第234話 地固め

 中書侍郎マザイオスはその日、王の執務室にいた。

 ダルタロスの元重臣であり、今は中書侍郎という朝廷の高位高官であるマザイオスが王の執務室にいること自体は何もおかしなことではない。

 だが尚書の人間が内心忸怩じくじたる思いを抱いていることでもあるのだが、朝廷と王との伝奏は四師の乱で朝廷と有斗の間に間隙ができたこともあって、慣例としてその多くを中書令と尚侍ないしのかみとで司っていた。

 よってマザイオスは中書にて実務に携わっている時間が多く、王の部屋に参ることなど稀であった。それもほとんどが王の裁断を必要とする重要な案件についてマザイオスが訊ねに行くのであり、王のお召でとならば極めて珍しいことと言えた。

 自ら呼び出したにも関わらず、有斗はマザイオスにすぐに話しかけようとはせずに、しばらく何事かを考え込むように手を組んで親指をせわしなく動かすだけだった。

 マザイオスも忙しい身ではあるが、相手が王であるからには急いでくれと文句を言うわけにはいかない。ひたすら有斗が沈黙を破るのを待った。

「マザイオスに頼みがあるんだ」

「私めでできることならば、なんなりとおっしゃってください」

「中書侍郎という大任を離れるのは嫌かもしれないけれども、マザイオスには官を辞めてダルタロスの家宰になって欲しい」

「陛下の御下命とあれば従いますが、私がお役に立てますでしょうか。今のダルタロスでは私を家宰として認めてくれはしないでしょう」

 奇妙に感じるかもしれないが、有斗は王であるがダルタロスの家宰に誰を任じる権限を持っているわけではないのだ。それはあくまでもダルタロスのうちうちのことであり、ダルタロス公だけがそれを任じる権限を持っているのである。

 それが封建制というものだ。

 だが王である有斗にはダルタロス公位をはく奪する正当な権限がある。その力を背景に圧力をかければ今回、カヒについたという引け目があるダルタロスとしてはマザイオスを家宰に迎え入れるしかないとも言える。

 だが家宰として形だけしぶしぶと迎え入れられたはいいものの、実権は別の者が握ったままで、マザイオスはお飾りの存在に棚上げされるといったことも十分に考えられる。

 マザイオスはそのことを懸念した。そうであれば官を辞めて良いことは何一つない。

「もし必要ならば、第一軍や羽林の兵の中からこれはと思う者たちを連れて帰ってもいいし、反対する者に対しては僕の名前を使ってもいい。ダルタロス家内でマザイオスが多少ごたごたを起こしても朝廷は問題にはしない。僕が許す」

 有斗が常にない強い物言いをしたことで、マザイオスは朝廷のダルタロスに対する断固とした態度を感じざるを得なかった。

 それはダルタロスという野心と欲望渦巻く中の見えない壺に、王が強い決意をもって手を入れるということだ。

 当然、ダルタロスという権力を手に入れたと思いあがっている連中はいい気はすまい。

 マザイオス一身の身の上だけでなく、王や朝廷にとっても危険である。

「それは朝廷の諸侯への内政干渉に当たります。ダルタロスを朝廷から離す結果になるやもしれません。さらには陛下のお立場をお悪くなさることになるかもしれません」

 それに王は諸侯に土地と共に権を分け与えるのである。もちろん諸侯の権を取り上げるという伝家の宝刀を最終的に王は抜くことはできるが、いわれなく人事や政治に口出しすべきではないという常識がこの世界にあるということを、政治をする上では忘れてはならない。

 他の諸侯の反発を買うかもしれない。

「だけど放っておけない。今、ダルタロスの実権を握っている人々はアエティウスがいた頃に冷遇されていたことを根に持っているのか、感情的に行動しすぎる。今回のことだって、こんなに大事にせずに、カヒに対して形だけの派兵であったら、僕も簡単に不問にすることができた。もしもう一度、ダルタロスが朝廷を裏切ってカヒに付くようなことがあれば、アエネアスやプロイティデス、ベルビオらが何と言って来たとしても、僕としてもかばいようがない」

 マザイオスはようやく有斗の意図を悟った。王の申し出はダルタロスの今回の行動を咎めようとするものではなく、根源にはダルタロスを守るという目的があるものだと気づいたのだ。

「・・・・・・!」

「そうなれば僕としてもアエティウスに合わせる顔がない」

 王が恩を忘れずにダルタロスを救おうと行動しているというのならば、マザイオスには拒否する理由などあろうはずがない。

「陛下がそうお考えとあるならば、命に代えましてもダルタロス家中のごたごたを押し鎮めてまいります」

 有斗はマザイオスの返答に満足し、無言で頷いた。


 イスティエアの大敗はカトレウスの畿内侵攻を一頓挫とんざさせるだけに留まらず、河東の勢力バランスを大きく変動させることになった。

 越と坂東の境界に位置する諸侯は長い間、ある時はカヒにつき、またある時はオーギューガに付くという背反常ならぬ動きをすることで、この戦国乱世をしぶとく生き伸びてきた。

 彼らは良く言えば機を見るに敏、悪く言えば狡猾こうかつだ。

 そして土地柄からででもあろうか、彼らは揃いも揃っていやに誇りだけは高く、例えカヒのカトレウスといえども顎でこき使われることには我慢がならなかった。

 もちろん皆、小身の諸侯である。カヒの勢力が大であることを考えると黙り込むしかなかったが、不満だけは古代の地層のように厚く幾重にも鬱積うっせきしていたのだ。

 だからカヒについて遠征に行った兵士からカヒの無様な大敗ぶりを聞くと、いてもたってもいられなくなった。

 とはいえ王に意思を伝える伝手つても無ければ、王都は遠く、例え王と結託して兵を挙げても、肝心の王師が助けに来てくれる前に滅びるのが関の山だ。

 というわけで彼らは一斉に右にならえとばかりに同じ方角を向くことになったのである。

 すなわち北へ、オーギューガの方向へと。

「イシャルニツァ伯からも足でも舐めださんばかりの下手に出た書状が届きましたぞ」

 オーギューガの居館、鉢ヶ峰館では普段は各地に散っている配下の諸将が集まってきていた。

 カヒの大敗を聞いて、テイレシアあるいは王の出兵要請があるのではと血の気の多い将軍たちが急ぎ馳せ参じたのだ。

「このままだと上州の諸侯は軒並みカヒを見限りそうな勢いですな」

 一斉に笑い声が上がる。長年、カヒ相手に死闘を繰り広げてきた彼らだ。カヒの不幸はまさに蜜の味であった。

「仕方があるまい。このままではもし王がカヒを制圧した後、彼らも運命を共にすることになる。早いところ泥舟から逃げ出したいのであろうよ」

「だがやつらほど信用ならぬ者はおらぬ」

「ああ、まったくだ」

「今までにあやつらは何度我らを裏切った?」

「ええと・・・先代様の時に一回裏切っており、北方衆の乱の時にカヒにつき、坂東遠征の時の撤退時に寝返り返して、カヒの芳野併合の時にまた裏切ってますから・・・都合四度かと」

 古株の初老の将軍が記憶の片隅を探りつつ、指折り数え上げた。

「いや、二回行った坂東遠征の時、両度裏切っていますから都合五度ですな」

 忘却の彼方へと追いやって脳裏から消え去っていた裏切りをまだ若い将軍に指摘されると、これはうっかりしていたと初老の将軍が高笑いをする。

「ああ、そうだったすっかり忘れておったわ。わはははは」

「五回か・・・恥知らずにもほどがありますな」

「さようさよう」

「とはいえ、これはカヒを滅ぼす好機といえよう」

 オーギューガは野戦でならカヒ全軍とであっても五分に渡り合うだけの猛者もさぞろいだが、いかんせん数が少ない。カヒの堅城を抜き、七郷盆地へ攻め込むには兵力が圧倒的に足らないのである。

 だが王師が河東へ攻め入れば話は別だ。王師と共に坂東へ攻め込めば、宿敵であるカヒ滅亡も現実味を帯びてくる。

 それにまだ王師を動かす余裕が無いのなら、王がオーギューガに肩入れすると表明してくれるだけでもかまわないと彼らは考えていた。

 王が味方すると言いさえすれば、裏切る河東諸侯は多いはずだ。

 そうすれば兵力不足は解消される。上州勢を始めとする混成軍を編成して、一路七郷目指して図南の鵬翼ほうよくを広げ旅立つのだ。

 敬愛する軍神テイレシアと死をも恐れぬ彼らがいれば、それは不可能なことではないと彼らは考えていた。

「どうした。珍しい顔まで集まっているではないか。ん?」

「テイレシア様・・・!」

 館の表の騒がしさが伝わったのか、裏の居住空間からテイレシアが顔を出した。

 テイレシアが表に出てくることは珍しい。オーギューガ家はもともと越という部族連合体の長の家系ではあるが、単なる象徴的な存在でしかなかった。だが戦場での彼女の手腕は越どころか、今やアメイジア全域で知らぬものはいない。彼女をアメイジアの人々は信仰するかのごとく見上げる。味方は勇気と共に、敵は恐怖と共に。

 神に近い信仰を越の諸侯から集めているにも関わらず、戦以外のことは今でも彼女は大きく口を出さない。もし口を出しても逆らう家臣など誰もいないと思われるのだが、彼女はあえてそうする。

 それが越の豪族から絶対の忠誠を捧げられる要因ともなっていたが、越の統一的な発展を阻害し、オーギューガがカヒのように巨大諸侯に発展しなかった原因ともなっていた。

 というわけで普段は家臣とてめったに口を利くこともない。もっとも、それが彼女の神秘性をいや増して、ますます軍神として崇められることになるのだが。

 テイレシアは化粧もしなければ、平服も男物。その姿には女としての匂うような色気は無いが、楚々そそにしてりんとし、森然とした姿である。

 戦場で野獣のように首を狩り、敵だけでなく配下の兵からも恐れられるオーギューガの宿老たる彼らですら、何一つやましいことが無いにもかかわらず、テイレシアには気圧けおされる。

「・・・」

 一人ずつ目を合わせていくも、直立不動のまま押し黙るだけの彼らにテイレシアは苦笑した。

「私が来たからと言って押し黙ることは無かろう。私に遠慮することは無い。苦言であろうとも私は聞く度量をもっていると思うのだがな。オーギューガのことを思うなら大いに議論してくれ」

 彼らは誰が言い出すかと顔を見合わせるばかり。

 ようやくその中から先程の初老の男が手を上げるとテイレシアに歩み寄った。

「ならば御館様・・・わたくしめから一言よろしいでしょうか?」

「聞こう」

「今こそ王と組んで、カヒとの長年の決着をつけるときでは?」

「その通り! 一気に押し出して憎き仇敵カトレウスを葬るべきです!」

 同意の声が一斉に上がるがテイレシアは意にも介さない。それがどうしたとばかりに軽く首をかしげた。

「・・・王がそれを望めばな」

 鼻息の荒い宿老と異なり、テイレシアは消極的だった。

 テイレシアは幾度と無くカトレウスと戦ったが、それはカトレウスに攻められた諸侯からの救援要請によるものがほとんどである。大義名分が無いと攻め込みもしなかった。彼女の潔癖さがその種の汚いものに手を汚すことを許さなかったのだ。

 彼女は極めて保守的で慎重で、この乱世には珍しい穏健な思想の持ち主だったのである。


 一方、そのころ坂東にてその日、カトレウスにもたらされた知らせは良い物とはとても言いかねる知らせだった。

「どうやら上州諸侯に不穏な兆し有」

 芳野をデウカリオに任し、七郷まで戻ったばかりのガイネウスを急ぎ呼び出し対策を練る。

「たった一度の敗戦ですぐさま主を変えようとは・・・情薄きものどもでございますな」

「上州勢の薄情さは今に始まったことではない。放っておけばいい。一人では何もできん腰抜けの集団だ。風向きが変わればまた裏切る、そういった連中でしかない」

「とはいえ放っておけば、ゆくゆく厄介なことになりはしませんか?」

 王と連動して動かれたらカヒは二方面作戦を強いられることになり不利になる。ならばその前に謀反の目は断ち切るべきだ。

「サビニウスをやろう。上州はやつの担当だ。諸侯にも顔が利くし、何より正攻法であれからめ手であれ、謀略であればやつに勝るものはカヒにはおらぬ」

「よいご判断だと思います」

「それに上州だけにこだわっている場合ではない」

「何か他に問題でも?」

「これを見よ」と、カトレウスは束になった書簡をガイネウスの前に投げてよこした。

「ほう・・・これは・・・王からの書簡ですな」

 有斗からの投降を呼びかける書簡だった。

「河東全域に広くばら撒いておるらしい。どうやら王は筆まめな男であるようだ。見るがいい、この山を」

 とカトレウスは馬鹿にしたような笑いを浮かべて、背後にある書簡の山を指差した。

「ずいぶんありますな・・・」

「来てないのは坂東奥地の諸侯だけという話だ。もっとも上州、芳野でも一部の諸侯には来ていないそうだが。そうそう・・・ツァヴタット伯はじめ河東でも来ていないのは何人かいるな」

 それは来ていないのではなく、王から来た書簡を、何らかの思惑があってカトレウスに見せていないだけではないかとも思ったが、確証も無いのに人を侮蔑しても益は無い。カトレウスの猜疑心をあおるだけだ、と辛うじてその言葉を喉元で押し留めた。例え反乱を起こす前触れだとしても、その動向を逐次監視していけば対策はいくらでも取れる。

「それよりオーギューガの動きに気をつけろ。奴が動いたら河東全域の勢力地図が変わりかねん」

 カトレウスはそれだけが怖かった。今、カヒ傘下の諸侯はイスティエアの戦いでの敗北に恐慌状態に陥っている。

 冷静に考えればまだまだカヒは王師だろうがオーギューガだろうが五分に戦えることは分かるのだが、その恐れが諸侯の頭を正常に判断できない状態にしている以上、ちょっとしたことで諸侯は裏切りかねない。

 それに裏切ったのが一諸侯ならいい。だがそれが連鎖を引き起こす危険性は高いのである。

 だからその動揺が収まるまでは無闇に動くわけには行かないな、とカトレウスは思った。

 何故なら今までのことからカトレウスの計算上、オーギューガは自ら進んで兵を出す可能性は低い。

 刺激さえしなければ、カヒに牙を向けることはほとんど考えられないからだ。

「御意」

 ガイネウスの賛同の言葉にカトレウスは遠くを見つめるように目を細めた。

「犀川の二の舞だけは避けねばならぬ」

 それはオーギューガとの戦いの一つ。ちょっとしたことでカトレウスと反目することになった諸侯が一斉にオーギューガに寝返り、兵力で逆転されたカヒは総崩れとなった。

 カトレウスはそこで多くの兵と臣下、そして長男まで亡くしていた。

 あれの再現だけは避けねばならないのだ。その為にはいかなる手段を用いても諸侯を引き止めておくことだ。

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