第267話 芳野攻防戦(Ⅵ)

 塩田平に入ったところで敵影を認めた両軍だったが、互いを牽制けんせいしてかしばしの時間、にらみ合いを続ける。

 それもそのはず、両軍が布陣する塩田平には北東から南西へと貫流する篭川かごがわが流れている。

 場所を選べば徒歩でも渡れるほど浅い川ではあるが、それでも腰まで浸かることになるし、足も取られて進軍速度は落ちる。敵兵の矢のいい的に過ぎない。ところによっては深みや急流もあるだろう。一度に大量の兵を進ませることもできない。さらにまだまだ水温は低く、確実に兵から体力を奪い長時間戦えなくなるだろう。

 互いにわざと川から距離を取り、相手に川を渡らせようとしているのだ。

 睨み合いの末、動き出したのはやはりデウカリオの方だった。

「ここは我らの地元だ。どこが渡れる浅瀬で、どこが危険な深みであるか熟知している。兵数も多い。一度に川に押し寄せ、複数の浅瀬に兵を展開させれば敵も防ぎ切ることはできないであろう」

 急ぎ諸侯を集め、手早く浅瀬を確認し、手順を決める。

 まず敵から距離を離すように軍を上流へと向け、先頭から渡しを渡り始める。次に少し時間を置いてそこから百間(百八十メートル)離れた渡しから中程の部隊がおもむろに川を渡る。

 このどちらかに食いつけばしめたものだ。進軍と同時に草地に伏せさせておいた後備の部隊が急ぎ下流に向かって渡河する。

 三箇所は同時に防ぎきれない。それには兵数が少なすぎる。戦列が延びすぎてとても支えきれない。

 確かに川を渡ろうとした途中を襲われた隊は極度の苦戦を強いられ犠牲者も出すだろうが、それも他の渡しを渡り終えた隊が駆けつけてくるまでの辛抱だ。側面を急襲され、多方向から攻撃を受けた敵は数の少なさからやがて劣勢になる。

 勝機は十分にあると判断した。


「上流でまず渡るという危険な役目を負うのは三千の兵、カヒの黒色備えを中心とした精鋭部隊、当然ワシが率いる」

 渡河を始めれば、敵はそこに攻撃を集中する。総兵力では二倍近い差があるが、一度に渡河出来る人数を考えるとその局面においては人数差は逆転する。それにこの部隊はいわば敵を食いつかせるための餌だ。

 つまり他の部隊が対岸へ渡りきるまではいくら不利な態勢になっても退くことは出来ない。デウカリオはその一番危険な役目を自ら買って出た。

 自分が立てた作戦を実行するに当って、損な役回りを他人に割り振らないところは尊敬に値する。そこは偉い、さすがはカヒの四天王の一人だとバアルは思う。

 バアルにしてみれば一軍の将としては、いささかその行動が感情に振り回されている面があるようにも見える。だが大略的に戦略を考える時には感情が足を引っ張るが、その感情のたぎるような熱さが将として兵を惹きつけて已まないのだろう。兵は恩では将軍のために死なないが、情ならば共に死ぬのである。一個の戦場で敵将と雌雄を決する際にはデウカリオのために兵は奮い立ち、尋常以上の力を発揮するに違いない。

 バアルはこのデウカリオが立てたこの奇をてらわない作戦を大いに良と評価した。

 細かな策を講じるよりも、正攻法でぶつかるのが正しい。兵が多く将の士気が高いのだから負けるはずはない。

「次にワシの部隊に敵が食いつくか食いつかないかは関係なく、しばしの時間を置いて中流で渡河する兵は芳野中部の諸侯を中心とした四千の兵、率いる将はボイアース」

 デウカリオの言葉にボイアースが頷いて了承の意を表す。

「ではバアル殿は三千の諸侯の兵を率いて草地に伏せ、ワシが上流を渡ると共に下流へと向かって対岸へと渡っていただきたい」

 バアルは頭では戦略を考えればオーギューガなど放っておいて王の背後を襲うべきだと未だにそう思うが、敵を目の前にしたこの戦場という狭い範囲の話ならデウカリオの取ろうとしている作戦は勝利への正しい道順だも思う。バアルはデウカリオの指示に大人しく従う。

「承知した」

 バアルはパッカス旗下の一翼とオフリット伯はじめ芳野の小諸侯の混成軍三千を率い、軍の移動にまぎれて草むらの中に身を潜めた。


 敵将のディスケスはデウカリオが篭川の上流向けて兵を動き出してもまだ陣を動かさなかった。

 よほど慎重な性格なのか、敵の罠を警戒しているのか、それともわざと動かずに敵兵が川を渡るのを待っているのか、どれであろうか。

 だがいよいよディスケスが先兵を浅瀬に入れると、我慢できなくなったようにオーギューガ勢も旗をなびかせて東へと動き始める。

 さすがにカヒの全兵力を一切邪魔せずに渡河を許してしまえば、兵力的に大きく劣るオーギューガ勢が不利になるのは明白なのだ。

 例え罠だと分かっていたとしても渡河を妨害しないわけには行かない。

「素早く、陣形を乱さずに移動し確実に布陣せよ。敵の前衛が渡ってくるまでは一切の手を出すな」

 ディスケスは 遠目には分からないだろうが素早く移動できるような形で布陣しておいたのだ。

 移動しても陣形を整えるのに時間は消費しない。すぐにでも攻撃態勢が取れる。

 だがそれでは敵もすぐに渡河を中止してしまうかもしれない。それは不毛だ。何のために河から離れて布陣していたのかわからない。出来れば大半の兵が川の中にいる時に攻撃を開始したい。

 そうすれば川の向こうにまだ残っている兵士は川に入るのを躊躇し、川の中にいる兵は飛んでくる矢を満足に防ぎきれず、ようやく上陸した兵は陣形を整える時間すら与えられず背水の陣となる。

 まさに必敗の形である。

 とはいえそれくらい敵も知っているだろう。だが知っていてもこの策を取った。つまりその苦境を跳ね除ける策を持っているか、あるいはあえて苦境に陥ってでも、実行したい策があるかだ。

 さて、どう来るかな。ディスケスは黒いものを探すほうが難しくなった顎鬚あごひげを撫で付け考えた。

 敵は数が多い。複数の渡しから一斉に侵攻すれば数に劣る我らには防ぎきれないと見たというところかな。未だ中流付近をうろうろする敵の長く伸びた隊列を見て、ディスケスはそう考えた。

 ディスケスはデウカリオという男をよく知っている。どんな障害があっても迂回せず正面突破を考える男だということを。

 だがそれはこちらも織り込み済みだ。

 別々の渡しから別々に渡るということは、兵力を分散するということでもある。兵力の再集結を許さず、各個撃破していけばよい。

「とにもかくにも勝利は最初に渡ってくる部隊を如何に素早く撃退できるかにかかっているか」

 だけどそれがちょっと簡単じゃないな、とディスケスは対岸を埋め尽くす黒一色で染まった軍団を見て、そう思った。


 ディスケスは己が思い通りに戦闘を開始する。

 デウカリオの黒色備えが馬を駆って次々と上陸してもまだ敵を待ち、渡河する兵を守るように河川敷に仮陣を造ってもさらに待ち、河川敷に溜まった兵がディスケスの陣に対抗し、陣形を広げようと展開するのを見てようやく全軍に一斉攻撃を命じた。

 上空を味方の矢が唸りを上げて飛んでいく中、オーギューガの兵は大地を疾駆し、デウカリオ自慢の黒色備えに激突する。

 激戦がたちまち展開された。

 押しているのは勢いに勝るオーギューガの兵だった。カヒ側は明らかに浮き足立っていた。

 オーギューガの兵は寡兵でもってカヒの兵と五分以上に戦ってきた。なによりその自信が彼らに大きな力を与えている。

 たちまち黒色備えは苦戦に陥った。陣を寸断され、もはや戦列も組み直せない。それでも辛うじて軍隊の形を保っていたのはさすがはカヒの兵、と褒めるところであろうか。

 だが圧倒的に不利な態勢になっても、デウカリオは撤兵を命じなかった。

 当初の作戦からしても、そして川を渡った兵士の置かれている状況からしてもそれは許される状況になかった。もはや半分の兵が川を渡った。ここで撤兵しようとすれば川を渡った兵は敵に後ろから襲われ、そこをなんとか生き延びても、もう一度川を渡る間に多くの兵が矢の犠牲となってしまうだろう。

 結局のところ犠牲者が増えるだけなのだ。ならば対岸に渡った兵を全滅させないためにも、兵力をこのまま逐次投入しなければならない。

 だが未だカヒ側は戦列一つまともに再形成できてはいなかった。

 デウカリオは絶対的不利な状況にもかかわらず、それでも勇をくじかなかった。

 その主将の意気が乗り移ったかのようにカヒの兵は奮闘を続ける。

「慌てるな、敵は寡兵ぞ! この攻撃は長くは続かない、必ず奴らは息切れする! それまでの辛抱だ! とにかく戦列を形成しろ! 違う隊の者であっても協力して横に連なり、互いに協力して前方の敵に対処するのだ! 突出して敵に三方から囲まれることだけは避ければいい!」

 デウカリオは続けざまに指示を叫んで兵のコントロールを必死に取り戻そうとする。

 飛来する矢に傷つきながらも上陸してきた兵が次々とデウカリオの旗目指して集まり、不恰好な即席の陣を形成する。これで敵の勢いは多少なりとも弱められた。

 もう少しだ。もう少し耐えれば、味方が駆けつけてくれる。そうすれば挟撃された敵が一気に不利になり流れが変わるのだ。


 やがて川の中流を敵の妨害なく無事に渡り切ったボイアース隊がデウカリオの援護に駆けつけてきた。

「行くぞ! デウカリオ殿は苦戦しておられる! 敵は陣を後ろに向けて布陣している! 一気に突き破れ!」

 極度の苦戦に息も絶え絶えだったデウカリオ隊は歓声をもって味方の到着を大きく歓迎した。

 だがディスケスはそれすら織り込み済みだった。諸侯の内から二千の兵を割いて既に陣の後方に折り敷き、万全の備えで待ち構えていた。

 それも当然だ。混戦の中でもディスケスは対岸の敵軍の動きを常に監視していたのだから。

 伏せた兵はボイアース隊がぎりぎりまで近づくまで待つと、一斉に立ち上がり槍を揃えて飛び掛った。突然の障害物の登場に馬が暴れ隊列が乱れた。

 その一瞬を見逃さずにディスケス隊は敵にぶつかっていく。

 ボイアース隊は極度の苦戦に陥った。実を言えば敵の反撃があることをまったく予測していなかったのだ。このままではデウカリオ隊が崩壊するのは時間の問題だと、列伍も整える時間も惜しんで駆けつけたのだ。

 敵はデウカリオと戦闘を続けている。こちらに気を回す余裕はない。とにかく攻撃を加えてデウカリオを窮地から救い出すべきだと考えたのだ。

 実際に気を回す余裕がなかったのはボイアースの方であったが。

 だがその窮地を救いに来たはずのボイアース隊も劣勢に陥ったことで、デウカリオ隊もさらなる危機に直面していた。もう兵たちの中に逆境に抗い続ける気力が失われつつあったのである。

 ディスケスは正面と背面、どちらの面でも細かいミスすら見せずに、崩れそうな兆しが見えるたびに修正を加え、驚異的な指揮能力で両面で攻勢を続けていた。

 それは突撃や正面突破、三方包囲といった派手な攻撃ではなかったが、地味で堅実で確実な攻撃だった。

 それがだけに一気に崩壊の時を迎えることはなかったが、時間が経つにつれ確実に不利になっていくことも明白だった。

 もし、この時、バアルが兵を率いて駆けつけなければデウカリオの命は無かったかもしれない。

「味方を追ってくる敵を食い止めよ! いいか数では我らが上回っているのだ! 兵が落ち着いて陣形が組めさえすれば最終的な勝利は我らの手にあり!」

 バアルの号令一下、長駆走ってきた兵たちは息も切れ切れながらも、後退するボイアース隊と交差するようにして、ボイアース隊を追撃して来たディスケス隊に槍を交えて、その足を止める。

 それでボイアース隊は一旦敵の槍先から逃れられたものの、その矢面に立ったバアル隊はボイアース隊をさらに迂回する形で長駆してきたのであるから、兵はくたびれ果て隊列は長く伸び、戦列も作らずにぶつかっただけだった。

 ぶつかった一瞬こそ、予期せぬ敵に押されてしまった形となったディスケス隊だが、隊列を組んでいる兵の強み、たちまち押し返しだした。

 だがバアルは次々と来る後続の兵を繰り出し、敵の薄いところに次々とぶつけて局面の打開を図る。

 相手は諸侯の兵である複雑な動きは出来ない、はずだった。

 だがバアルのその攻撃にあわせるように兵は薄気味悪い進退をし、攻撃を全て跳ね除ける。

 その間も正面ではデウカリオの兵に一切の反撃を許さずにである。

 恐ろしい男だ。

「ならば・・・!」

 こういった手合いには小手先だけの小細工は一切効くまい。ここは力押しで行く。

 バアルは全ての兵を斜め前方へとスライドしつつ敵に突撃させた。思ったとおり敵はその攻撃を受け流して、反撃の機会をうかがう行動に出る。

 河川敷に足を踏み入れると、くるりと方向を変えて河川敷を通ってデウカリオ隊との合流を目指した。

 河川敷には敵がいない。ここを通り抜けデウカリオ隊と合流できれば、腰砕けになっているデウカリオ隊を立て直すことが出来るだろう。

 だが河川敷は背後を川でふさがれた絶対の死地。当然、ディスケス隊はそれを見逃さず、川へ追い落とそうと次々と襲い掛かってきた。

 それでも河川敷に出る行程で細く長く伸びた結果、バアル隊は戦列の形成に成功したことにもなる。デウカリオ隊との合流を目指すべきか、それとも敵と戦うべきか。

 バアルの武将の勘がここで敵を支えれば、ボイアース隊が戻ったときに三方からの包囲が敷けるのではないかと告げていた。

「ここだ! この戦列でしばし支えれば、ボイアース殿、デウカリオ殿と敵を三方から囲うことにもなる! しばし敵を食い止めよ!」

 バアルの叱咤激励に答え、兵たちは押されながらもなんとか部隊を寸断されずに耐えぬこうとする。

 隊伍を整え終えた待望のボイアース隊もやがて戦場に戻ってきた。

 ディスケス隊は三方を敵に囲まれることになる。

 普通ならばこれで崩れる。だがディスケスは三方を敵に囲まれても、その全ての攻撃を見切ったかのように受けきり、戦場を未だ支配していた。

「粘性のある布陣だ。どこにも隙が無い」

 バアルがうなる。本来なら撤退戦で使う、先手と後詰が絶えず入れ替わる繰り引きという戦術に似た手法を使ってバアルたちを翻弄していた。

「オーギューガに其の人ありと知られる武人なだけはありますね」

 だがバアルも負けてはいない、とパッカスは思う。

 諸侯寄せ集めのこの布陣でオーギューガの双翼の一人と渡り合うのだから。

 とはいえこれでディスケスも攻勢に兵を回す余裕は無くなり、デウカリオもその兵たちもようやく一息をつくことができた。デウカリオの命に従い、兵たちは横に広がって戦列を形成する。これで当面の壊滅の危機は免れたと言って良い。ようやくデウカリオの顔にも余裕が戻ってきていた。

 今度はこちらの番とばかりにデウカリオも攻勢を強めた。

 だがそれでもなお、ディスケスを叩き潰すことは出来なかった。


 夕闇が戦場を包んだ。

 三方から囲まれ攻撃を受けているディスケス隊は攻撃を既に防ぐだけで一杯になっていた。しかし攻撃を仕掛けているカヒ側も強行軍に次いでの激戦で足が止まり、水に濡れた体は兵から確実に体力を奪っていった。

 双方これ以上戦闘しても勝利を得られる確証が無かった。夜間の戦闘は同士討ちの危険性もある。

 どちらからともなくあがった退き鉦と揚げ貝の音が戦場に木霊し、干戈が小さくなっていく。

 そして武器を構えながら双方の兵士はゆっくりと後退し、互いに距離を取る。


 翌朝、目覚めた芳野の兵は塩田平にオーギューガの旗を見つけることが出来なかった。

 どうやら前夜のうちに敵は密かに撤退したようだった。

 だがまだ芳野から出て行ったと確認できるまでは油断は出来ない。この軍を解散するわけには行かない。

「偵騎を放て! やつらがどこへ行ったか確認するのだ! 次いで南部諸侯どもの動きも探らせよ! 合流を計られたら厄介だぞ!」

 デウカリオはオーギューガを撃退したと思い込んで、はしゃいでいる軍監どもを叱り付けると矢継ぎ早に命を下した。

 敵は兵力を温存したまま撤退した。ということは勢いに乗って越に攻め入り、オーギューガの足元を揺るがすことは難しいだろう。

 だがもし無様に退却するようであるならば、その隙を突いて急襲する。

 ディスケスをこっぴどく叩いておくことは、長期的に見てもカヒに損の無い話であるのだから。

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