第215話 河北撤退

 バアルは己が辿り着いた結論をガイネウスに披露した。

 王師は王都へ向かうために兵を退いたのではないかという見解を、だ。

 さらにはこの王師と戦うべき好機を、将軍たちはあえて見逃しているとまで指摘した。

 さすがのガイネウスと言えども、武功の為にわざと敵を逃がしているとまで言われては、さげすまれているようでたまらない。もう少し配慮する言い方は無かったのかと、一瞬、胸中に怒りが立ち上がった。

 もちろん苦労人のガイネウスだ、その思いを喉から外の世界に吐き出すことはしなかった。若いのだから仕方が無い、と胸底に沈めた。

「だが我が方と敵方との兵数はほぼ同じだ。無理に仕掛けて兵を損じることはない」

「いえ、例え同数であろうとも戦を仕掛けるべきです。河東から畿内へ向かうカヒの兵は八万、それに立ち塞がる王師は、そうですね・・・ざっと三、四万といったところでしょうか。単純に考えると兵力差は二倍といったところです。ですが河北にいる我々と王師の軍がそれぞれそこに加わるとどうなるか考えてみてください。カヒは十から十一万、王師は六万から七万になります。戦力差が縮まってしまう。むろんカヒがまだまだ優勢であるのには変わりがありませんが、戦場では何が起きるか分からない。できうることなら少しでも負ける可能性を減らしておくことがよろしいかと」

 バアルの言説は不思議とガイネウスの心を打った。それは言葉の中に敵と戦って戦果をあげようとか、決戦に参加し歴史に名を残そうだとか、同僚に出し抜かれまいだとかの、嫉妬や功名心や利己心、そういった邪気が無いせいであろう。

 ああ、とガイネウスはようやくバアルのことが分かった気がした。

 利害損得に捕らわれず、物事の本質を見極める目を持っている。

 そして同時に人を見る目を持ち合わせていない。

 先程の一件やデウカリオの件を見ればそれはわかる。バアルは他人に配慮しない。何故なら理が通ってさえいれば、それでいいと思っているからだ。おそらく自身がそうであるから、他人もそうあるべきだとでも思っているのであろう。

 それがバアルの器量を大きくもし、同時にバアルの限界を作り出している。

 良くも悪くも育ちのいいお坊ちゃんといったところか。

「なるほど、確かに言われてみればそうだ。例え河北侵攻軍が全滅したとしても、それ相応の傷を王師に与えることができたなら、全体として見れば、それは我々にとって勝利であるということが言えるな」

「はい」

「だが兵を損じたならば、その責任は総大将の私が全て負うことになる。それをわかっていてもやるべきだと?」

 勝利した場合はよい、何の問題も無いだろう。だが彼我の戦力に差はない、敗戦した時は、全ての責任がガイネウスに降りかかってくるのだ。

 バアルと違って、そうそう気軽に攻撃するとは言えない立場なのだ。

「はい、カヒのために是非に。それに戦死した兵の家族の手前、叱責は受けましょうが、カトレウス殿は懸命なお方、必ずやガイネウス殿の働きをお褒めになることでしょう。その功績は決戦にて万の兵を倒すのと同等である、と」

「これは・・・弱った。客将のバルカ殿の方が御館様の聡明さを買っておられるとは・・・我らの立場がないではござらんか」

 そうまで言われたらガイネウスと言えども、バアルの言を無下にはできない。先程命を助けられた恩義もある。

「だがそれならば何故、敵は急いで退却しないのであろうか?」

 敵は何らかの策を持ち、我々が焦って攻めかかるのを待ち受けているという可能性だって捨てきれない。

「それに関しては私も未だ敵の意図は、はっきりとは掴めません。おぼろげに思うのは敵が緩やかに退いているのはこちらを警戒させるためではないかということです。『辞の強くして進駆する者は退くなり』と申すではありませんか。虚は実、実は虚。いかにも計略があるかのようにゆっくりと退ぞくのは、実は我々に襲われないための擬態だと捉えると納得がいきます。現にこちらは罠を警戒して王師を攻めることを躊躇ためらっています。それに先程の襲撃で、私はますます敵は王都への撤退を模索していると確信しました」

「ほう? それはどういうお考えですかな?」

 先程のありふれた刺客の襲撃に、違う目線からアプローチした考えがあるというバアルの言葉にガイネウスは興味を覚えた。

「刺客による暗殺など珍しいことではございませぬが、不思議なことに今まであの関東の偽王はそういった手段を一切取った形跡が見られません。それどころか敵をおとしめる謀略や、調略といった手段も聞いたことが無い。ひょっとしたら皆無なのかもと思ってしまうほどです。おそらく性格でしょうね。そういったことをあまりよしとしない信念があるのでしょう」

「言われてみれば確かにそうだ」

 王についてわかっていることは即位早々反乱を起こされたこと、劣勢にもかかわらず戦いで勝ち続け、ついには関西まで下した武断の王であるということだ。

 だが何故か、敵将の取り込みや、敵の君臣を裂く計略、諸侯に反乱を起こさせ敵の足元を揺さぶるといった、天下を取るに当たって当然取られるであろうはかりごとを行った形跡が見られない。

 せいぜいがオーギューガを動かしてカヒの背後を脅かしたくらいだ。

「その王が今回は刺客を送った。それはすなわち刺客を送らねばならないほど王が今現在切羽詰っているということではないでしょうか? 確かに河北は我々に攻め込まれていますが、同数の王師の兵がいる。普通に考えるとそれほど慌てる事態じゃない。だから何が王をそこまで追い詰めたかと考えると、辿り着く結論はひとつ。つまりカヒ本隊の畿内侵攻が間近に迫り、河北にいる王師をどうしても畿内に戻したかった。そのために障害となるカヒの河東侵攻軍をなんとかしたかった。そうは考えられませんか?」

 暗殺者を送ったのはラヴィーニアの独断で有斗の与り知らぬところなのだが、その勘違いによって結果的にバアルは真実に辿り着いたのであるから、世の中というものは不思議なものである。

「なるほど・・・それで焦った王は私を殺そうとしたわけか」

 悪くない策だ。我々にとって王師が油断のならぬ敵であるのと同様に、カヒの河北侵攻軍は王師にとっても容易に破れる相手ではないと認識しているだろう。

 特に総兵力で劣る王側は決戦の前に兵を減じることだけはなんとしても避けたいところであろう。

 だがそれを確実に回避しうる方法がひとつある。河北侵攻軍の総司令官であるガイネウスを殺せばいい。

 普通であれば全軍の大将であるカトレウスならともかく、方面軍の総司令官が死んだとしても副司令官がその任に当たり混乱など起きるはずも無い。

 だがこの軍には三人の同格の副将がいるのだ。デウカリオ、バルカ、サビニアス。いったいだれが引き継いで指揮を取る? 

 特にこの混成軍は諸侯中心だ。同じ地方諸侯出身のサビニアスの風下に立ちたくない者もいよう。新参の若造であるバルカの風下にも立ちかねる者もいよう。有能であるが気の荒いデウカリオに顎で使われることを良しとしない者もいる。カトレウスには心酔している諸侯だが、カトレウスが主将に指名したガイネウスの指示には従っても、どの副将の指示に従うかまでは指示されてはいない。

 ということは副司令官格のデウカリオと客将という曖昧な立場のバアルが対立している今、河北侵攻軍は空中分解さえしかねなかった。

 そのごたごたで王師を攻撃することはもとより、畿内へ渡ることもできなくなる可能性がある。

「なるほど。どうやらそう考えるのが妥当な考えであるようですな」

 バアルのその説はガイネウスを納得させるに足るもののように思われた。

「それでは王師との交戦の件、お聞き入れてくださったと思っても・・・」

「もちろん。明日、日が昇り次第、王師を追撃し戦を挑むことにしましょう。今度は勝敗がつくまで敵を逃げさせなどは決してしない」

 目を爛々らんらんと輝かせて宣言するガイネウスを見て、バアルは満足げに頷いた。


 翌朝、稜線が白み始めると、兵たちを叩き起こし、飯の支度と出立の準備を急がせる。

 だが準備が終わり、いざ出立するという段階になって先行していた物見の兵が慌てた様子で戻ってきた。

「二舎先にいるはずの敵兵がいません!」

 息をきらせて帰って来た物見は開口一番そう告げた。ガイネウスは一瞬、その言葉の意味を理解することができなかった。

 ここ数日、確かに二舎先に王師がいたのである。それが忽然と消えうせたとでもいうのだろうか?

 呆然とするガイネウスはじめ将軍たちに、物見は説明を続ける。

「いえ、敵は夕べ野営を行った形跡がありません!」

「どういうことだ? 夕方出した物見は敵が野営の準備をすることを確認したと言っていたではないか!?」

「いえ、確かに夕方宿営地を設営するかのような模様は確認できたのです。だが今日近づいたところ、そこには敵影は無く、それどころかかまどを作った形跡、火を燃やした形跡が一切無いのです」

「だとすると夜のうちに強行軍をして我らとの距離を取ったということでしょうな」

「あるいはどこかに身を隠し、我らを待ち伏せて襲い掛かる気かもしれない」

 そういうところだろうな、物見を通常より大勢出して周囲を警戒するのと同時に、急いで追いかけてなんとしても王師の足を止めなければ。

「全兵に通達! 直ぐに進軍を開始する! 急げ! 王師に追いつくまで急行するぞ!」

 ガイネウスに命じられ、河北侵攻軍は騎兵を先頭に最大戦速で駆け出していった。

 だが結論から言うと、結局、河北侵攻軍が王師の足を捕まえることはなかったのである。


 その日の昼、王師は慶都を素通りし、河北の大河に面した南岸にまで到達していた。

 そこでは大河上中流の船という船が集められ、王師の兵を満載しては畿内へと旅立っていた。

 敵に背後にぴたりと張り付かれているのに、通常の行軍速度で王師が進んだのにはもちろん訳があったのだ。

 一つは王師の中から離脱するガニメデ隊を敵の眼から隠すこと、もう一つは大河を渡る途中で河北侵攻軍に襲い掛かられないように、南岸一帯に集めるだけの時間を稼ぐことであった。

 船が少なければ何度も船を往復させなければならなくなり、渡河中に襲われて、王師は莫大な被害を被ることになるだろう。

 であるから船が集まるまではゆっくりと進軍し、集まったという報告を受けるや、兵を夜通し走らせて敵との距離を取り、急いで乗船し近畿に向かうことにしたのだ。

 これだけ船があれば、おそらく一往復か二往復ですむはずだ。

 敵との距離は三舎半は離れた。これなら敵がどんなに強行軍で飛ばしてこようとも四刻は時間がある。十分な時間であると言えるだろう。

「どうやら上手く行ったな」

 船の上から岸を見て、遠くに兵馬の立てる砂煙が見当たらないことを確認し、エテオクロスは安堵の溜息をらした。

「ええ、被害を出さずに王都へ向かうことができます」

「だが我らの後をつけて河北侵攻軍が近畿に足を向けないとは限らない。いや、むしろ攻め入らない理由が無い。そうなると王都前でカヒ本隊と合流することになる。我らが王都に戻った意味がほとんど、いや全然無いわけではないのだが、そう、かなり無くなってしまう。それに王師は河北を放棄したと、諸侯の王を見る眼も厳しくなるだろう」

「そのためにガニメデ卿が残られたのではないですか」

 副官は気楽にそう言った。だがエテオクロスはそう気楽には考えることができない。

 確かにそれなりの手腕を見せてはいるが、元々は閑職に追いやられていた男と堅田城の敗残兵たちである。

 信頼しろと言っても、エテオクロスのようなエリート街道を歩いてきた男にとってそれは、なかなかに難しいことであったのだ。

「後はガニメデ卿に託すしかない」

 自分に言い聞かせるようにそう呟く。

 河北遠征軍二万五千が畿内に現れるか現れないかは、あの見栄みばえのしない中年の男にかかっている。

 負けるのは仕方が無い。だがせめて一、二週間の間は敵の眼を引きつけておいてくれよ、とエテオクロスは祈るような気持ちでそう思った。

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