第279話 凶刃(上)

 逃げに逃げたカトレウスとその親族衆は馬に乗っていたこともあり、友軍を遥かに引き離して先行する事ができた。

 追撃の兵どころか後続の兵すら見えない中、夜の闇に道を失うことを恐れ、山中で一泊する。

 だけど油断は禁物であることは彼らも知っている。一番安心できる七郷に入るまでは多少の強行軍もしかたがないであろうと考えていた。しかしこう暗くては馬を駆けさせるわけにも行かず、進むにしても思うように進めないだろう。

 そもそもほとんどの馬が限界で、泡を吹いて立ち上がることができない馬すらいる。

 ここは無理をせずに馬も人も体を休め、朝日と共に出立することにした。

 だが一晩止まれば、寝ずに歩けば結構な距離を歩くとになる。追いついてきた兵も多少はいて、生気の無い目をちらとこちらに送るが、気付かずに先に行こうとする。

 やがてそれがカトレウスたちだと気付いて慌てて駆けつけ、護衛するかのように外側に陣取りはじめた。

 カトレウスが目覚めたときは目をつむった時と周囲の光景は一変していた。

 周囲はカトレウスら親族衆を本営とした軍営地のようになっており、少なくとも三百人くらいはいそうだった。これでは今までのように身軽な移動とは行かないと、少し眉をしかめた。

 だが悪い気もしなかった。

 今回の敗戦はイスティエアの時とは大きく違う。確かにカトレウスに不運が重なったと言うことも敗因の一つであろうが、親族衆、譜代衆の意見を抑えきれずに、いやカトレウスの三男への愛着を断ち切れずに上州へ出兵してしまったこと、それを王に気づかれて迂闊うかつにも帰路を塞がれてしまったこと、またせっかく敵戦列を突破したのに、よけいな山っ気を出してすぐに撤退を命じず、結果として大きな犠牲を払うはめになってこと、この敗因のどれもこれもがカトレウスの判断ミスによるものである。

 つまりカトレウスの判断力を王は手玉に取るほどの神知を持ち、カトレウスが所持する運は王に遠く及ばず、カトレウスの器量は王に届かない、カトレウスは王と比べたら遥かに格下だと考えられてもしかたがない。

 カトレウスは一敗地にまみれた、再起は無いと考えた者が出ても仕方が無い大惨敗だった。

 だがここにいる者は違う。それでもまだ、こうしてカトレウスに忠義を尽くしているということは、カトレウスの再起を信じているということだ。

 カトレウスは柄にも無く感動した。

 戦国の世は非情だ。利益の前にはひれ伏すことを躊躇ためらわない人間と言う生き物は、平和な時代にも増して手加減と言うものを知らずに行動する。

 ほんの僅かな利益に目がくらみ、如何にして他人をだまし傷つけ、足を引っ張り蹴落として勝利を得るかを考える。

 それが人間と言う生物の本質だと信じてきた。であるから当然の如く、カトレウスの今回の失策に失望し、多くの者が離れていくことを半ば覚悟していた。

 だが、ここにこうして集っている連中を見るとそうとは見えない。

 カトレウスの失策を目にし、多くの戦友や親子兄弟をカトレウスのせいで失ったのに、カトレウスを責めるどころかまだ信じている。

 この薄汚れた世界にもこんな純粋な人間がいる、しかもこんなに大勢の数がいることがカトレウスには不可思議で、さらにそれが自分の部下たちであることに驚くばかりだった。

 どうやったら彼らが持つそのまばゆいばかりの世界観が手に入るのか、自身にも再びそんな感情が取り戻せないだろうか、とカトレウスはがらにも無く考える始末だった。

 そして自分にそんな綺麗ごとを求めるような、純情な感情が残っていることにも、また再び驚いた。

 やらねばならぬ。彼らのためにもカトレウスという男はここで屈してはならぬ、と強く思った。

 カトレウスは束の間失っていた自信を取り戻した。


 カトレウスが起きてきたのを見ると、諸隊の長が急いで駆けつけて来て足元に平伏する。その中には何人か嬉しい顔を見つけることとなった。

「生きておったか!」

 四天王の一人ダウニオス、鬼眼の軍師ガイネウスの姿を見てカトレウスは思わず顔をほころばせると駆け寄り立ち上がらせ、生きていることを祝福するかのように肩を二度三度と強く叩いた。

 ここにいる兵は三百人にも足らないが、この二人がいてくれるのならばカトレウスにとっては百人力である。

「よくあの混戦で生きておったな!」

「私はしぶといことだけが取り柄でございますれば」

 ガイネウスの減らず口にカトレウスも思わず笑い返す。

「マイナロス殿が命を張って王師の足を掴んでくださいましたからな。とにかく御館様に追いつこうと一晩中駆けて参りました」

「・・・マイナロスは実によくやってくれた。残された家族にはきっと厚くむくいる。我が家族と同じに扱うであろう」

 それくらいしかカトレウスにはできることは無い。

 いや、ある。そう、王を倒すことだ。必ずや王を倒しアメイジアを手に入れる。そして天下にマイナロスという忠臣がいたことを広く顕彰し知らしめるのだ。その時こそマイナロスが真に報われることになるであろう。

 マイナロスに対して思いを馳せ、顔を曇らせるカトレウスを見て、ダウニオスがそれを別の原因から来るものだと推し量って口に出してみる。

「それよりも若を見ておりません。ここにもおられぬ様子、兵を戻して探索させるべきでは?」

「・・・言うな。他の者も大勢家族をなくしておる。あやつ一人を探すために兵にこれ以上の危険を冒させるわけにはいくまい。特別扱いするわけにはいかん」

 それにカトレウスの三男は敵の左翼から突破しようとリュケネ隊と槍を交えていた。つまりエピダウロスの北端、マイナロスが作った脱出口から最奥にあたる場所にいたのだ。

 その分、全体として最後尾から脱出することになったであろう。おそらく助かっていないだろう。逃れ出ることさえできたかどうか。

「それよりもサビニアスを見なかったか?」

 カトレウスにはその方が気になった。息子は一人が裏切り、一人が戦死してもまだ代わりがいるが、歴戦の将軍の代わりはいない。ましてサビニアスのような特殊な働きに通じた人物は千人、いや万人に一人いるかどうかなのである。

「道中、サビニアス殿の姿も探したのですが・・・」

 ダウニオスはゆっくりとかぶりを振った。

「そうか・・・」

 生きていればいいが、この混戦では望み薄かもしれぬ、とカトレウスは嘆息した。なにせ全軍総崩れだ。サビニアスだけでなく長年かけて築き上げた有能な将軍や百人隊長が幾人犠牲になったことであろうか。

 一朝一夕にそれらを手に入れることができないことを思えば、カヒにとってその損失は計り知れない。カトレウスの生きている間にそれを取り戻すことができるかどうかもわからない。

 これからこの手の話をしばらくはうんざりするほど聞かねばならないだろうな、とカトレウスは気が重くなった。


 カトレウスが兵に出立の準備をさせていると、付近の村から人々が群がり出てカトレウスたちの方に向かってくる。

 それを見たカトレウスたちは槍や刀を手元に引き寄せ、警戒を強める。

 戦国の世において敗北した時一番怖いのは、追撃をかける敵兵ではなく落ち武者狩りを行う地元の民である。彼らは地元の地理に詳しく、数も多く、敵か味方か分からぬように近づき、囲んだところで一斉に襲い掛かる。そうやって幾人もの高名な将軍が名も知れぬ農民に首を切られてきた。

 だがその行列は武具らしきものを帯びていないようだった。彼らは持っているのは壷やかごだった。

「止まれ! 何用だ!?」

 刀に手をかけた歩哨の誰何すいかの声に、村人たちは慌てて平伏した。

 やがて深々と下げた頭の中から一人の年老いた長が顔を上げて言上する。

「カトレウス様がおられると聞き、何か我々がお役に立てないかとまかりこしました。こんな田舎ではろくなものもありませぬが、それでも空腹を満たし体を温めることくらいはできると思い、朝餉を用意してお持ちしました。よろしければ皆様方で召し上がってください」

 カトレウスは諸侯にとっては恐怖の対象となるような行動を多々取っていたが、民に対しては善政を敷き、治水に努め、公平な裁判を心がけた。それは民心を得るために行った政策であり、カトレウスの下にはそれらが素晴らしい成果を上げているとの報告は来ていたが、カトレウスはそれでも心配だった。そもそも上奏など実態を隠してうわべだけ整えられることが多いし、不正をする下級官吏、私腹を肥やす腐敗官吏はどんなに気を配っても後を絶たないものだからだ。

 だがそれらの恩徳はカトレウスの考え以上に広く民の間に行きわたっていたらしい。

 敗戦の知らせは届いているだろう、いや届いていなくても同じことだ。このカトレウスらの姿を見れば何が起きたかは一目瞭然りょうぜんだ。その様子を見ても、こうやってまだカトレウスを自分たちの領主と認め、その役に立とうとしてくれている。

 まさに心温まる瞬間だった。

 せっかくの好意、断って行くのは角が立つだろうと思い、カトレウスは珍しくその申し出を受け入れる。諸侯の出す食い物でさえ毒殺を恐れ、めったに口にしないと言うのにである。

 とはいえそこはカトレウス、完全に打算が無いかと言えばそうではない。ここでの話は噂話としてすぐさま近隣を駆け巡るであろう。

 ならばせっかく用意された料理を断ったと知れれば、それをカトレウスの余裕の無さだと受け取られかねない。

 そう受け取られたら、周辺諸侯もこれ以上カトレウスに味方することを躊躇ためらうかもしれない。

 ここは少し時間を浪費してでも食事を食べたほうがよさそうだ、とカトレウスは計算したのだ。

「このように戦に大敗してしまった私なのに、長老方はじめ村民総出でもてなしてくださる。このカトレウス感謝の念が込み上げてきて、お礼の言葉ひとつ申すこともできぬ」

 カトレウスは日頃の尊大な態度とは打って変わって、腰をかがめ目線を合わせて彼らの手を取り感謝を表した。もちろん全て演技だが。

「なに、我々が今ここにこうして暮らしていけるのは全てカトレウス様のおかげです。それに勝敗は兵家の常と申します。気落ちなさることはありませんぞ」

 それはことわざにもなるくらい当たり前のこと。そんなことはカトレウスは言われるまでも無く承知している。それに一端の農民に兵家のなんたるかが分かるはずも無い。

 だが不思議と不快感は無かった。むしろ使い慣れないそんな言葉を口にしてでも励まそうとしてくれている民の心根が嬉しかった。

「ははは、これは確かにそうだ。言われてみて驚いた。このカトレウス、そのようなことすら忘れておったわ!」

 カトレウスは極めて明るく豪快に笑い飛ばしてみせた。

 こんな上機嫌なカトレウスを見るのは珍しい、とダウニオスやガイネウスは思わず顔を見合わせた。

「少しならば酒肴しゅこうもあります。よろしければそちらも用意いたしますが・・・」

 深酒するわけには行かないが、酒は兵たちの殺気ばった荒んだ心を和らげる効果がある。少しくらいならば却ってよい効果も得られようかとカトレウスはその長老の言葉にうなづいて見せた。

「すまぬな。何から何まで」

 嬉しげに笑うカトレウスを見て、自分たちのもてなしが受け入れられたとほっと安堵する。やはりよいことをしたと嬉しく思い、頭を下げる。

「体を温めるには何よりですからな」

「では頂くとするか」

 世間に蔓延まんえんしている恐ろしげな噂とは違い柔和な対応を見せるカトレウスに、長老は喜びに満ち溢れた顔を伏せ、再び深く頓首とんしゅする。

 再び顔を上げると後ろに控えていた村人に目配せをする。村人らはさっそく籠から食器を取り出し、それに盛り付けて捧げもって、本当ならば前に出るのもおこがましいカトレウスや将軍たちに渡していく。

 まずはカトレウスや親族衆、将軍たち、カトレウスの周囲にいる者に次々と饗膳が据えられていく。

 と最後の一人に膳を渡したのにまだ一人、膳を持って将軍たちの前あたりでウロウロしている娘がいた。どうやら差配をしている者が持って行く膳の計算を間違えたようだ。

「ああ、もうこちらは足りておる。向こうの方々にお渡ししなさい」

 長老はそう言うと酒を告いで回るために酒壷を持って立ち上がった。

 もしその娘の顔をその時もっとよく観察していれば、長老は村で見たことが無い顔だなと気付いたであろうが、本来ならば自分など足元にもひざまずけない立場のカヒ家のお偉方の前にいられることに興奮しており、そんな余裕は無かった。

 娘は長老の言葉にうなづき、一旦きびすを返したかに見えたが、何故か半回転でなく、そのままその場で一回転した。

 次の瞬間、娘は膳を捨て去ると足を深く踏み込み、その回転力をも推進力に変えて跳躍した。

 カトレウスまでの距離、三間(約五メートル)を僅か三歩、風に乗るような速度で飛んでいく。

 あまりにも突然の出来事に、その場にいた誰もが反応できなかった。娘はたもとを翻し、カトレウスの顔にに叩き付けた。カトレウスはとっさに右手を出して顔をかばった。

「取った!!!!!」

 だがそれは牽制けんせいに過ぎなかった。娘は膳の下に先ほどまで隠していた短剣でカトレウスの胸部を深々と貫いていた。

「取った!! この私が!! あのカトレウスを!!!」

 娘はどことなく狂気に彩られた目をしており、喜びとも驚きともつかぬ感情の交じり合った色が声には込められていた。短剣を引き抜くとゆっくりとカトレウスは崩れ落ちる。

 次の瞬間、怒号と悲鳴とが仲良く合唱を始めた。

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