第268話 いざ上州へ

 さて、ここで再び話の舞台は有斗率いる東征軍の陣中へと戻ってくる。

 芳野の出来事の時系列を整理しながら、その間の有斗の行動を記して行こうと思う。

 四月十二日、有斗は河東南西部を巡らせてきた軍を東へ先行していた軍とファルサロにて合流を果たした。

 ここでようやく、有斗は三月末日に南部諸侯軍が芳野へ攻め込んだという情報を聞いた。

 南部諸侯軍の役目は芳野の制圧ではなく、東征軍への糧道を確保する為に芳野と河東西部を牽制するのが役目なのである。もし彼らが敗れでもしたら芳野のカヒ兵は河東へと侵入して王都と東征軍の補給と連絡を断つだろう。八万もの大軍勢は補給路が断たれ枯渇し、戦わずして敗北することになる。さらには今のところ有斗に服従したかに見える河東西部の諸侯も、いそいそと王からカヒへと鞍替えし、勝ち馬へと乗り換えることだろう。

 有斗の戦略が根底から崩れ去りかねない事態だった。

 もちろんマシニッサの使者はファルサロだけでなく有斗めがけて発せられてはいたのだが、河東南西部をぐるりと巡っていた有斗を発見できなかったらしい。

 そして、有斗の下にこの一報が届くのが遅れたことが、この後のカヒとの戦いに大きな影響を及ぼすことになる。

 もしファルサロ到着以前にこの一報を知ったら、有斗はファルサロに向かわず驚き慌てて兵を帰した可能性のほうが高い。

 現にその夜、有斗は軍を分けることの是非を将軍たちに下問している。

 つまり勇み足で芳野に攻め込んだマシニッサが負けたときに備えて兵を返すべきか否かということを聞いたのだ。

 それに対して将軍たちは口々に兵を返す愚かさを説いた。

 河東西部、芳野、坂東、王が攻め込んでもカヒが兵を集中させて向かってくる様子は見られない。つまりカヒは徹頭徹尾個々の城に拠っての持久戦法にある。それに芳野の後ろには越がある、オーギューガがいる限り芳野の諸侯は長時間居城を留守に出来ない、と。だがそれでも有斗は迷っていた。

 諸侯は領土と民とを失うことを恐れ、将軍は当主から下された命令に逆らわまいとするだろう。

 だがもしそういう感情に捕らわれず、一部の地域での戦況でなく、この戦争全体を考え、目の前の事実だけを見て最善手を打ってくる将軍がいたら危険ではないだろうか・・・?

 最善手とはもちろん彼らにとって敵である有斗が一番嫌がる手のことである。

 芳野などという有斗にとって戦略的に無価値に近い土地にこだわるよりも、河東へと侵攻することのメリットが大であることに気がつき、それを実行したら有斗は窮地に立つ。

 それを防ぐための南部諸侯軍だったはずなのだ。これはまずい、放っておけば大変まずい事態になると有斗は大いに焦った。

 だが翌四月十三日早朝、有斗の下にマシニッサより朗報が届いた。四月八日に芳野原山城を陥落させたという一報だ。

 芳野を越える山岳部で伏兵に襲われて全滅するという有斗が恐れていた一番最悪の事態は脱したことになる。

 しかも諸侯の城を攻めたのにカヒの兵が駆けつけてくることがなかったともその報告では述べられていた。ということは、おそらく敵は芳野に攻め込まれた今でも敵を各地で足止めして時間を稼ぐことに主眼を置いているということである。

「よしマシニッサを褒める手紙を送ろう。と同時に撤退を命じる。ただマシニッサは極めて厄介な人物だ。へそを曲げると僕の命令でも聞かない危険性がある。マシニッサの機嫌を損ねることなく、なおかつ王の威厳を損ねない文面を考えておいてよ」

 有斗はこの戦場では書記を兼ねているゴルディアスに命じて文面を考えてもらう。

「御意」

 だが念のために有斗は二日間を兵の休養に当てると共に、西から凶報が届かないか待つことにした。

 しかし続報は特にもたらされなかった。兵糧も順調に運ばれてきて行軍に支障は無い。

 だから特に敵に動きは無いのだろうと安心した有斗は将軍を集め、四月十五日、坂東に向かって進軍を命じた。

 実際はこのとき既にマシニッサたちは更に芳野奥地へ進軍し、敗北を喫していたのだが。

 有斗が四月十三日に荒城平あらきだいらにおいてマシニッサ率いる南部諸侯軍が敗れたとの一報を聞いたのは、前に立ち塞がった一城を容易く撃破し、さらに大軍の襲来に怯え放棄された無人の城を接収もし、快調に破竹の勢いで東山道を進撃していた四月二十日だった。

 有斗は顔を真っ青にした。

 もはや坂東と呼ばれる河東最深部は目の前なのである。もはや今から急遽兵を反転させても戻るのに一週間以上かかるのである。

 四月十三日に南部諸侯軍を破ったとすればその勢いのまま南部諸侯軍を追撃し、四月十七日には河東へ攻め込んだと考えるべきである。

 有斗が戻るまでの十日間、その敵がマシニッサを破ったことで満足し、王師の補給路を漫然と見逃してくれるなどというのはちょっと虫がいい考えでしかないだろう。

 つまりまもなく補給は途絶えるということだ。もちろん行軍するのにぎりぎりの分だけを持って運ぶ軍隊など軍隊とは呼べない。十分備蓄はある。それに街道のところどころの接収した城などは備蓄基地となっている。二週間、いや三週間かそこらは飢えることはない。だがそれでも補給が途絶えると知った兵士は一気に士気が落ちるだろう。

 もちろんマシニッサと南部諸侯軍が敗戦から立ち直り、再び彼らを芳野へと押し戻し、兵站を再構築することが出来れば話は別ではあるが。

 だがそれが可能かどうかはマシニッサに指揮権を渡した有斗にも分からなかった。

 しかもこの辺りは街道に沿って堅城が軒を連ねて並んでおり、それを無視して直進すると背後を脅かされる可能性が多々あると見た有斗は、全軍を三つに分けてそれぞれに攻略を任せて出発させた後だったのである。

 つまり共に反転すべき兵も相談すべき将軍たちも側にいなかったのだ。

 有斗は三方面に散った将軍たちに急使を送り、召集をかける。

 とはいえ激烈な攻城戦を繰り広げている将軍たちを無理に軍から引き剥がすほどの強い語句で招集はかけなかった。そんなことをして将軍不在の王師が城兵の逆襲に会い、大きな被害を受けるようなことになったら本末転倒だ。将軍たちと話すのは如何にして負けないようにするか、遠征軍の被害を少なくするかのためなのだから。

 将軍たちも陣営を今離れるのはまずいとでも思ったのか半日馬を走らせれば来られる距離なのに一人も戻ってこない。

 眠れぬ夜が二日ほど続いた。

 四月二十三日、のんびり並足で馬を御しながら、まるで慌てることは何も無いといった風体で一人の将軍が戻ってきた。

 ガニメデだった。

 だけどようやく待望していた将軍が戻ってきたと聞いた有斗は、満面な笑みを顔に浮かべて自ら陣幕の外に出て出迎える歓迎振りだった。

「陛下、ガニメデが参りました」

 眼前で頭を垂れる影が一つだけであることに気付き、有斗は困惑した表情を見せた。

「あれ・・・ガニメデだけ? エテオクロスやベルビオは?」

 バツフサライ城に向かった軍はエテオクロスを主将、ベルビオとガニメデを副将とした諸侯との混成軍だ。幸いバツフサライ城はそれほどの規模の城郭でなく、前々日には外郭を突破することに成功し、内郭を落とすのも時間の問題だと報告が来ていた。

 熟練した将軍であるエテオクロスがそう言ったのであるから、たぶんもう落としているだろう。

 ならば南部諸侯軍が芳野のカヒと戦い敗れたというこの大事に、全員かけつけるはずなのだが・・・と有斗は思ったのだ。

 それに有斗のガニメデに対する評価はそれほど高くない。目の前で活躍したことが無いのだから仕方が無いのだが。せめて一人しか来られない事態であるのならエテオクロスが来てくれなかったのかなというのが本音ですらある。

 だがその取り様にとっては大変失礼な言葉である有斗の言葉も、ガニメデは笑って受け流した。

「アハハハハ。私で申し訳ありません、陛下。ですが三人の将軍でなく私一人が訪れたのは訳があります。それを知れば陛下のご心痛も少しは和らぐと思いますよ?」

「何かな? 何だろう? 攻略していたバツフサライ城が落ちたとかかな?」

 喜びそうなニュースといったら攻略が順調に進んでいたとかしかない。しかしそれも背後で補給線を断たれるかと思えば気休め程度だが。

「陛下、これをご覧ください」

 ガニメデは書簡を取り出し、自分の頭よりも上、有斗の前に差し出した。

 有斗はそれを受け取ると広げた。

 ・・・草書だ。

 有斗は一瞬、眉間にしわを作った。

「ここで立ち話もなんだし、将軍は遠くからはるばるやってきたのだ。お茶の一つもご馳走しよう。それに話も聞きたい。ささ、天幕に入って」

 有斗は文字が読めないのを誤魔化すために、ガニメデを自らの天幕内へといざなう。

 さすがに人の多いこの場所で王が誰かに手紙を読んでもらったりしたら、威厳とやらが消し飛んでしまうだろう。

 もっとも隠そうとしても秘密はいつしか漏れるもの。今や王が草書を読めないということは結構な人数の者が知っているという話ではあるが。


 天幕の中でガニメデに書簡の内容を直接話してもらった。

「つまり、オーギューガは約定を守り、上州へと出兵するってこと?」

「はい、しかも四月十一日、マシニッサに呼応するように越からも芳野へと侵攻したとのこと。彼らがカヒの足を掴んでくれるでしょう。これで芳野のカヒ兵は南部諸侯を追って河東へと逆侵攻することはなくなりました。陛下が抱いていた危惧はとうに消えていたというわけです」

「そうか・・・だとしたら実にありがたい」

 それでもオーギューガを無視し、河東へ進む可能性はあるわけではあるが、そうすればオーギューガの軍もそれを追うように河東へと進んでくれるだろう。

 負け戦で壊走する南部諸侯軍だっていつまでも逃げてばかりではない。

 いつかは気を落ちつかし、反撃の態勢を整えるだろう。そうなったら敵は退路を立たれた上に前後を挟まれ、一転して苦境に立つことになる。

「だとするとわざわざ兵を返す必要はないようだね。今度の遠征は半ば国家を傾けてまでやっている大事業だ。失敗は許されない。これは久しぶりに良い知らせだよ」

 有斗は顔を紅潮させ語気も強くそう言った。

「そう思ったので、三人で相談し私だけが陛下の下に戻ることにしたのです。他の二人はもう次の城へと兵を進めていますぞ。それにいい知らせはまだあります」

 と笑うガニメデに引き込まれるように有斗は訊ね返す。

「なになに? 良い知らせであればいくらでも聞きたい」

 特にこの二日、悪い知らせに夜も眠れなかった有斗にしてみれば、今夜快眠するためにも良い話ならいくらでも聞いておきたい気持ちだったのだ。

「リュケネ卿とザラルセン卿は既に街道南方の諸城を片っ端から破却しております。エレクトライ卿、プロイティデス卿、アクトール卿も順調に攻略を続けておりますし、そしてステロベ卿はヒュベル卿と協力して一昨日に三俣城を落としました。次に向かうは向笠城です」

 有斗は地図の上の地名をなぞって東へと指を滑らせる。そして向笠城のところでふと指を止める。その横には朱色で境界線が引かれていた。

「そこを落とせば上州との境に到達することになりますぞ」

 その意味は果てしなく大きい。上州にまで行けばカヒ直臣の城が有斗を待ち受けている。

 まさかカトレウスといえどこれ以上部下を見捨てて七郷に閉じこもることで、最後まで持久戦術が使えるとは思っていないだろう。きっとその作戦の失敗を認め、重い腰を上げるに違いない。つまり・・・大規模な野戦が間もなくあるということだ。

「上州・・・つまりそこに到達すれば坂東との境目に到達したということだね」

「はい」

 決戦を目の前にして緊張する有斗とは反対に、それを待ち望んでいたガニメデは大きく期待に胸を膨らました。

「いよいよカトレウスと天下分け目の決戦を挑むことになります。陛下、大業を為すべき時はもう間もなくですぞ!」

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