第269話 取るべき選択肢
四月二十六日、向笠城の陥落の知らせを受け有斗は、攻略を終えた隊は四月末日を期して上州南端のエピダウロスの野に集合するように全軍に通達を出した。
すでに前日に、有斗は四月十九日に芳野塩田平にてカヒとオーギューガの間に戦闘があったとの報告を聞いている。つまり芳野の敵は芳野に侵入したオーギューガの軍の排除を、南部諸侯軍を追って河東に侵入し王師の後背を脅かすことより優先したと判断できる。
マシニッサも南部諸侯も今回の敗戦で懲りたはずだ。再び芳野に足を踏み入れる心配は無い。もはや河東のことは心配することは無いだろう。
季節柄の
王師の前に立ちはだかろうとするそれは、まるでカトレウスの強固な意志であるかのようだった。風に煽られ河東全域がざわめき始めていた。
五月二日、プロイティデスはアクトール、エレクトライと共にエピダウロスに到着した。
正確には戻ってきた、だ。プロイティデスたちはこの後上州へと侵攻する予定である王師のために、さらに東にいま一歩進んでレプトカリア伯の城を攻めて破壊してきたのだ。
レプトカリア伯の城はエピダウロスの野の最東端の制高点にある城で、もしそこにカトレウスが七郷より率いてくる兵を篭めて敵の拠点とすれば、王師は無防備な側背を敵に晒す危険を冒さないと上州へ進軍することはできなくなるといった理由から放ってはおけなかったのだ。
二週間前と違い平原に一面の兵舎が立ち並ぶそのさまは、まるで奇術を使って巨大な砦が突然平野に現れたようにさえ見えた。
王に到着を告げる使者を送り、まずは兵に宿営地を建設させる指示をしていると、使者が戻ってきて有斗から急ぎ来るようにとの命令を受けたとの報告がなされた。
プロイティデスは後を兵たちに任せて急ぎ本営へと向かう。
その道筋に予期せぬ顔を見てプロイティデスは驚きと共に声をかける。
「リュケネ卿にザラルセン卿、南方の巡撫はもう終わられたか」
内応を応諾している諸侯もいるとはいえ、南方には五つの諸侯がいた。巡撫と言えば聞こえは良いが、ようは味方につく意思表示をしない諸侯を踏み潰すのが仕事である。
上州に入るということは一旦北上することになるため、その分岐点近辺の地から不安要素を取り除いておかなければ、安心して上州に向かえない。
東方をプロイティデスらが平定し、南方をリュケネらが鎮圧する。それが上州攻めの前に王師が下した結論だった。
正直、この短い期間での全ての諸侯の巡撫は不可能で、この二人は上州に連れて行かず、エピダウロスの確保のために押さえの兵として置いて行くことになるだろうとも思っていた。だがここにいるということはその難しい仕事を既に終えたということだろう。
自分を呼んだ声の主を確認すると、リュケネは一礼し、ザラルセンは口の端を持ち上げてニヤリと笑う。
「とうにな」
「お前らが最後だぞ。陛下が待つと言わなければ昨日中に兵を動かすところだったのだ」
「それは失礼をいたした」
生真面目なプロイティデスらしい話しぶりにザラルセンは
「だがしばしのお預けを喰らった上州攻めも、おまえらがここにこうして来たからには今日から本格始動だ。兵に陣営の設営を命じたようだが・・・無駄骨になるかもしれんぞ」
「そうか」
どうやら単純な性格のザラルセンの中では上州に攻め込むことは確定しているようではあるが、そもそも本当に上州に攻めこむかどうかはわからない。
もともと上州を攻めるということも、エピダウロスの周囲であるとはいえ大きく離れた諸侯まで鎮撫したのも、全てが釣り餌だ。
全てはカトレウスに、王がたんなる思いつき、そして僅かな可能性を信じて長征の時のように敵の本拠地を長駆して針の一突きで貫いて倒せないか試したのではなく、時間がかかろうとも本気でカヒと最終決着を計ろうとしていると思わせるための擬態だ。
カヒがこのような諸侯に恨みを残しかねない形の持久戦術に終始する形で戦を押し進めているのは、前回イスティエアで敗れた以上、続けてもう一度敗れればカトレウスが一代で築き上げたこの巨大な帝国が崩壊すると思っているからである。
だから慎重を期して得意の野戦に打って出ない。確実に敗北しない可能性だけを考えて行動している。
だが有斗はおそらくカトレウスが予想しているよりも長い期間戦えるだけの準備を終えている。
もちろんそれは何年にも渡って継戦できるということではないが、何年に渡っても継戦できると思わせることはできる。
そう思わせさえすれば、焦ったカトレウスはこれ以上味方が切り崩されるのを見ていられず、七郷の巣より這い出るしか他はない。
やはりできるならば七郷からカトレウスを引っ張り出し、野戦でけりをつけたい。七郷盆地は自然を利用した巨大な城だ。例え周囲全てを囲まれても、二万の兵を擁しても中で十分自活ができる。
もちろん有斗も王師の将軍たちも未だその地を見たことが無いから本当のところはなんともわからないが、もし万一そこが噂どおりの難攻不落の要塞ならば、そこに大兵をもって篭られると制限時間内に突破できるかは予断を許さないところだ。
それに長い時間坂東で
諸侯は風向きしだいでどちらにも態度を変えるだろうが、新しい上州の主たちは決して有斗に味方してはくれないだろう。
同じカトレウスの子供とはいえ、テュエストスとは違い三男はカトレウスにその文才を愛されているという、親子の断絶に付け込んで裏切らせることはできないであろう。
マイナス面だけではない、プラス面もある。上州に攻め込むことは強力な援軍を得ることにもなるからだ。オーギューガの兵と越に逃げた上州諸侯の兵と合流できる。
もともとオーギューガが旧上州諸侯を率いて上州に入れば、上州にやってきたばかりのカヒの支配者層は民に見放されて負けるのは目に見えている。
それでも上州をカヒが保ちえているのは、
王師がカヒの援軍を塞ぐように上州を蓋すればその危険は去る。上州制圧はそれだけで時間の問題だということだ。
ならばカトレウスを引っ張り出せるか出せないかに関わらず、上州へ兵を向ける、いや向けると見せかけることだけでも有効なことだと王は判断したに違いない。
プロイティデスは有斗の一連の上州攻略のための下行動を、そういうふうに理解していた。
カトレウスは王師の矛先が上州へと向かうことを知って、ここで苦しい選択を迫られた。
三男を見捨てて当初の計画通り七郷での防衛戦にこだわるべきか、それとも救援に向かうべきか、である。
カトレウスの前で開かれた軍議はまっぷたつに割れた。
七郷を前にして上州に王師が攻め入るのをただ指をくわえて見ているだけでは武門の恥、カヒ家にとって諸侯への面目が立たないと主張する者もいれば、ここまで諸侯の救援要請に一切応えてこなかったのに、ここで上州だけ特別扱いをすれば差別をするのかと思った諸侯の不信を買うだけだと主張する者もいた。
どちらかというとカトレウスは後者の意見に心惹かれていた。
その非情をあえて見せつける行動は悪くない考えにも思える。今まで援軍も出さず王師に制圧されていった諸侯に、子供ですら見放すのならば我らが見捨てられるのも仕方が無いと思わせることが出来る。恨みに思う気持ちは残るだろうが、勝ちにこだわるその冷酷さと平等さは諸侯をカヒに惹きつけるのに有効だ。
だがそれでは納得しないだろうな、と目の前で必死になって救援を主張する者たちを見てそう思う。
カトレウスの三男がそこにいるからではない。三男と共についていったカヒの将士が問題なのである。彼らはカヒの親族衆なり譜代衆の次男三男や従兄弟といった、このままでは家を継げない者たちであった。カトレウスも、親族衆も、譜代衆も、彼らに新しく一家を興させようとしたわけである。
カトレウスが三男を見放すということは、その彼らも同時に見殺しにするということである。
カトレウスは専制君主ではあるが親族衆や譜代衆が合議するというカヒの古い形態を全て消し去ることに成功したわけではない。彼らを全て敵に回してはカヒという同族会社は成り行かない。
親族衆や譜代の意思を完全に無視するわけにはいかないのである。その彼らがこの土壇場になって見捨てることに強く反対の意思を表したのだ。
何故かというと王を甘く見ていた彼らはとても上州まで王師は来ないと予断を持って決め付けていたのだ。その可能性を
見捨てることを反対するならもっと前から反対していればよかったのだ、とカトレウスは苦々しく思う。それならばなんやかんや理由をつけて、前もって上州から撤収するなどの策はいくらでも講じれたというのに。
だが王とオーギューガにここまで接近されてから退くのは物理的にも難しいし、さらに心情的にも難しい。
それはカヒが王とオーギューガを恐れるあまり、戦わずに逃げたと取られかねないし、ここまで諸侯は見捨ててきたのに、身内だけは特別扱いかと諸侯の離反を招きかねない。
とはいえ親族衆や譜代衆の意向を無視するわけにもいかなかった。それでは今度は兄弟や子や孫を見殺しにされ不満を抱いた者の中から裏切り者が出かねない。
親族衆や譜代衆から裏切り者を出した瞬間、おそらくカヒは雪崩を打つように分解し、戦わずして王の前に屈することになるだろう。
戦いで負けるのも嫌だ、死ぬのも勘弁願いたい、だが天下に片手をかけたカトレウスともあろう者が、戦わずして王に膝を屈する、それは他のあらゆることよりも、死ぬことよりも辛いことだ。それでは俺がカトレウスとして
それだけはカトレウスとしては受容するわけにはいかなかった。
だがその両者を納得させるだけの着地点を探す作業は難航した。
何日も何日もひたすら重臣たちと集まり会議を続ける。その間、日が一日過ぎるたびに、上州に王もテイレシアも近づいていっていた。
誰の顔にも焦りの表情が浮かんでいた。もちろん、カトレウスの顔でさえも。
出口の見えないその迷宮の中でカトレウスに出口のある方向を指し示したのはガイネウスだった。
「兵を出して上州の若を救いましょう」
ガイネウスの提案は一番ありえない選択肢だった。兵を出したなら今まで行ってきた持久戦術は単なる無駄ということになる。河東西部を始め諸侯が裏切った分だけ王師は強化され、カヒは弱体化した。決戦するのなら最初に行うべきだったのだ。
カトレウスは渋面を形作る。
「上州を攻める気配を見せているのは持久戦術を取る我々を亀の甲羅から引き
「勝てませんか」
「この俺に勝てない戦は無いといいたいところだがな。倍の敵を打ち破るのは容易ではない。博打は打ちたくないところだ。それに罠と分かっていて、わざわざそれに嵌まりに行くのも馬鹿らしい」
「戦わなければ良いではありませんか」
「・・・?」
ガイネウスの言葉にカトレウスは戸惑いを浮かべた。
「まず兵を七郷から発するといたしましょうか。王師に近づくと見せかければ、王師は十万とも言われる軍隊を展開するのに相応しい地を探すでしょう」
「探すといっても・・・そんな場所は河東中部ではそう多くは無いぞ。エピダウロスが一番適した地だ。そこから東方には適した地などない」
「王もそう考えたのだと思いますよ。その為にレプトカリア伯の攻撃など一帯の制圧をしたものだと思われます。上州を攻める気配を見せているのも我々を誘い出したいがため。つまり、我々が軍を率いて近づくそぶりを見せれば・・・」
「王はおそらくその地に陣を敷き、動くことはない、その間に隙を突いて上州に進めばいい、か!」
「ご明察です。我々は急いで脇道を進み上州の若たちと合流する」
「だが王は兵を北上させ戦おうとするだろうな。互いに互いの手に乗るまいと探り合いが続くだろう。だがテイレシアのやつが越から出てきたら、どうする? 我々は前後に敵を抱えて身動きが取れなくなるぞ」
「その通り。ですから堂々と大手を振って七郷へと撤退する言い訳が出来るではありませんか」
「むむ」
「上州の若と一手になって王師と戦おうとしたが、戦機が熟さず、不利な態勢になり仕方なく七郷へと撤退した。これです。これなら諸侯も不満は言えないし、親族衆や譜代衆を満足させることが出来る。全てを丸く収めるには、これしかありません。やつらは不慣れな土地の上、間道や裏道を知りません。向こうは兵を動かすのも探り探りですが、七郷と上州の間の土地は、我々にとっては自分の家の庭のようなものです。やつらに気付かれずに兵を移動させるなど造作も無いことでしょう」
なるほど、これは卓見である。カトレウスを墜ちいったこの苦境から救いあげるだけでなく、持久戦という当初からの一貫した戦略を放棄もしない良策である。
このような適切な助言をするガイネウスのような人物を配下に持った幸せを大いに感じるのと同様に、カトレウスは焦りのせいかこんなことも見えなくなっていた自分を大いに恥じた。
「よし、上州の状況を考えると、これ以上迷っている時間は無い。すぐにでも兵を招集し、出立する」
カトレウスの声は再び以前のような力強さを取り戻しつつあった。それを確認しただけでもガイネウスは献策した甲斐はあったと顔を
「御意」
七郷にいるカヒの兵はいつ敵が来てもいいように常に戦支度だけは毎日欠かさない。特に王師が坂東へと近づいてきてからは、カトレウスが鐘を鳴り響かせれば一日以内に全ての兵が集まれるよう身支度をさせておいてある。
明日には兵を催すことが出来るであろう。
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