第266話 芳野攻防戦(Ⅴ)
さて、カトレウスは決して愚将ではないと、ここでもう一度読者諸兄に申し上げておく。
ならば客将であるバアルはともかくも、何故カヒ二十四翼の大事な兵を割き、四天王の一人デウカリオをもってしてまで、芳野などという河東遠征において王が無視できる僻地に置いたのかと疑問にもつ方もおられると思う。
それは明らかに主戦場となる河東東部から離れている上、芳野と河北の間は山岳地帯、防衛するほうに特化した特殊な地形である。
つまり今回はマシニッサが暴走して芳野内部に攻め込んだから破ることが出来たが、普通なら半数程度の兵でも王は河東への進撃を
確かに地元諸侯は芳野を離れることに難色を示すだろうが、兵数において王に劣るカトレウスならば、そこに置かれた四千の兵だけでも貴重な戦力になるであろうことは素人でも分かる。
だが確かにデウカリオを芳野に置くことはカトレウスにとって王の兵力を減じる以上の効力をもたらす一手であったのだ。
越からカヒの領内へ攻め込むには大きく分けて三つの道がある。
一つは東北へ侵攻し、そこから南下して一気にカトレウスの裏庭である坂東奥地へと兵を向ける道。
二つ目は峠を越えて上州へと出て東山道まで下り、東進して七郷へと向かう道、ちなみに二人の長年の戦いにおいてはほとんどの戦がこのルート上で行われている。
そして最後の三つ目は越の西端へと向かい、山道を越えて芳野へと入り河東へと向かう道だ。
当然のように芳野と向かい合う越の側にはオーギューガの双翼を
すなわち芳野にカヒの兵がいることこそがオーギューガに対する牽制ともなるのである。芳野にデウカリオがいる限り、その兵は動かすわけには行かない。
オーギューガが王と共にカトレウスを攻めるのは仕方がない。だが少しでもその兵を減らすべきだと考えた結果のデウカリオの配置だったのだ。
ようはカトレウスは王が十万の兵を率いて坂東までやってくることよりも、テイレシアが一万の兵を率いて攻めかかってくるほうが相手として嫌だったのである。
それにカトレウスはもう一つの危険を危惧した。芳野の諸侯が王ないしオーギューガに合力し、カトレウスに攻めかかってくることである。
カトレウスの領内で一番信が置けないのは上州と河東西部だ。隙あらば裏切ろうと暗躍する。
だから芳野が裏切ったら河東西部も裏切る。そうなれば雪崩のように河東東部の諸侯も裏切り、カトレウスは孤立し敗北する。それが戦の流れというものだ。
だが河東西部の諸侯が裏切っても芳野が健在であれば、河東東部諸侯はまだカトレウスに勝ち目有りと見て味方してくれることだろう。
デウカリオは猪突猛進のきらいはあるが、特に混沌とした戦況におけるここ一番の勝負どころを把握する目には卓越したものを持つ。カトレウスですら混戦の中、勝機を掴むその目には一目置いているくらいなのだ。兵を率いても民を治めさせても卒が無く、いかなる逆境にもめげたりしない。特に攻勢になったときに前へ前へと兵を進ませる術はカヒ二十四翼でも右に出るものはいない。
デウカリオはカトレウスによく似ていた。言ってみれば小型のカトレウスなのである。四天王の中でも特にこのデウカリオをカトレウスは愛した。
だからこそ河東の王師と越のオーギューガを牽制するという重要な役目を与えて芳野に置いたままにしておいたのである。
マシニッサ率いる南部諸侯軍を打ち破ったのに、デウカリオがその余勢を駆ってそのまま追い討ちをかけなかったのは、デウカリオに与えられたその役目に関係があった。
南部諸侯を文字通り撃砕し、諸侯が戦場を駆け敵を追い散らかす姿をデウカリオは馬上から余裕を持って眺めていた。
追撃するにしてもまずは一旦隊列を整え、追撃態勢を取ってからだ。
逃げる敵を追い、背後から槍を入れるのは、兵にとって自らが傷つく心配なしに戦士としての自らの優位性を確認することができる数少ない機会だ。容易く敵の首という手柄を立てることの出来る絶好の機会でもある。
さらにある者にとっては、敵という人間を思うがまま一切の倫理に捉われず殺傷することができる
だがその空気に酔いしれるがあまり、注意力をなくし敵の反撃に会って、勝者と敗者がところを変えることはそう珍しいことでもないのである。
だから暴れまわる兵を収容し、勝利に高揚する諸侯の手綱を引き締めなければならないと考えるほどの余裕があった。
「退き鉦を叩け、諸将に敵を深追いするなと使者を出せ。一度軍をまとめる」
その本営に北から一頭の早馬が息せき切って駆け込んで来た。使者は馬を降りると
「デウカリオ様! 留守居のレイトス卿から伝令です!」
その慌てふためいた様子にデウカリオは嫌な予感をたぎらせる。
「・・・用件は?」
「来る四月十一日
「なんだと!」
それはやはり予感したように悪い知らせだった。オーギューガが王と呼応して芳野に兵を侵入させたということだった。
ここで使者が最後に付け加えた言葉について少し説明しなければならないだろう。
九曜巴とはオーギューガの紋章、つまり軍の中にオーギューガの当主テイレシアはいないということを示している。
龍旗も同じくオーギューガの旗であるが、こちらはもう少し違った意味合いを持つ。
龍旗はオーギューガの魂の象徴、これが掲げられていた場合、その戦はオーギューガにとって決死の戦場であることを意味する。
主君も家臣も戦が終わるまで後退は許されない。前進し敵を打ち破り勝利するか、しからずんば死か、家中の者は二つの選択肢だけを心に秘め戦うことを義務づけられる。
オーギューガの長い歴史でも七度、この戦国の世でも五度しか掲げられたことのないアメイジアにその名を知られた絶対不滅の旗である。
そのうち三度はテイレシアとカトレウスとの戦いで上げられたものだ。デウカリオもその三度ともに参加しているから身にしみてその旗の恐ろしさを知っている。
いずれも酷い戦いになった。内一度は完璧なる敗北、二度はなんとか戦略的勝利を得て、引き分けに持ち込んだ。
多くの将軍が死に、カトレウスも弟や長男を亡くした。カヒの河東制圧は龍旗のせいで十年は遅れたに違いないと歴史家に言わせる
言ってみれば龍旗とは敵対するものにとっては恐怖の象徴なのである。
だが、その二個がなくても十分、勝利に酔ったデウカリオの目を覚まさせるだけの効果がその知らせにはあった。
越から来たという事は主将はディスケス。オーギューガの双璧、武の二柱の一人、攻めのカストールに対して守りのディスケスとも称される人物である。カヒの四天王である自分と同格、少なくとも南部諸侯などとは格が違う。
実に厄介なことになった。だが同時にこれで役割を果たしたとも思った。なぜなら越のオーギューガを牽制することが彼に与えられた主任務だったからだ。
芳野に攻め込んだ兵力は当然坂東へは攻め込めない。カトレウスの負担を軽くすることが出来る。
さらにはもし攻め込んできたオーギューガの軍に勝利すれば、今度はこちらが越に兵を入れることで坂東へと兵を進めようとするテイレシアの足を
それはバアルが主張する王の補給線を断つことよりも、この戦に多大な影響を与えるというのがデウカリオの認識だった。
冷静に分析するとその認識は正しくない。
王が兵を退けばオーギューガも兵を退くだろうが、オーギューガが兵を退いても王は兵を退かないであろう。
この戦は王とカトレウスの間で行われる戦なのだ。テイレシアはあくまで脇役でしかない。
だが長年の宿敵関係と過去の苦い記憶がカトレウスはじめカヒ全体にオーギューガの方ばかりその目を向けさせてしまったのである。
当然、バアルは追撃を主張した。
逃げる南部諸侯を追撃し、河東へと足を伸ばして一度なりとも王師の補給部隊を襲う。そうすれば王は補給に詰まる。あれだけの大軍だ、たった一回でも補給が途絶えれば大問題となる。容易く全軍が動揺する。少なくともバアルたちに備えて一部の部隊を戻さなければならないだろうし、全体計画に修正を加えなければならなくなるだろう。
うまくすれば補給路を寸断され飢えて枯渇することを恐れて撤退を決意してくれるかもしれない。もちろん甘い見通しであることは承知しているが。
確かにずっと河東にいればオーギューガは片っ端から諸侯の城を落として回るだろうが、河東で補給隊を襲って芳野に戻ってくるまでの間くらいは、諸侯だって耐えられるはずだというのがバアルの意見なのである。
だがその意見はデウカリオに一蹴される。
「客将は関西で暮らしておったから分かっておらぬようだな。我らにとって信で世界を一統するとか寝ぼけた
その運が良いだけに見えるところが、そして無能に見えるところこそが怖いのだ、とバアルは思う。
その考えが相手の油断を誘い、王に有利にことが運ぶようにしてしまうのである。
そもそも単なる無能が百鬼夜行の朝廷をまとめ続け、暴走しがちな軍部を抑え、多くの敵を討って領土を拡張し、次々と新しい政策を打ち出して傾いた国家を建て直すことなど出来ないのである。
だから何度も戦ってきたバアルにはわかる。あの王には何かがあるのだ。何かがあるから勝利し続けるのだ。
だがバアルの考えは支持されなかった。
カヒの将軍たちもオーギューガこそが主敵という考えから脱せなかった。
もちろんいつオーギューガに自分の城が襲われるか恐怖している諸侯もデウカリオを大いに支持する。
そうなればバアルとてこれ以上の主張も出来なくなる。
「あと四千だけ兵があればな」
合計五千の兵があれば南部諸侯など叩きのめして補給路を断ってみせるのにと残念な気持ちで一杯だった。バアルは嘆息するしかなかった。後はデウカリオの考えに沿って動くだけである。
それはバアルの策よりは下策だが、まったく効果がないわけではない。
こうなれば決戦場に到達する兵力を少しでも減らして、後はカトレウスに全てを託すしかない。
戦国の申し子、時代の寵児とも称される戦におけるその手腕を大いに発揮してもらうことを期待するしかなかった。
デウカリオは方針を決めるとさっそく越の国境に近い諸侯を先頭に次々と軍を反転させ、北上を開始する。
ディスケスが芳野に兵を進めたのはもちろんテイレシアの要請があったからである。
テイレシアが動いたのはラヴィーニアが働きかけたからだ。
芳野に敵がいる限り王師はいつ補給線が断たれるかと後ろを振り返りながら進まなくてはならない。
たとえ輜重が襲われなくとも、その可能性があるだけで王師の行動は若干縛られるはずだ。
勝つための努力を惜しまないラヴィーニアが有斗のために手を打っておいたのだ。
幸い、テイレシアからは快い返事が返ってきた。これで少しは肩の荷が下りたとラヴィーニアは安堵する。芳野のカヒの兵がオーギューガと戦っている間だけは、王師は後ろの心配をしなくてすむのだ。
できれば一度の戦でけりがつくのではなく、
ディスケスはテイレシアからその指令を受けて、芳野に侵入する機会を狙っていた。
そこに河東から南部諸侯が侵入したとの知らせがディスケスに届く。これは敵を挟撃する好機と、急いで兵を率いて芳野へと足を踏み入れたのだ。まさか挟撃する前に、味方がこんなに早く敗戦するとは思わなかった。
だが別に南部諸侯を戦力として格段当てにしたわけではない。それに寡兵を嘆くような将ではなかった。
五千の兵だけで援軍が期待できないにも関わらず、ディスケスは芳野の奥へと
四月十七日、ついにそのディスケスの前に北上してきたデウカリオ率いるカヒの軍立ち塞がった。
「ほう。数だけは集めてきたな」
ディスケスは鶴翼に広がった敵の布陣を見て敵数をざっと一万と見積もった。五千の兵を相手にするには過ぎた数である。
「旗印を見ると将軍は四天王のデウカリオ・・・あの猛々しい男だな」
ディスケスは何度かその兵と戦場で戦ったことがある。なかなかに手強い将軍であった。
だが勝てない相手ではないとも思った。
ディスケスは攻めに妙手を見せる将軍ではなかった。もちろん平均をはるかに上回る手腕は持ってはいるのだが、主君であるテイレシアや同僚のカストールが華麗とも呼べる戦術を駆使するのに比べるといまいち地味なのだった。
だが守勢においてはオーギューガでは並ぶものはいないと目されていた。
主君や同僚が華麗な戦術を駆使して攻めを展開できるのも、全ては彼が他の戦線を支えているからであると言っても良いだろう。
何より混戦になればなるほど粘り強い戦闘をする将軍である。デウカリオとは相性がいい。
デウカリオの矛に対してディスケスの盾、ぶつかった時に壊れるのはどちらの武器であろうか。
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