第246話 青い髪の少女(上)

 興奮した有斗の、王にあるまじき振る舞いに、その場にいるもの全てがあっけに取られた。

 女官たちも、羽林たちも、中書令も、殿試で一甲及第した三魁たちも、皆どうすればいいのか分からずに、うろたえるばかりだった。

 場がざわざわとざわめき、落ち着かない。

「セルノア、やっぱり生きていたんだね! でも、それならどうして今まで戻ってきてくれなかったのさ!」

 有斗は廊下の欄干を飛び越えると、地面に両手をついて平伏する三人のそばに近寄った。そして両手をとってルツィアナを立ち上がらせようとする。

「せめて無事なら無事と一言くらいは言ってくれないと・・・どれだけ僕が心配したか・・・! いや、君を責めているんじゃない。そんなことはどうでもいいんだ。君が生きていると分かっただけでそう・・・十分、十分だよ!」

 有斗は今にも抱きしめんばかりの勢いでルツィアナの手を握りしめた。それくらい興奮していた。

 だから喜びの余り、興奮し取り乱している有斗にいったいどういった態度を取ればいいのか、目の前の女性が大いに困惑していることも、微妙に引いていることも気が付かなかった。

「陛下、陛下、落ち着いてください!」

 アリスディアが有斗を追って、階段を緩やかにかけ下り、内裏の庭に下り、興奮する有斗とルツィアナの間に割って入る。

「でもセルノアが、・・・あのセルノアが生きていたんだよ!」

 これのどこが落ち着いていられるというんだろう? むしろ有斗はアリスディアが落ち着き払っていることのほうが不思議であった。

「セルノアではありません。彼女は今回の科挙で探花となったルツィアナです」

「へ? 何を訳の分からないことを言ってるんだ? アリスディア」

 どこからどう見てもセルノアじゃないか・・・?

 なんだ? みんなで僕を担いで騙して反応を楽しむとかそういった類のやつ?

「こちらの方は今回の科挙で探花を取りましたルツィアナ殿です。お間違いなきよう」

 アリスディアはそう頭を下げながら言うと、有斗に近づくと耳元で小さくささやいた。

「陛下、大勢の者の目の前です。とりあえず話をあわせてください」

「あ・・・」

 有斗はようやく皆の戸惑った視線が自分に集中して向けられていることに気が付いた。

 そうだった。今の自分は王なのだ。自身の感情や思い付きだけで行動することが許される存在ではないということを辛うじて思い出した。

 ここは公然の場だ。ここで僕が取った行動は全て噂となってアメイジアを駆け巡ることになる。噂が尾ひれをつけて一人歩きをしてしまえば、これからの有斗の治世にも関わってくる。

 ここは我慢だ、と全ての感情を押し殺す。

「ご・・・ごめん。その・・・知っている人によく似ていたものだから」

「へ、陛下に勘違いされるなんて光栄なことでございます」

 何が光栄なのかはまったく理解ができないが、とにかくその場はセルノア・・・違った、ルツィアナがそう言ってなんとかその場を取りつくろってくれた。

「この者は関東と関西の長きに渡る分断で流通が途絶えたことが、産業が衰退した大きな原因である。であるから民間が力をつけるまでは、大河を用いる大規模な流通網をおおやけが整備し運用することで、かつてのような繁栄をアメイジアが取り戻すきっかけを作るべきだと論じました。その為にも河東西側と芳野の確保が何よりも必要だと申しております」

 尚書令はルツィアナの殿試で披露したその考えについて説明をしていたようだが、有斗はその言葉が何一つ頭の中に入ってはいなかった。

 正確には左の耳から入った言葉は次の瞬間右の耳から出て行っていた。まさに柳に風、馬耳東風である。有斗の脳細胞は全て目の前でじっと顔を伏せたままのルツィアナを見ることだけに使われていた。


 ・・・

 セルノア・・・だよね・・・?

 何故、名前が違うの?

 何故、今まで戻ってこなかったの?

 何故、ここに戻ってくるのに科挙なんてまどろっこしい手段を選んだのか?

 何故、何故、何故、疑問ばかりが心の中を渦巻いていた。


 有斗は執務室に戻り、大勢の人の目を気にする必要がなくなるとアリスディアにさっそく命じる。

「アリスディア、さっきのセルノア・・・いや、ルツィアナさんだったっけ、彼女と話ができるように取り計らってくれ」

「でも・・・」

 権限内であるならば、どのような難事であろうと有斗の意向に沿うように計らうアリスディアが、珍しく有斗の言に抗する気配を見せた。

「頼む。この通りだ。このままだと僕はセルノアが気になって、何も手がつかない」

 拝むようにして頭を下げると、アリスディアは慌てて有斗の頭より自身の頭が上にならないようにひざまずいて、有斗にそのような真似をしないように請願した。

「そのようなことをなさってはなりません!」

「彼女に会えるまで僕は何回でも頭を下げるよ。この通りだ」

 アリスディアはこのままでは本当に有斗が前に進めないと悟ったのか、しぶしぶ有斗の願いを聞き入れる。

「・・・わかりました」

 だが当然のように条件を付け足し、有斗に釘を刺す。

「ただ、よく似ておりますが、あれはセルノアではありません。そのことを十分理解したうえでお会いになされるのですね?」

 アリスディアはあくまでルツィアナという他人であって、セルノアだと認めないというのか? 有斗は何故アリスディアほどの人がそんなにかたくなに真実を見ようとしないのか不思議だった。

 だいいち似ているなんてものじゃない。あれは・・・あれは・・・! あれはセルノアそのものだった!

「何故、彼女がセルノアじゃないって・・・そんなことが分かるんだよ!」

 先程から頭に血が上ったままの有斗に比べて、アリスディアは冷静だった。

「陛下、彼女がセルノアだとしたら、何故今まで名乗り出なかったのです? おかしいではありませんか」

「それは・・・その・・・そう、事情が・・・事情があったんだよ!」

 そう、何か複雑な事情があるのかもしれない。例えば実は記憶喪失だとか、僕を驚かそうとしているだとか・・・!

 だがそんな有斗の願望に限りなく近い仮定をアリスディアは否定する。

「陛下はお忘れです。科挙に受かるのがどんなに難しいか、さらに科挙で探花になるということがどんなに困難なことであるのかということをです。セルノアは確かに飲み込みの早い賢い子でした。ですが二年やそこらで科挙合格し、探花になるなどアリアボネだって不可能です。アリアボネですら幼いころからの長年の蓄積があって科挙に受かったのですよ」

 そう、セルノアは頭の回転の速い子だった。だが科挙受験に必要な知識や見識といったものを持っている子ではなかった。

 それが二年間で全土から集まった科挙受験者の中で全体三位である探花になるなど、どう考えても無理だ。

 ということは答えは只一つ、彼女はセルノアでは無いということだった。

「・・・彼女がセルノアであるか否かは本人に確かめるしかない。僕たちがここで争っていても意味が無いとは思わないか?」

「・・・わかりました」

 あくまで彼女がセルノアであるという自説を引っ込めようとしない有斗にアリスディアは諦めの心境でしぶしぶ折れた。


 健脚自慢の羽林をひとっ走りさせ、大内裏から退出しようとする尚書令たちを発見し、ルツィアナを再び内裏に戻させる。

「ルツィアナ殿が参上いたしました。いかがいたしましょうか?」

 扉の外で警護についている羽林から執務室内にそう声がかかる。

「入ってもらって」

 と有斗が言うと、扉の横近くで座っていたグラウケネが扉の向こうに聞こえる大きな声で高らかに告げる。

「ルツィアナ殿に謁見を許可する!」

 羽林が押して重い扉を開くと、非礼に当たらぬように頭を少し前に傾けながらルツィアナは有斗の執務室に入り、入り口傍でうずくまって、深く深く平伏する。

「ルツィアナ、お召しにより只今参上いたしました!」

 残念なことに伏せた顔は見えない。だがその居住いもやはりセルノアに似ている。

「その・・・さっきはごめん。あまりのことにちょっと取り乱しちゃったんだ。その・・・セルノアって人に君が似ていたものだから・・・つい・・・それでだ・・・その、君と話したいことが少しあるんだけど、いいかな?」

 セルノアの名前を言った時、ルツィアナがぴくりと小さく反応したことを有斗は見逃さなかった。

 やはり・・・セルノア?

 だが何故かいつまで待っても返事をしようとしない。余所余所しい有斗の態度に落胆したのだろうかと不安になる。気を揉む有斗だったが、実際は感情を害したとかそういったことではなかったようだ。

「その・・・直答してもよろしいのでしょうか・・・?」

 有斗の傍の女官などから間接的に声がかからないことに不安になり、ルツィアナは恐る恐る顔を上げて有斗に訊ねた。

「本来ならば、まだ官吏ですらない君には当然そんなことは許されない。それどころか後宮に入る権限も、僕と会話するのも本当は駄目らしいね。だから今日のこの会見は非公式のものになる。ここであったことは全て公式記録から抹消される。だから直答してもいいよ」

 というのは建前。間に人を挟んで会話するなんてややこしくて面倒くさいといった理由が本音だった。

「有難き幸せ! 何なりとご下問ください! 私めに答えられることでしたら、誠心誠意お答えいたします!」

 そのはきはきとした喋り方・・・そうだ、そうだよ! ・・・セルノアはいつも元気印のだった。いつも上がり気味の語尾だった。変わらない・・・あの頃も、そして今も・・・!

 有斗はぐっと泣きそうな気持ちを堪える。

「それはありがたい。で・・・聞きたいことなんだけれども、君はセルノアという名前に覚えは無いかな?」

 有斗はそう言ってルツィアナの反応をうかがう。劇的な反応は無かった。だが再び僅かに反応したことも有斗は感じ取っていた。

 例えば記憶を失っていたとしても脳の片隅にはその名が残っており、有斗の声と共に名前が呼ばれることで反応したのではないか?

 確かに話を聞く限り、科挙とは想像を絶する難しさかもしれない。だが一年間で偏差値を大きく上げた浪人生の話とか聞いたことが無いわけではない。ならば科挙に合格するのも不可能ではないかもしれない。

 セルノアがルツィアナという名前で今頃になって目の前に現れたのには、そういった理由があったからではないだろうか。

 小さく考え込むルツィアナを、じっと有斗は見つめていた。焦れる思いで返答を待っていた。

「陛下、ひょっとしてセルノアとは先の典侍ないしのすけ、セルノア・アヴィスのことでありましょうか?」

 ルツィアナは答えを待つ有斗に向けてそう言った。

 アヴィスという下の名前を言う前にである。

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