第278話 血戦エピダウロス(Ⅵ)

 マイナロスは既に生きて七郷に戻ることは望んでいなかった。

 それを考えるには目の前の敵はあまりにも巨大すぎたのだ。命を捨てねば僅かな時間すら稼ぎ出せないという厳然とした事実を重く受け止め、覚悟を決める。

 親族衆と共に一足先に逃れるカトレウスの姿が安全な距離まで逃れたのを見て、本陣に上がっていたカトレウスの旌旗せいきを倒し、退陣のきじんを命じる。

 戦場に退きがねが響くと、次いで鼓が長、長、長、長と低く長く大きく打ち鳴らされる。

 王師は顔を挙げ、カヒの兵は振り返る。そこに先ほどまで屹立きつりつして戦場ににらみを利かせていたカトレウスの旌旗せいきが無かったことで、その意味が全ての兵と将に知れ渡った。

 王師は勝鬨のような喚声を、カヒの兵は大きく動揺したうめき声をあげる。

 大将が戦を諦めた。敗北したことによる失望をカヒの兵たちは感じると同時に疲労が押し寄せ、戦の中で忘れていた恐怖が彼らに襲い掛かる。

 敵と接していない兵から我先にと陣を離れて逃走に移った。カヒはもはや陣形を保つことも戦列を保つことも難しい。

 士気が崩壊した兵はもはや自分が助かること以外のことを考えることができないのだ。

 負けたと分かったら、逃げるのに邪魔になるからと剣や槍や兜を捨て、少しでも身軽になって逃げようとする者もいる。

 勝利にたかぶり疲労も忘れた王師の兵は、その逃げるカヒの兵に思いのままに槍を突き立てる。

 常日頃の剽悍ひょうかんさは影を潜め、とにかく逃れることしか頭に無いカヒの兵は懸命に生き足掻あがくだけだった。

 王師の兵が剣を振るうたびに、面白いように次々と敵はむくろに変わっていく。

 辛うじて一部の兵だけが、算を乱して退却するだけでは被害が増えるばかりだと気付いて将軍の周りに集まって、一塊ひとかたまりになって落ち延びようとする。

 だがそれもつかの間の抵抗に過ぎない。平原を地響きを上げて迫ってくる王師の前には微弱な抵抗をして殺戮さつりくされるしかなかった。

 とはいえ無意味だったわけではない。僅かな抵抗であっても足を止め、その分逃れていける味方が増えるのだから。もっとも、それを死んでいった兵に対して言ったところで慰めになるとは思えないが。

 その中でマイナロスだけは戦場でまだ旗指物を翻し、槍を立ち並べ、配下の兵と共に前を向いて踏み止まっていた。

 手元の兵は半分以下に減っていた。

 だがそれはこれまでの戦いで消耗したのではない。

 確かにマイナロスの隊はこの戦では常に矢面に立ち、敵と激戦を繰り広げられた前線にいた。だがどんな激戦であっても損耗率が五割に近いなど有り得ない。その前に兵の士気が崩壊して戦どころではなくなる。つまり大半の兵は、カトレウスが逃げたのを見て命が惜しくなり、他の隊の兵と同じく逃亡してしまったのだ。

 だがそれでいい、とマイナロスは思った。

 これから壮絶な撤退戦をしようというのに、腰の据わらない兵などいては足手まといなのだ。むしろ敵に付け込まれる隙を与えかねない。

 それにまだ千もの兵が彼と共にこれから地獄と化そうという戦場に踏み止まってくれている。それだけで充分だった。

 カヒが河東の雄となるまでにはいくつもの諸侯を破った。

 中にはカトレウスもたじろぐ剛の者、古くサキノーフ様より続く名門の主もいた。

 だがそんな彼らですら、カヒに戦に破れ、滅亡が間近に迫った時には周辺には女子供入れても百も残ればいいほうだった。普段の交誼も忠誠も信頼も命の危機を目の前にしては全てが消えうせてしまうものだ。そのことをその数々の戦に参戦していたマイナロスは当然覚えている。

 しかし彼には今だ千もの戦友が共に戦場に残ってくれている。カトレウスを安全に逃がすために、カヒを滅ぼさぬために、そしてこの戦場で共に死ぬために。

 死から逃れることができぬ絶望的な戦況を前にしても、なお兵から見捨てられぬ幸せな将軍はそうそういるものでない。

 そこが崩れ去った他の二十四翼の将とは違い、彼をカヒの四天王の一人たらしめるものなのだ。

 それだけで武人としての一分いちぶんは立った、俺が生きてきたことに意味はあったのだ。その誇らしさが彼の顔に笑みを浮かばせる。

 それに・・・、とマイナロスは考え直す。

 それに千もいれば少しは面白い戦い方が出来そうではないか。


 マイナロスは陣形を保ったまま戦場をゆるゆると退く。

 その神色自若しんしょくじじゃくした姿に王師の兵も罠の可能性を思い立ち、警戒し歩みを止める。

 ここまで勢いで駆けて来ただけに、隊どころか指揮官も兵もばらばらで、彼らにはどうやって対処するかを考え、それを誰が命じるか誰にも分からなかった。

 逆に後ろから襲い掛かられて命からがら逃れてきたカヒの兵には、青備はこの混戦の中では砂漠のオアシスのようにでも見えるのだろうか、次々と友軍は彼らを目掛けて崩れながらも逃れてくる。

 マイナロスはその度に振り返っては、追撃する王師を散々に打ち負かし味方を救ってやる。

 幸い敵はどちらかと言えばバラバラになって逃げる兵を狩るという楽な展開を求めていた。マイナロスが向かってくると大した反撃もせずに一旦退く。

 戦闘での勝利は決定付けられたのだ。これからは王師にとって手柄をただ立てるだけの時間だ。

 ならばいかに効率よく手柄を立てるかと言うのが今の彼らの関心ごとだった。

 いまや味方が彼らの競争相手だ。少しでも面倒そうな敵は避け、楽に倒せそうな敵を探そうとする。死兵と化した兵と戦おうとはしなかった。それを彼らの怠慢と責めるのは酷であろう。彼らは勇猛な兵士でもあるが、欲望を持った一個の人間なのだからそれが当然でもある。

 おかげでマイナロスはここまでたいして兵を損じることなく戦場に留まることが出来た。

 だが周囲から味方の姿が少なくなり始めると、王師も獲物を物色してばかりはいられない。敵の攻撃の矛先が徐々に集まり始める。

 それを五度に渡って叩き返しつつ、マイナロスはゆるゆると退いていく。

 だが追い払っても追い払っても王師の兵は群がり集い、青備の袴の裾を掴んで放さない。

 味方の影が薄くなるにつれ、敵の影は色濃くなり、カヒと戦いくたびれ果てた諸侯、傭兵、王師の兵に代わって、王の本隊の兵の数が増える。

 王師も当初の熱狂が嘘のように収まると、自然と隊列を組み、整然と襲い掛かってくる。これまでの無秩序な攻撃を行う相手に有利に戦闘を進めていた青備も、相手が同じ土俵に立つと絶望的な数のが重く圧し掛かり、倒れる兵士が増えていく。

 そしてカトレウスの旗が見られなくなり、戦場から確実に退いたことを確認すると、マイナロスは手勢を率いて近くの小高い丘の上に陣取り、最期の戦に取り掛かる。

 王師は一旦丘陵の下で隊列を整えると一斉に槍を並べて駆け上がってきた。

 西面だけでなく、南面からも北面からもほとんど同時に一斉に駆け上がる。それはもはや四百に打ち負かされたマイナロスたちを葬るには過ぎた数だった。

 退路となりうる東面へも王師は敗兵を追跡しながら同時に手回しよく兵を回した。

 手回しの良いことよ、とマイナロスは感心する。そこが空いていたとしてもマイナロスは逃げなどしないのだが。

 だがそれは二つのことをマイナロスに再確認させた。

 ひとつは統一した意思の下、敵兵が再び動き出したと言うこと、そしてもう一つはその意思が今はカトレウスの身のことを離れて、このマイナロスに向いているということである。

 敵は間違いを犯した。それも取り返しのつかない間違いを。マイナロスはほくそ笑む。

 確かにこのまま放っておけば追撃するのに邪魔になる部隊ではあるが、マイナロスの四百程度の部隊など放っておき、しゃにむにカトレウスを追うべきなのだ。

 王は十万近い軍を持っているのだ。被害や犠牲を無視して、ただひたすらに軍を前へ前へと進めるなら、マイナロスをもってしても全てをこの地に釘付けにすることなどできはしなかったのに。

 だが仲間が殺されたという瑣末な感情のとりことなったのか、立ち塞がる障害を残しておくと犠牲が増えると言う秩序だった理論によるものかは知らないが、まずはマイナロスを葬ろうと決めたらしい。その僅かな時間の間に御館様が少しでも遠くに逃げるというのにである。

「よかろう、それほどまでにこの老兵の皺首しわくび一つ欲しければくれてやる。だが仮にもカヒの四天王の首一つだ、千兵の血をもってあがなってもらうぞ」

 マイナロスは続けて高らかに名乗りを上げる。

「我はカヒ四天王の一人、退き霜台のマイナロス。我と思わんものは討ち取ってみるがいい!」

 王師の間から大きなどよめきが広がる。カヒの四天王の一人の名前を知らぬものなどいない。

 よき敵かなと腕に覚えのあるものは足を速めて丘を駆け上がる。

 だがマイナロスはそれを迎え撃って戦う愚を冒さなかった。確かに高所に布陣したほうが圧倒的に有利だ。だがここまで戦力差があって四方を囲まれ攻撃されたら、その優位さなど無いに等しい。

 丘に布陣したのは最後の突撃をするためである。寡兵を補うため高所から低所に位置する敵に下り降りる勢いをもってあたる。一方だけの敵だけを相手にすることにもなる。

「行け! 目指すは一陣、王旗の下へ!」

 応、と声が鳴り響き、マイナロス隊は西面を下り降りた。

 王旗は遥か遠く一里彼方。届くはずは無い。だがその意気が重要なのである。

 死に向かい行く兵士たちに自分のやることは無意味だと思わせないためにも、大きな事を言うのは将軍の役目である。

 それに友軍のいる東へと逃れようとすると思っていたマイナロスが、逆に王旗目指して駆け出したのなら王師に動揺を与えることができるだろう。

 思ったように予期せぬ行動に王師の全軍に動揺が走る。

 それにマイナロスの首を求めて抜け駆けした者が出たため、せっかく丘下で整列させた隊伍が乱れてしまっていた。青備はそこに突っ込むと、旋風のように荒れ狂った。

 王師の精鋭がマイナロスに押され、絶叫と共に山から雪崩のように崩れ落ちた。

 丘を駆け下っても勢いは止まらなかった。前に現れる敵兵を切り捨て、横から襲い掛かる兵と組討する。数を減じながらも青備は前へ前へと突き進む。

 いたるところで干戈が交わる金属音、つんざくような断末魔の声が響き渡り、耳はその機能を充分に果たさないほどだった。壮絶な近接戦闘が繰り広げられた。

 だが所詮一時の勢い、いつまでも続くはずも無い。数の少ない青備は次第に劣勢に追いやられる。

 僅か百間(百八十メートル)を進む代わりにマイナロスは兵三百を失った。

 残る兵も風前のともしびである。

 陣が薄くなったことでマイナロスも戦闘に加わることとなる。次々と敵兵の剣が突き刺さった。

 体に三本の剣が突き刺さり、腹部に槍を受けて突き伏せられてもなお、マイナロスは槍の柄を切り捨て最後の力で立ち上がろうとした。

 だがそこまでだった。もはやマイナロスを援護する兵もいなくなっていたのだ。

 次々と王師の兵が上に乗りかかってマイナロスに地面を舐めさせる。勝ち誇った王師の兵は剣を振り下ろし、首をねた。

 エピダウロスにおけるカヒの組織的な抵抗はここについえた。


 東山道は敗兵で渋滞していた。

 先鋒の兵も後詰の兵も、二十四翼の兵も諸侯の兵も、戦列も隊伍も乱し一団の塊となり逃れるだけだった。

 だが東方には先にカトレウスが諸侯の兵と傭兵隊をそこに置いて盾とした様に、細い一本の街道、東山道が峠道となって山を貫き存在するだけ。五万もの兵が押しかけると次第に詰まっていき、やがて身動きも取れぬほどの混雑状態となった。

 自らの命大事とばかりに殺気立った兵は、前を塞ぐ仲間の兵すら邪魔と看做みなして押すなど粗暴な本性を剥き出しにする。あちこちでつかみ合いや罵りあいといった揉め事が起こり収まらない。それがまた一層の道の混雑を引き起こす。

 揉め事を嫌った兵の一部は山中に逃れて迂回しようとするほどだ。


 マイナロスを葬った有斗は戦場での勝利に満足することなく、さらに東へと兵を向けた。

 エピダウロスの境にある峠に兵を籠めて追撃を防ぐという時間を敵兵に与えることなく追撃し、七郷の前でカトレウスを捕捉したい。それが有斗の考えだった。

「間に合いましたな」

 エテオクロスは人馬で大混雑を見せる峠道を見上げて安堵する。

 この混乱ならば例え敵は兵を置くことを思いついても実行に移すことはできないであろう。

 とはいえこの混乱ではカトレウスの首を道中で取ることは難しいかもしれないが。

「そうだね。だけどここからが勝負だ。このまま昼夜分かたず追撃し、できれば七郷の守りを固められる前に敗兵と共に乱入したい」

 有斗もこの様子では奇跡でも起こらない限りカトレウスを捕捉することは難しいであろうと考えていた。

 だが七郷はカヒの最後の砦。カトレウスはそこより奥に逃れる場所は無い。ならばカトレウスをそこで捕まえればよいだけだ。

 しかし七郷は巨大な盆地、切り立った山、崩れ落ちそうな崖、深い渓谷。辛うじて覗かせている入り口は城壁のような関所が設けられ、一度閉じられれば鉄壁の要塞と化す。どんな軍事的天才であっても一時で落とすのは難しい。そう有斗はラヴィーニアから聞いていた。和睦でなく戦でケリをつけたいのなら、その外で敵を破り、逃げる敵を追って一緒に七郷へ付け入り、入り口を確保するしかない。

 入ってさえしまえば天然の要害に守られた七郷内には要塞らしい要塞はないとの話だ。もはや王師を妨げるものなどないであろう。

 有斗はこの勝利を生かしてカトレウスを始末する決意を固めていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る