授けて下された、まさに神人である。だが武帝、今の王と、二度も三度も同じことがあってはならぬ話なのだ。それではこのアメイジアに生まれた我らは何のために生まれたというのだ? 他の世界から来た者にこの世界の者は永遠に敵わぬというのか? この世界に生まれた我らは、他の世界の人間に遠く及ばないしもべのような存在に過ぎないと言うのか? いや、違う。そうではないはずだ。だからアメイジアの誇りのために我らは戦わねばならぬ。他の世界から来た者が救世主になると言う間違った因習を打ち破り、勝利せねばならないのだ」

 それは死を間近にした人間の妄執かもしれなかった。だけれどもそこに一片の理があることもまた確かだった。

 そうだ、ここにいる多くの者は天与の人に逆らうなど愚かなことだと思っていなかったわけではない。特に王に散々に打ち破られた後だから、カヒの猛将たちでも気弱になる。御館様ほどの人間であっても、天与の人の伝説に屈するしかないのだと思っていた。口にこそ出さなかったが、降伏を頭に浮かべていたものも少なくなかったのだ。

 確かにこうなっては、カトレウスと共に誓った天下を手に入れるということはもう叶わない夢かもしれない。

 だがカヒが王と戦うことにはまだ少なくとも別の意味が残っているのだ。アメイジアに生まれた者の誇りを示すためにも我らは王と戦わねばならない、彼らは一斉に心の中でそう思った。

 そう、それが勝利に繋がらなくても、栄誉を得ることが無いにしても、戦うと言うことだけにも意味があるとしたならば、それだけで戦う意義がある。

 そしてたとえ王が本当にこの世を救う天与の人であるとしても。

「我が遺命として、このこと厳にたがえるな。いいか、必ずだぞ・・・」

「わかりました。必ずや兄上の代理を務めて、この難局を乗り切ります! カヒの為に粉骨砕身いたす覚悟です!」

 グラウコスが再びカトレウスの手を押し抱くと、微弱な力でカトレウスも握り返す。

「必ず、必ずやカヒの旗を東京龍緑府に打ち立てるのだ・・・」

 それがカトレウスがこの世で発した最後の言葉となった。力が抜けたカトレウスの手はグラウコスの両手をすり抜けて、すとんと地面に力なく倒れた。

「兄上!」

「御館様!!」

 次の瞬間、周囲からは嗚咽、慟哭どうこく、号泣、涕泣、哀哭、欷歔ききょ、表現できるだけのありとあらゆる泣き声が上がった。


 七郷の虎、坂東の王、常勝将軍、彼を表した渾名あだなは数多くあれど、これほど相応しい渾名は他には無い。

 それは、”戦国の申し子”

 巨星墜つ。

 戦国の申し子カトレウスは、まさに戦国の世が終わりを告げようとするこの時期に合わせるかのように逝ってしまった。


 崩れ落ちるようにひざを地面につけて男たちはしばしむせび泣く。その中から最初に立ち上がった者はグラウコスだった。

「兄上の遺命を聞けぬものはいるか?」

 当惑したような視線があちこちからグラウコスに突き刺さる。

 彼らとてカトレウスの遺言に逆らう気は無い。だが次代のカヒの主は誰になるのかは家の浮沈に関わる重要問題だったから、今まで裏ではさまざまな働きかけを行ってきていた。ある者は筋道を立てて嫡孫に、ある者は三男に、またある者は四男に近づいて時には贈り物を贈り、また違う時にはおべっかを使って、少しでも昵懇じっこんになろうとしてきたのだ。

 だがその中にグラウコスという選択肢だけは無かった。彼らにとってはグラウコスはカトレウスの影武者、兄に従順なよくできた弟でしかなかった。

 今まで裏工作に費やしてきた金銀や時間のことを考えると、カトレウスの遺言だから、はいそうですかとは直ぐには言いかねるものがあった。

 理性は降伏以外の方法でカヒの生き残る道はこの遺言に賛成するしかないとは思っても、感情が邪魔をして、なかなか賛成の言を言い出せなかった。

 だがグラウコスの声に反応して、すくっと立ち上がった者がいた。ダウニオスだ。

 勢いよく立ち上がったその姿、厳しく眉を吊り上げたその表情からは、反対する気があるように周囲からは見えた。なによりダウニオスはカトレウスの四男と親しい。

 やっかいなことになるぞ、と皆一斉に思った。

 四天王はカヒの柱でもある。グラウコスもその意向を無視できない。

 だがダウニオスがグラウコスがカヒの当主になることに反対するという心配は杞憂きゆうに終わった。

「カトレウス様の言葉は絶対である! もしこの中でそれを踏みにじる真似をするなら、よかろう相手になろうではないか! この私が斬る!! 斬り捨てる!!!」

 四天王の一人であるダウニオスにはカトレウス程ではなくても、その場にいる者全てを震え上がらせるくらいの威は持ち合わせていた。

「不服はございませぬ」

「必ずやカトレウス様のお言葉を厳守いたします」

 周囲から次々と了承の言葉が聞こえてきた。

「御館様、さっそく我らに下知を」

 ダウニオスの言葉にグラウコスが頷く。

「いいな。これからは私のことを兄上だと思い、そう扱ってくれ」

「心得ております、御館様」

 ダウニオスは深々とグラウコスに向かってお辞儀をした。

「よし、ならば出立の準備をしろ。一刻も早く七郷へと戻らなければならぬ。後、急ぎ馬車を仕立てよ」

「馬車? 行軍の邪魔となりませぬか?」

 後ろから追撃がかかっているとも限らない。不審顔のダウニオスにグラウコスは悲しげな目を向けた。

「・・・カヒの盟主としての葬式はできぬが、せめて遺体は七郷にて埋めてあげたいではないか」

 兄上は七郷の四季がお好きだったからな・・・、とグラウコスは在りし日のカトレウスの姿を思い浮かべた。

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