第233話 行幸(下)

 有斗は着るものを邪魔とばかりに急いで脱ぎ捨てると、走るように風呂へと駆け込んだ。

 湯気が体を包む感覚が実に懐かしい。久しぶりのお風呂だ。

 立派な風呂だった。温泉地のホテルにある大浴場ほどではないが、日本の一般家庭にあるものよりは格段に大きい。奥行き三メートル横幅八メートルといったところだ。泳げそうなくらい大きい。ぴかぴかの綺麗な石で形作られた浴槽は現代日本に持っていっても遜色そんしょくない立派なものだった。

 壊れる前の後宮の風呂よりも広いぞ。わけのわからない古書の自慢よりも、むしろこっちの浴場を自慢したほうがいいんじゃないかな、と有斗は思った。

 貴重な本の収集といい、この大浴場といい、自分がこだわっていることにだけは金を惜しまないタイプと見た。

 実にラヴィーニアらしい。

 石鹸を泡立てて体をこする。ざばっとお湯を被り、泡を勢いよく流すと湯船に飛び込んだ。お湯は少しばかり熱かったが、その熱さがむしろ心地よい。至福の瞬間だった。

「後宮の風呂と違って、何よりいいのは一人っきりで風呂に入れるってことだよなぁ」

 有斗は浴室の高い天井を見上げて一人呟いた。

「そんなに一人がいいですか?」

「だって一人でできるって言ってるのに手伝おうとするし、それをなんとか王命でやめさせても、『何が起こるかわかりませんから、ここで見張っておきます。これも重要な内侍司ないしのつかさのお役目です』とか言って監視してるんだぜ? 恥ずかしくってお風呂でくつろぐ気分じゃないよ」

「陛下はこの国の王だから、堂々としていればいいのです。小さくても誰も馬鹿にしたりはしませんよ。陰で笑われるかもしれませんが」

「・・・陰で笑われるのが嫌だから言っているんだよ! それに小さいとか小さくないとかそれ以前の問題として───」

 ・・・ん? さっきから僕は誰と話してるんだ?

 不思議に思って有斗が後ろを振り返ると、そこにはラヴィーニアがつんとました顔をして立っていた。

 しかも水にぬれてもいいようにか、素肌に薄い白い布でできた着物一枚羽織っているだけのあられもない・・・わけではないが、あまり直視したら駄目な格好だ。体のラインが透けて見えるし。

 ・・・といっても興奮していいやら悪いやら微妙な問題だったが。

 興奮したら確実に犯罪者間違いなしの身体だしなぁ・・・でもラヴィーニアも大人の女性なのだから、まったく興奮しないとかっていうのも、それはそれで失礼な気もするし・・・

「何、微妙な表情を浮かべてるんですか、陛下」

 有斗は慌てて布切れで前を隠して、ラヴィーニアから視線をらす。

「・・・なんでもない! それよりなんでラヴィーニアがここにいるのさ!」

 アメイジアって普通に混浴だったっけ!?

 ・・・もし、そうなら帰り次第、風呂の再建を決定するぞ。なんといっても後宮は美女ぞろいだからな! 美人の裸を毎日見放題だ!

 ・・・いや、そういう問題じゃない!

 今問題なのは、なんでラヴィーニアが男が入っている浴場にこんな姿でいるのか、ということだ!

「・・・お背中をお流ししようと思っただけですが」

 けろりとした表情でラヴィーニアが言った。

「だからってラヴィーニアがやらなくってもいいじゃないか!」

「こういうのは若い女がやるものです。あたしの屋敷には若い女といえばあたししかおりません。しかたないではありませんか。ですから前もって知らせて欲しいと先程言ったのです。そしたら花街から王都一の名妓と名高いマエサをも招いたものを」

 なんですと!? 王都一の美人ですと!?

「しまった・・・ちゃんと話しておけばよかった! で、その娘はセルウィリアと同じくらい可愛いの? それとももっと可愛いとか!?」

 見かけは絶世の美女の関西の王女様だが、微妙に残念な性格で付き合うとなると色々と厄介そうなのだ。それに王女の身柄は多分に政治的な思惑も絡んでしまうので、有斗がちょっとした出来心で手を出すわけにはいかない。

 でも王都一の名妓とかなら手を出しちゃっても問題ないよね! もちろん紳士なので向こうの意思は確認してからいたしますから!

 でも王様の頼みを断るなんて、普通ではありえない選択肢だということを考えると、実に楽しみな未来が待ち受けていそうな気がする! 興奮してきた!

「・・・今日のことを明日、執務室でお話してよろしいですか? セルウィリア様もご自身が花街の女と比較されたと聞いたら、涙を流さんばかりにお喜びするでしょうし、アエネアスも今日の陛下の話に大層な興味を抱くと思われますしね」

「ゴメン・・・勘弁して」

 そんなことをされては、とんでもない人間喜劇が有斗の目の前で演じられそうだ。場合によっては命の危険すら感じる事態になりかねない。

 そんな地獄絵図だけは是非ともごめんこうむりたい。

「と、とにかく背中を流さなくてもいいよ。自分で洗ったからさ」

「はい。それでは先に上がらせていただいて、食事の準備をしてまいります。どうぞごゆっくりおくつろぎください」

 と頭を深々と下げて浴室を下がろうとする。そのラヴィーニアの後姿を有斗は何気なく見た。見てしまった。

 いや! 僕の名誉のために言っておくぞ! やましい理由で見たんじゃないよ?

 後ろからなら一切気付かれずに、肌も透けて見える薄着のラヴィーニアを思う存分見れるとかいう理由じゃないぞ?

 ただ、なんとな~く・・・そう、なんとなくなんだ!

 普段の監視生活で完全に性欲を押さえ込まれているからって、そこまで飢えてはいない・・・! ・・・たぶん。

 そりゃあ、まるっきり完全に一片たりとも興味が無かったかと言われたら、ちょっとはあったかもしれないけれど・・・いやいや、ありません! ぜんっぜんありません!

 ・・・それはともかくだ、ひとつのことに気が付いた。僅かに右足を引き摺って歩いている。

 悪いとは思いつつも足元から何故か目線は本人の意識とは無関係に上がってしまう。そして目を見開いた。

「その傷・・・! どうしたの!?」

 声をかけられてラヴィーニアはゆっくりと振り向いた。

「傷・・・?」

 ラヴィーニアが小さな首を少しだけ傾げる。

 有斗が指差した先、ひきつった刀瘡が裾の下から覗いており、太ももからひざの関節の下辺りまで足の側面に大きく走っていた。

「ああ、見えておりましたか申し訳ありません」

 と、背中を流そうとでも思って持ってきたのであろう絹布で傷口を隠す。

「大丈夫!? 足引きっているけど・・・」

 と有斗が言うと、ラヴィーニアはいきなり着物をはだけると自身の右半身を露出させる。すらりとしたまだ未成熟な少女の身体が現れた。

 有斗は思わず赤面して、目を逸らそうとした。

 だが右半身に走る大きな醜い傷跡。その違和感が有斗の意識を捉えてしまい、視線を逸らすことができなかった。

 うろたえる有斗とは裏腹に、ラヴイーニアは気にすることではないと冷静に言い切った。。

「昔の傷です。季節の変わり目にたまに痛むことはありますが、このように、もうすっかり治っております。それをわざわざお気遣いいただきまして有難うございます」

 ラヴィーニアはそう言って頭を下げる。だがその語句の強さの裏には、言外にこれ以上このことに触れるなとでもいったような圧迫があるように、有斗には感じられた。


 おかげで風呂から上がって食事時になっても、気まずい状態のままだった。

 ありきたりの、定例文のような言葉を二言三言話しただけでお互いに無口なまま食事をする。二人とも黙々と目の前のお皿を空にするだけ。

 久しぶりのあったかい食事、それも肉料理だ。料理は不味くない、いや美味しい。舌に広がる味は素晴らしいの一言だけだ。

 だけれどもこの雰囲気のせいで、ほとんど全ての神経がラヴィーニアのほうを向いている、味覚にまわす余裕が無い。飯の味がしないって言うのはこういう状況を言うんだろうな・・・

 とうとうラヴィーニアが諦めたかのように溜息をついて口を開いた。

「・・・何かおっしゃりたいことがお有りなら言ってしまってください。せっかく陛下に来ていただいたのに、満足なもてなしができず、陛下に嫌な思いをさせたなどと陰口を言われたら、臣下として恥ずかしいですからね」

「本当にいいの?」

「もちろん」

 明確ないらえに有斗はおずおずと気にかかっていた先程の傷について訊ねてみる。

「・・・さっきのあの傷どうしたの?」

 やっぱりそれか、とラヴィーニアはまた溜息を洩らした。それはラヴィーニアにとって他の誰にも、それが例え王であっても、入って来て欲しくない胸奥の扉の中に仕舞い込んだ話題だった。

 だが今度は先程と違って口をつぐんだりはしなかった。ゆっくりと話し始める。

「あたしが十歳の頃です。ある晩、家に盗賊どもが押し入りました。財物を奪うのに飽き足らず、父と母は滅多切りにて惨殺され、逃げようとしたあたしも大刀で切り付けられ、失神し倒れこみました。幸いなことにそれであたしを殺したと思った盗賊どもは館に火をつけ逃走しました。なんとか命だけは助かりましたが、あたしは歩けるようになるのすら何ヶ月もかかりましたよ。この傷は・・・その時の傷です」

 ちょっと気になってはいたんだ・・・以前から。この世界ではある一定時期を過ぎると老化が止まる。精神の成長に合わせて外観の変貌しなくなるといった話だった。だが有斗の周りを見るに、少なくとも成長が止まるのは多いのは三十から四十代、若くても二十代後半といったところだ。ラヴィーニアのように子供のままでいる者など他に見たことが無い。

「・・・ひょっとして、ラヴィーニア、それで成長が止まったとか?」

 無神経な有斗の問いに、ラヴィーニアは少しだけ気分を害した様子を見せ、一瞬口篭った。

「・・・ええ」

「それだけショックだったということか・・・」

「ええ、それはそうでしょう。あたしはわずか十歳の小娘でした。それが両親を無くして天涯孤独、身体には一生消えない醜い傷、しかも下手人は見つからず迷宮入り、それ以上に価値観が変わるような大事、この世界にあるわけが無い」

 ラヴィーニアはその時に精神の成長を止めてしまったんだな・・・だが、無理も無い。確かにそんな事件が起きてしまったら、十歳の子供には辛すぎる、重すぎることだろう。

「ごめん・・・悪いこと聞いちゃったね。」

「いいえ・・・こんな話、戦国の世には腐るほどあります。気にしないでください。両親を殺された子供も、大怪我を負う子供も、それこそ山ほどね。生きているだけでも感謝しないといけません」

 そうは言ってもラヴィーニアはその時で成長が止まった、ということは精神が変貌しなくなったということだ。今のラヴィーニアは賢く悟りきったかのように物事を見ている。わずか十歳の時に今と同じ考えに達していたということか・・・?

 青春時代は人生の一番輝いている季節・・・感受性の高い精神は世の中の全てを眩しく受け止める。だのに、ラヴィーニアの心になんら影響を与えなかったのだ。

 それほど悲しみや憎しみや遣る瀬無さといった混沌とした感情が大きかったということなのだろう。

「それに・・・それに生きていれば願いを叶えることができるかもしれませんから」

「願い・・・? ラヴィーニアの願いって何?」

 ラヴィーニアはうつむいていた顔を上げると、有斗と真っ直ぐ視線を合わせ語りだした。

「あたしは乱世が嫌いです。あたしの人生を滅茶苦茶にしたこの狂った世界が嫌いです・・・だから、あたしの願いはこの乱世を終らせる英傑を誕生させること。その王佐の臣として史書に名を高らしめんこと」

それは有斗のことを言ってるのであろうか? それともまだ見ぬ英雄のことだろうか?

「・・・・・・」

 有斗は知りたいと思ったが、同時に答えを聞くことが少し恐ろしくて聞けなかった。

「いや、違う・・・史書に名が残らなくてもいい」

 そう、歴史に名を残すことよりも重大なことがラヴィーニアにはあるのだ。

「いいえ、例え史書に奸臣という悪名をのこしたとしても、この乱世を終らし、あたしのような人がもう生まれないのなら。無慈悲な悪意が人を押しつぶすことのない世界が誕生するなら。たぶんあたしでも生まれて来てよかったと思える、そんな日が来るのなら───」

 それはうずく傷口にうめきながら立てた冬の日の誓い。

「それだけであたしは満たされます」

 もし、神様とやらがいて、どんな人にも同じだけの愛情を注ぐというのなら、狂ってしまったラヴィーニアの人生もいつか必ず埋め合わされるはずだ。きっとラヴィーニアに何かやらせるために、あの時に命を奪わずに生かしておいたに違いないのだ。そう、ラヴィーニアは思う。

「そのためには他人にどんなに嫌われても、どんなに憎まれてもいい。あたしはきっとやりとげてみせる。他人を傷つけても、他人を利用してもです」

 そう、ラヴィーニアが望んでいることはとんでもなく大それたこと、今まで誰も為し得なかった戦国の覇者を誕生させることだ。ならば手段を選んでなどいられないはずなのだ。

「いまだ生まれ来ぬ命に平安な世を与えてやること。それがあたしのただ一つの願いです」

 そう言って恥ずかしそうに小さく笑ったラヴィーニアの表情は輝いていた。

 その時、有斗は初めてラヴィーニアのことが少しだけ理解できた気がした。

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