第216話 糧道を絶つ

 ガイネウスはサビニアスに歩兵を任せると、騎兵のみを率いて王師を追いかけた。

 とはいえ替馬はいない、上に乗っている兵も重装備、そして追いついた後に戦わなければならないことを考えると、馬を潰すほどの速度で行くわけにはいかなかった。時速で言ったら十キロ強でしかない。それでも軍隊の一日の行軍速度に匹敵する。昨日までの敵との距離二舎を三時間弱で埋めることができる。

 敵がどれほど夜のうちに兵を進めたかはわからないが、王師は歩兵が多い。今日中に追いつくことは不可能ではないはずだ、とガイネウスは幾分焦りを感じながらも、冷静にそう判断した。

 偵騎を兼ねて、軽装備の騎馬隊に先行を命じた。

 もちろん本隊も強行軍を行うのだ。先行隊もそれなりの速度で進まなければならない。偵察と言っても通り一遍のおざなりなものになるだろう。それでも何もしないよりはマシである。

 もし、敵兵が姿を隠して奇襲を行おうとしているのならば、まんまと敵の罠に陥ることになりかねないが、それはそれで仕方が無い。王師を逃がして畿内に撤退されるよりはマシであろう。対処の方法はいくらでもある。

 それにバアルがガイネウスに敵との戦闘を薦めた日と同じ日に、敵軍が撤退という消極的な戦術から、伏兵での奇襲という積極的な戦術に切り替える偶然が重なることなど、バアルが王師に内通していない限り起こるはずも無かった。

 それよりは敵の行動は今までの行動の延長線上であり、逃げるための手段を切り替えたと、つまり夜通しで逃げることで河北侵攻軍との距離を広げたかったと考えるほうが自然だ。

 ところが午後に顔を青ざめさせた偵騎が帰って来たことで事態は一変する。

 王師は既に乗船し、大河を渡って畿内へと退却したというのだ。

「やられた・・・!」

 ガイネウスやデウカリオ、カヒの将軍たちは苦い顔をして互いの顔を見合した。

 敵がすでに畿内に行ってしまったのなら、いかに騎兵が速いとは言っても追いつくことはできない。間には大河が流れているのだから。それに当然、カヒが続いて渡りやすいように河北へと空になった船を返してくれることなどあるはずもない。全てが官の船ではないであろうから漁民の船などは河北に戻っては来るだろうが、大半の船は焼却するか、対岸に留め置いて、最低でも河北には戻すことはしないであろう。

「さっそく船の手配のため、四方に兵を派遣するべきだ」

 デウカリオは一刻も早く敵と戦いたいとばかりに、畿内へ渡る準備を優先させることを主張した。

「船を集めるには時間が掛かる。その間に慶都を占領するというのはどうであろうか?」

「・・・なるほど」

 朝廷の河北の支配拠点である慶都を押さえるというサビニウスの発想は悪くないものに思えた。

 渡るための船は一日二日で満足には集まらないだろう。その間宿営する場所が必要だ。

 長期間の野営は兵に疲労を強いる。硬く冷たい地面、雪、夜露、雨、極寒の中で寒さに震える。それにいつ敵が襲ってくるやも分からない、満足に寝れるわけがないのだ。

 だが慶都ならばその全てを解決できる。屋根のある安全な場所で兵たちを眠らせてやることができる。ここらで鋭気を養うのは決して悪いことではない。

 何より敵の拠点を落としたならば立派な武功だ。それが例え兵がおらずに無抵抗な街であったとしても、だ。

「それも道理だ。それに兵は退いたとしても、官公庁に書類が残っているだろう。少しは敵の内情を把握することができるかもしれぬ」

 そう、敵の物資、その備蓄場所を押さえられる。あるいは諸侯との文などから王と諸侯の関係を推し量ることができる。

 領土問題などがあるのなら、それに付け込んで諸侯を取り込むことも可能だし、賞罰などの人事の記録があれば、将軍や高官たちの特徴も推し量れる。汚職の経歴があるものには金を送って懐柔するといった手段も取れるではないか。

 ガイネウスは方向転換を命じ、行軍速度を落とすと兵を慶都へと向けた。


 慶都には王師の兵は残っていなかった。それどころか歯向かう者も、いや文官すら一人もいなくて、抵抗は皆無、無事に無血入城に成功する。

 河北の一大拠点であるから、どのくらい激しい抵抗があるかと身構えていた兵士たちはあまりのあっけなさに拍子抜けするくらいだった。

 ガイネウスは役所の建物を接収し資料の発掘に当たると同時に、てきぱきと兵士たちに宿営地を割り振る。

 とその作業中、ふと窓を見ると街中のあちこちで土煙が上がっていることに気付く。窓から外を覗き見ると、民家に押し入り金目のものを盗み出す兵士たちの姿が眼に入った。

「まだ完全に慶都内に敵がおらぬとも限らぬのに・・・まったくもって困ったことだ」

 そう言って眉をしかめたものの、あえて止めようする気配は見られなかった。

 元々カヒの兵、いや坂東の兵はというべきか、は、その土地土地に攻め入った場合、往々にして略奪を行い人家を荒らしまわる。酷い場合には人間すらさらって売り払われる。通称『乱捕り』という行為が堂々と行われていた。

 それは命を賭ける兵士にとってのいわばボーナスみたいなもので、大事な副収入となっていた。

 それがあるからこそ命を失うのが怖くても兵士をやっているというものも多いのだ。

 それは兵のやる気を出させるだけではなく、敵を揺さぶるという意味でも多いに効果がある。領民の保護は王や諸侯の義務である。民は略奪が起きたとき、当然略奪した兵士を恨むが、同時に自らの王や諸侯をも恨むのだ。こちらは租庸調ぜいきんを払っているのに、何故守ってくれなかったのだという不満からだ。義務を果たさないなら、こちらにも考えがあると一切の義務を放棄したり、場合によってはその不満が反乱に繋がったりまですることもあるのだ。それどころか収奪を行った側に鞍替えすることで、これ以上の収奪を防ぐといったことも珍しくなかった。

 成功経験は人に自信を与えるが、同時に人の視野を狭くもする。今までこれで成功してきたのだから変える必要などまったく無い、と。

 ガイネウスほどの男であっても略奪をしないことが、そこに住まう民衆の心を掴むことになり、最終的にはカトレウスが天下を手に入れる一助になるということなど思いつきもしなかった。

 収奪を止めさせたら兵たちに不満が起き面倒なことになるとだけ考えたのだ。戦国のその野蛮な風習をおかしなことだとはちらりとも思わなかったのだ。

 その辺り、カトレウスは戦国が終わりつつあるこの時代に、戦国の前時代的な部分を克服できなかった多くの封建君主のうちの一人でしかなかった。よくも悪くも戦国の申し子という表現がカトレウスの全てを表していた。

 次の時代を作る者には戦国の世ふるいじだいの常識を飛び越える感性が必要であるということがわからなかった悲しい存在であった。


 翌日、ガイネウスはこれ以上の兵の略奪を禁じたことで、ようやく慶都に平穏が戻る。

 兵たちを城壁の上から監視をさせて、外部からの攻撃に備える一方、内部での反乱にも備えるように警戒に当たらせ、船が揃ったという吉報を待つ。

 だがその日の夕刻、慶都にもたらされたものは、待ち望んでいた吉報では無かった。

輜重しちょうが襲われ、奪われただと!!?」

「は、はい。輸送に当たっていた中隊はほぼ全滅、輜重は奪われるか燃やされて全て失ったとのことです!」

 その場に姿を現していた幹部、ガイネウス、デウカリオ、サビニアス、皆一斉に青ざめる。

 手元にある兵糧は残り少ない。しかも次の輜重が芳野から送られてくるのはさらに一週間後だ、ここに届くのは十日は掛かる。

 当然あるであろうと思われていた慶都には一切の物資がなくなっていた。どうやら先手を打って持ち出したらしい。

 となると取れる手段は只一つ。

「こうなったら市民から兵糧を供出させるしかない」

「だが二万五千もの大兵の輜重だ。当座はそれで補ったとしても、その後はどうなる?」

 一斉に押し黙った。

 河北はまだまだ貧しいのである。どんなに絞り上げても出てくるものに限りがあるのだ。それに入城初日に起きた略奪で慶都の住民の多くは逃げ出してしまっていた。とても何週間もの河北遠征軍の兵士全員の腹を満たすほどの食料を得ることは難しいであろう。

 このままでは戦わぬうちに河北侵攻軍は立枯れしてしまう。畿内へ兵を向けるなど夢物語でしかなくなるのだ。

「急ぎ芳野へ急使を発し、兵糧を送ってもらうことにしよう」

「それしかないであろうな・・・」

「しかし襲った敵の正体は? どこの兵だ」

 どこの諸侯か知らぬが、カヒに舐めたまねをしてくれた報いをたっぷりと思い知らせてやる、とデウカリオがぎりぎりと歯を食いしばる。

「そ・・・それが王師の旗を見たと!」

「王師だぁ!? どうせ一本か二本であろう。どこかの諸侯か流賊の偽装に決まっておる」

「いえ、それが大量の旗でして、兵数は千を確実に超えていたと。装備含めて確かに王師だと生き残った兵たちは申しておりました!」

「・・・」

 三人は一斉に顔を見合わせた。たかが旗とも言えるが、例え木綿や麻であろうとも、大量に用意するには手間と金が掛かる。

 ちなみに現代人なら紙で作ればいいじゃないかと答えるだろうが、紙はもっとありえない話だ。この時代の紙は絹以外の布より遥かに高級品である。なにより染色の手間も考えると、大量の旗を短期間で用意するのは不可能と考えて間違いは無い。

「・・・ということは王師は全て近畿へと退却したというわけではなかったのか・・・」

「とにかく今は糧道を確立すること。それと───」

「敵の正体をつかむためにも兵を派遣するべきですな」

 忌々しいことに、これで畿内へはしばらく向かえなくなる。それが分かるだけにデウカリオは不機嫌になった。


 ガニメデと第十軍はその頃、河北中央部、タロイオスの森の奥深くにひっそりとその身を隠していた。

 王師とカヒが二舎の間隔を保ったまま移動している隙に、こっそり隊列を離れて慶都から糧秣を運び出した。

 そしてカヒの眼が届かない北を回ってもう一度東へ向かい、街道を通るカヒの輜重部隊を襲ったのだ。

 わずか五千の兵で二万五千のカヒ兵に立ち向かうにはこの方法しかない。それがガニメデが出した結論だった。

 慶都に籠城することも考えたが、不確定要素が多すぎてそれだけに賭ける気にはなれなかったのだ。

 リュケネの政治は公平だと評判になるくらいであったが、河北はついこの間まで無法の野だった地帯だ。王の恩徳も隅々まで行き渡っているとはいいがたい。もし内部から裏切り者が出て城門を開かれたらそれでおしまいである。

 それに慶都はあくまで河北の政治拠点として建設された都市。鼓関に抗すべく作られた鹿沢城とは比べ物にならないほど防備は格段に弱い。例え裏切り者が出なくても、五倍の兵を相手に守りきるのは至難の技だ。

「しかしこうして積み上げてみると壮観ですね」

 そういって旅長の一人が積み上げられた山のような兵糧を見上げる。

「ああ、何せ河北侵攻軍一週間分の食料だ。持ってきたのはその一部だけとはいえ、やはりたいした量だよ」

 もともと慶都に残されていた軍事物資も、カヒに使われないように持ってきていた。

 五千を切るガニメデ隊なら、隊の中に多少大喰らいがいたとしても、食べきるのに三週間以上かかるであろう。

「で、これからどうするんです?」

「それは向こうさん次第だな。もしこちらに向けて軍が来るのなら戦わなければならない。でもどちらかというと、このまま何もせずに一週間が過ぎてくれるといい。また街道を通る輜重を襲って奪うという山賊まがいのことをすればいいだけだからな。できればそれがいい、何と言っても敵と戦うより遥かに楽だ」

 ガニメデの言葉に旅長たちだけでなく兵士たちも笑った。どの顔にも暗い影は見当たらない。

 ガニメデ隊は寄せ集めの兵である。だが幾度もの激戦を共に潜り抜けた将士の一体感は、元関東王師左軍である第二軍にも勝るとも劣らなかった。

 それは五千の兵で河北に残ると聞いても兵士たちは動揺を見せなかったことからもうかがえる。

 うちの大将は運がいい、勝利の女神に好かれているのだろう、いや外見が王師の他の将軍と比べるとアレだから、勝利の女神も哀れにおぼし召して手助けしてくれているのだと言った軽口が飛び交っているくらいだった。

「さすがに敵さんも一旅くらいは護衛につけるんじゃないですか?」

 まだこちらの総数は把握されていないはず。敵がどれくらい連れて来るかは予想もできない。一旅程度ならありがたいことだが、とガニメデは考える。

「まぁ何にせよ気長にやることにしよう」

 焦ってもいいことは何もない。何よりガニメデの役目は敵に無駄な時間をゆっくりと費やさせることなのだから。

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