第248話 猜疑を生む

 春が過ぎ去り、その年の夏の酷暑を越え。田で稲穂が豊かに垂れ下がる頃、上州での反乱が終結したばかりの河東で、またひとつの事件が起きた。

 一人の諸侯がカトレウスに始末されたのだ。その小さなひとつの事件がゴトリと音を立て歴史の歯車を回し始める。


 その諸侯とはツアヴタット伯である。

 カヒに攻め込まれたという偽りをもって有斗を河東へ誘い出し、韮山でカトレウスに大敗したきっかけを、つまり危うくアエネアスを失いそうになり、有斗も命を亡くす寸前にまで追いやった原因を作った、あのツアヴタット伯である。

 あの戦の後、ツアヴタット伯は常々、韮山で王師を打ち破ることができたのは、自分が身体を張って謀略を実行したからだと自慢して吹聴していた。

 もっともその策略そのものを立てたのはガイネウスとカトレウスであったし、戦場で王師を打ち破ったのは二十四翼の兵だから、カトレウスからしてみれば、その指摘はいささか的外れと考えていたとしてもしかたがないことであろう。

 よって韮山の後もツアヴタット伯に対する恩賞どころか褒美の言葉ひとつ無かった。

 そのことを不満に思い、近隣諸侯の集まる場で洩らしたことがいつしかカトレウスの耳に入っていた。

 カトレウスは猜疑心の塊のような男ではあるが、それでも一代の傑物、乱世の奸雄である。

 そんなことくらいでツアヴタット伯を始末したりするほど小さな男では無いのだ。

 そう、平静であるのならば。


 そんなカトレウスの心をゆすぶったのは先の上州における諸侯の一斉蜂起である。

 それは狡猾であっても聡明で、自信過剰で独立の気風を持ち、いかなる権力にも屈しないという上州の気風が起こした反乱である。

 だがイスティエアの敗戦はカトレウスの心に大きな影を落としていた。

 自身が心の奥底で事実そうなのではないかと恐れているように、河東の諸侯も王を本物の天与の人であると心の奥底で認めてしまったのではないかと眠れぬ夜を過ごしていた。

 だから上州の諸侯がこのタイミングで大した勝算もなしに裏切るなどと言う無謀な行為を行ったのは、有斗を天与の人であると信じたから起きたことではないかと考えたのだ。

 それにイスティエアの敗戦後より度々、諸侯の下には王からの書簡が行き来しているという噂がある。いや、噂だけではない。度々カトレウスの下には諸侯より王から来た手紙だという書簡が届けられたものだ。

 中には封も切らずに提出し、カトレウスへの忠誠を示す粋な諸侯もいて、最初はカトレウスも我が威光さもあらん、と大いに満足していたものだ。

 だが上州の諸侯は反乱間近の時機には、王からの書状を一通もカトレウスに提出してはいなかった。

 おそらく来ていたのは間違いない。なぜなら上州より奥地の諸侯からカトレウスの下に王からの密書が届けられていたのだから。

 まさか王が反乱の気配を見せる上州諸侯に見向きもせずに、そのさらに奥地の裏切る確証も無い東北の諸侯を選んで、精力的に手紙を出していただけなどと信じるほどカトレウスはお人よしであるわけではなかった。

 当然来ていたが、反乱を起こす決意をしたからカトレウスに提出しなかった。それしか考えられなかった。実際そのカトレウスの考えは正しく、接収した上州の城からは王やオーギューガからの密書が次々と発見されていた。

 この二つの事柄が融合した結果、カトレウスはある疑いを抱いた。

 今も王からの密書は河東諸侯に続々と届いているのではないか、そして河東諸侯の中にも有斗を天与の人と認め、時が来たらカヒを裏切る計画を立てているものがいるのではないだろうか、と。

 となるとこの諸侯の反乱はこれからも続くことになる。

 もしそんなことになったら、とカトレウスは背筋を凍らせる。もはや王と戦うどころの話ではない。

 カトレウスが諸侯の鎮圧に河東を東奔西走とうほんせいそうしている隙に、王師は河東に兵を進め、オーギューガと合同してカトレウスの息の根を止めようとするであろう。

 カトレウスが有斗に敷いた包囲網に似たものを、今度は逆にカトレウスが味わうはめになるのだ。


 だがイスティエアの戦いで負けはしたものの、カヒは致命の一手を浴びせられたわけではない。

 ここが辛抱のしどころである。

 歯を食いしばって耐えれば、いつかまたこちらの手番が来ようというものだった。

 その為には災いの芽は早くに摘み取ることだ、そうカトレウスは考えた。

 そのカトレウスの目に大きな災厄の元になりうると映ったのがツアヴタット伯である。

 韮山での勝利の宴でも自身の功を誇り、恩賞がもらえぬことに不満を抱いていると聞こえてきたのも理由の一つであるが、最大の問題はこの半年、ツアヴタット伯が一度も王からの書状をカトレウスに渡していないことなのである。

 河東西部の各諸侯はほぼ最低一度は王から書状を貰い、カトレウスに提出している。

 確かに他にも提出していない諸侯はいないわけではない。だがその者たちに比べるとツアヴタット伯は大物なのである。ツアヴタット伯はカヒと並ぶ歴史を持つ、河東西部の要と言っていい諸侯なのだ。

 カトレウスが王の立場であれば怨恨は棚上げし、是が非でも橋頭堡にするべく味方にしようとするだろう。

 特に韮山での恩賞に不服があるという噂はきっと王都にも届いているはずだ。少なくとも接触くらいは計らなければおかしい。

 となると以前の・・・ツアヴタット伯家の郎党が殺され、懐中から王の書簡が出てきたという事件が別の意味を持ってきはしないだろうか?

 それはカヒとツアヴタット伯との間を裂く幼稚な姦計。そう、あまりにも見え透いた手ゆえ、簡単にそう判断してしまっていた。

 だが王が、いや王の周囲の者がそんな幼稚な姦計を計ると考えるのは間違った判断では無いだろうか?

 王が幼稚な姦計を用いる愚者と考えるのか、ツアヴタット伯が愚かにも争いに巻き込まれるような男に密使を任せてしまった粗忽そこつ者と考えるのか、どちらのほうが実際ありえる話であろう?

 確かに王は四師の乱という内乱を起こされた愚王である。だが乱を治め、関西を併合し、カトレウスの魔手を跳ね除けた男なのである。そう考えると、王はやはりなんといっても王に相応しいだけの活躍を見せた男なのである。

 むしろ王が幼稚であると決め付けるよりも、ツアヴタット伯の愚かさのほうを疑うべきではないだろうか・・・

 カトレウスはそういった疑心暗鬼の中に囚われてしまったのである。


 そう思わせたのはラヴィーニアの謀計である。

 ラヴィーニアの目的は天下を統一し、乱世を終わらせる覇者を誕生させること。

 そこが有斗をセルノアが望んだような天与の人にしようとしたアリアボネとは異なるところである。

 ラヴィーニアの見るところ、それには最大の障害があった。河東諸侯を従える、アメイジアのもう一人の王とでも言える存在、カトレウスである。

 同じように諸侯に信望を集めるテイレシア、宮中に未だ存在する東西の対立、後継者の不在など小さな問題は多々あれど、カトレウスさえ屈服させ、カヒを単なる河東の一諸侯にすることができたら、あとは諸侯に法令を敷いて政府の統制下に置き、力を削いで王朝に組み込んでしまえばいい。それで大きな乱の芽は無くなる。

 確かに有斗には空想にも似た理想主義、この世界の一般常識とは違う思考方法、威厳の無い姿など乱世を終わらせる覇王としては難が無いわけではない。だがそこはこの自分がいるんだ、何とかしてみせるさ、とラヴィーニアは楽観的だった。

 ともかくも問題はカヒということになる。

 カトレウスを討ち滅ぼすであれ、屈服させるであれ、落としどころはいくつかあるとはいえ、少なくとも万の兵を保持し七郷盆地を手中にしたまま残すわけにはいかない。

 そんな朝廷に匹敵する大諸侯を内部に残しておいたままでは、いずれ再び大乱が起きるのは火を見るより明らかであるのだから。

 だが今の状態でカヒに屈服しろ、領土を削ると言って素直に聞き入れるわけが無い。

 結局は武力で解決、と言うことになる。

 だが未だカヒは巨大諸侯だ。迂闊に河東に攻め込み、韮山の二の舞を演じることだけは避けねばならない。そうなれば全ては振り出しに戻ってしまう。なんのためのイスティエアの勝利か、ということになってしまう。

 カヒから少しでも諸侯を切り離し、兵力差を大きくつけてしまう。それが勝利への近道だとラヴィーニアは考えたのである。

 そんな時、工作を続けていた諸侯の中から、ようやく上州諸侯が内応をほのめかしてきた。

 今現在、王都から河東に攻め込むとなると大河を渡り、河東西部か芳野に上陸することになる。

 だが上州もオーギューガも近畿に接していない、遠いのである。彼らの味方したいという意思は王や朝廷にはたいそうありがたいものではあるが、王師の直接の手助けになるとは言いかねない。

 もちろんカトレウスが関西諸侯を使ったように、カトレウスに多方面作戦を強いたりだとか、カトレウスが上州を攻めている隙に王師を河東に侵攻させるくらいの役割は期待できる。

 だが独立心旺盛な上州諸侯を御するのはテイレシアでも難しい。そしてまだ王師を動かせる余裕はない。

 このままではきっとカトレウスに難なく踏み潰されることだろう。ならばどうせ自滅して滅びるのなら、この際せいぜい利用させてもらおう。そうラヴィーニアは思い立ったのだ。

 ラヴィーニアは思い切りよく、王都から上州諸侯への書状を絶った。そしてオーギューガに彼らの扱いを任せた。

 思った通りテイレシアは上州諸侯の制御に失敗し、上州諸侯は敗れることとなった。

 有斗は大事な手駒を一個失うこととなった。

 だがそれは、王が河東諸侯にばらまいている書簡によって上州諸侯が裏切ったとカトレウスに考えさせるための意味のある捨て駒だった。そうなれば・・・ラヴィーニアがここまで打ってきた布石が生きてくることになる。

 上州諸侯がそうであったように、最近王からの書簡を提出しなくなった諸侯は裏切る前兆ではないかとカトレウスはきっと不安になることだろう。それが例え、ラヴィーニアが故意に送らなかっただけだとしてもである。

 特にツアヴタット伯に大きな疑いが向くことになる、とラヴィーニアは思った。

 わざと最初に書簡を見つけさせ、その後は書簡は送らない。それがラヴィーニアがツアヴタット伯に取った策謀である。

 送られて無い書簡を提出するのは誰にも不可能なことである。

 だが他の諸侯からは王の書簡が提出されているのに何故、とカトレウスは徐々に不安になるに違いない。

 本当は数年かけてゆっくりとカトレウスの中に不審を抱かせるつもりだったのだが、上州諸侯の内応はそのラヴィーニアの策謀を後押ししてくれることになったのだ。

 カトレウスから王への内応を疑われたツアヴタット伯は怒るだろうな、とラヴィーニアは思った。

「なにせ身に覚えの無い罪をなすり付けられることほど腹の立つことは無いと言うからな」

 だが大いに怒るがいい、とラヴィーニアはほくそ笑む。怒れば怒るほど、ツアヴタット伯は無実ではないのだろうか、カヒに言われ無き罪を擦り付けられたのではないか、と他の諸侯に思わせることができるのだから。


 ラヴィーニアの想像通り、カトレウスはツアヴタット伯に詰問の使者を送る。身に覚えの無いツアヴタット伯は当然それを否定した。

 猜疑心に囚われたカトレウスはそれを嘘だと判断した。

 反対する家臣はいなかった。彼らが愚かなのではなく、この際、ツアヴタット伯を叩くことで反逆者の末路を示し、家中を締め直しておこうといった思惑が働いたのだ。

 さらに言えば、もともとツアヴタット伯は反抗的な臣下だったので味方する者も皆無だったのである。

 それに勝てばツアヴタットの地はカヒ家の物である。当然家臣たちにも上州の時のようにおこぼれがあろうというものだ。家産が増えるのを遠慮する、慎ましい性格の家臣は主に似たのかカヒ家には皆無だった。

 軍団は怒涛のようにツアヴタット境界に押し寄せる。

 もちろん黙って座して死を待つだけのツアヴタット伯ではない。

 一昔前はカヒ家と五分に渡り合った誇りある歴史がそれを許さなかった。

 兵を招集し城に籠もって抗戦する。

 篭城すること半月、多くの兵と共にツアヴタット伯はついに剣折れ矢尽き果てた。

 僅かな生き残りが散り散りになって逃亡したとだけ畿内には伝わってきた。

 それでも絶望的な状況の中、家中に一人の裏切り者も出さず滅んだのは、さすがに腐っても河東の名家というものであろう。

 ラヴィーニアはそれを聞いても僅かに目を細めて笑っただけだった。

 ツアヴタット伯家はカヒ家に負けず劣らず旧い歴史を持つ名家である。

 イスパルタ伯もディナル伯もブルガス伯もノビバザール伯も、言ってしまえば河東西部の周辺諸侯のほとんどは、ツアヴタット伯家を遠祖に持つ家なのである。

 小心で姑息、卑劣で愚か。そのくせ矜持プライドだけは人一倍高い、ツアヴタット伯の当主は気に入らない男ではあったが、自身の家を誇る心があるがゆえ、自身の祖先に連なるツアヴタット伯家の滅亡を特別な思いで見ていたのである。

 ツアヴタット伯家を襲った悲劇に対して彼らの心に微妙な陰影を落としていた。


 次は我が家であるかもしれない、と。


 これで裏切り者を排除できたとカトレウスが安心することは無い。

 何故ならラヴィーニアは各種パターンを取り揃えて書簡を送っていたのである。

 書簡も紙から竹簡まで。綺麗な書簡だけでなくわざと修正を残した書簡に、修正を加えた後が見える書簡。分かりやすく内応の暁の報酬を明示した書簡から、何度読んでも内容があやふやで中身がよく分からない文面。わざと癖のある官吏に書かせた書簡、最後の署名を除いて綺麗に中書省で公文書並みのクオリティで作成された書簡、と思えば、一人だけには明らかに別人と分かる手で書かれた書簡を送る。書簡の頻度も毎回送る諸侯、二回飛ばしに送る諸侯、わざとしばらく送らない諸侯・・・それこそ数え切れないパターンで構成されていた。

 何故この諸侯は最近書簡を提出しないのだ? この明らかに修正された竹簡の意味するところは何だ? この一見、意味の無い文面に見える書簡は暗号で本来の意味を隠蔽いんぺいしているのではないだろうか? 何故この諸侯の書簡だけ他の諸侯と違う筆跡で書かれているのだ? 久々に書簡を送ってきたこの諸侯はツアヴタット伯の末路を知って恐れて送ってきただけではないか?

 きっとカトレウスはどれもこれも妖しく思えるに違いない。

 これは諸侯を味方につけるための書簡ではなかった。

 もちろん書簡を送って諸侯が味方になればなおもよし、だがこれはカトレウスの旺盛な猜疑心を刺激するためだけに考えられた知的ゲームなのである。

 そのゲームにラヴィーニアはとうとう勝った、致命の一手を打てた、と思っていた。

 無実の一諸侯を敗死させることができたのだから。カトレウスに深い猜疑を植えつけることに成功したのだから。

「そして・・・猜疑心は徐々に心をむしばんでいく・・・」

 負の感情は連鎖を起こし大きくなっていくものである。

 カトレウスがツアヴタット伯に抱いた猜疑はやがて他の諸侯にも向けられることであろう。

 そして河東の他の諸侯もカトレウスに対して恐れや不安を抱くことになるはずだ。

 そこに付け入る隙が生まれる。

 必ずこのあたしがその間隙に割り入って、ぐちゃぐちゃにかき回してやる、そうラヴィーニアは目論んでいた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る