第214話 暗殺者

 一方その頃、河北では孤立する形となったロガティア伯は中立を選んだ。

 口ではカヒに従属すると丁重に述べてはいるが、王師との連絡も裏で続けていることは確認済みだ。ガイネウスはその行為を中立であると受け取った。

 とはいえ平身低頭して頭を下げてきた相手を無理をしてまで攻める理由はない。カヒは天下を奪いにやってきたのである。他の諸侯の目も気にしなければならない。ロガティア伯自身は一兵もカヒに向けて兵を出したことはない。それを攻めたら諸侯はカヒの非情さに心を離してしまいかねない。ならばここは大度を示すべきであろう。

 というわけで後背が安全になった以上、カヒは退いていく王師に歩調を合わせるように河北を西へと軍を進めた。

 志文川の戦いでカヒが勝ったと聞いたニケーア伯も朝廷との交渉を打ち切って近隣に兵を出して暴れまわった。

 王師の軍は有斗からの召集を受けて撤退しているだけなのだが、傍目はためから見ると、それはカヒの兵に追われて敗走を続けているだけにも見える。

 河北の諸侯も臣民も押し黙り、河北侵攻軍の前途をさえぎる者は誰もいなかった。

「順調だな」

 デウカリオはバアルとの口論もなかったかのように上機嫌で馬に揺られていた。

 河北侵攻軍は別働隊だ。言ってみれば陽動の兵。来るべき王との決戦には参加できない。そうデウカリオは不貞腐ふてくされていた。

 しかしこう順調に進撃していくなら話は変わってくる。このまま河北を占拠できれば、次は当然河北侵攻軍も畿内へと兵を向けることになろう。

 来るべき王師とカヒとの一大決戦では王都の背後を脅かすように動き、王師の主力を牽制する役割が与えられるはずだ。

 だが、さらに順調に進むのならば話はまた変わってくる。王都前での最終決戦で主力を務めるのはこの河北侵攻軍ということもありうる。

 栄光ある大役を自身が務めることも期待できようと言うものだった。

「しかし敵の意図が不明だ。油断はできない」

 ガイネウスはデウカリオの楽観に釘をさす。

 王師は別に大きく兵を損じたわけではない。カヒの兵の排除に来たのに、敵を目にして戦いを避けるなど本末転倒だ。

 兵力の損耗を恐れて戦わなくても、堅固な地形に陣を敷き、相手を牽制して動きを封じ、これ以上の進入を防ぐことくらいは可能なのだ。

 しかしこれではカヒの兵を無抵抗に河北に引き入れているも同じだ。

 偵騎の話では王師は二舎先の街道をひたすら西進しているという。

 王は河北を治める拠点として慶都という城塞都市を建設したと聞く。そこに籠城でもするつもりだろうか。

 たしかに河北の奥深くに入るにつれ、補給にさらに人員を割かねばならず、長期の敵地における野営での疲労、兵たちの心にも望郷の念が湧いているといったふうにカヒにも問題が発生していないわけではないが、それでも韮山での勝利、堅田城の陥落、巨大兵力を擁しての畿内への侵攻と、兵士たちの心を浮き立たせる材料もないわけではない。

 戦うに必要十分な兵力を持ちながら、そこをあえて篭城戦に切り替える理由が分からない。

 それに王師だって敵を目前にしての撤退などしたくはあるまい。兵の士気に関わる。

 ひとつ考えられる可能性があった。王から王師に王都への帰還命令が出た、その可能性である。

 それならば敵を無視して退却することには説明がつく。だがこの場合だとしたら、わからないことが今度は他の場所から出てくるのだ。

 それは王師の行軍速度だ。周囲を探索して警戒して進まねばならないこちらと違い、向こうは勝手知ったる土地だ。

 強行軍を行って一日に二舎も三舎も進むことは不可能ではない。

 兵の心理的にもいつまでも敵兵が背後から付いて来るといったこの状況は望ましくない。

 それにこのままではカヒの河北侵攻軍を王師が王都まで連れて行くような形になってしまう。

 それでは例え王師が王都に集合することができても、カヒの兵によって王都は前後を挟まれる形となる。極めて不利だ。

 だがその危険性を考えないかのようなここ数日の行軍・・・実に不可解だった。

「まぁ、いいか」

 ガイネウスはわからないことはそのまま受け入れるしかないと、己を納得させることで決着をつけた。

 ここは相手の好意に甘えさせてもらって、戦わずとも前に進めると言うのなら、ありがたく前へ進ませてもらおうとしよう。

 それにガイネウスには自信があった。敵に多少の策があっても跳ね返してやるという自尊心だ。


 その日も一舎(約十五キロ)行軍し、軍営地に相応しい小山にて宿営することにする。

 もちろん偵騎は前を行く王師の軍へだけでなく四方へと派遣する念の入れようだ。

 カヒの兵学に従い、一部の隙もなく陣営が構築されていく。兵たちも実に手馴れたものだ。

 近くに沢がありるので水の心配もなく、小山に茂った巨大な古木こぼくが折から吹き付ける東風こちから兵たちを守ってくれる理想的な陣営地であった。

 だがそれを遥か頭上の梢の上から覗いている目があることなど、ガイネウスは知るよしもなかった。

 夜に主だった将を集め会議を開き、明日の計画を立てる。どの道を通り、どこまで向かうか。伏兵の警戒が必要な場所、いざと言う時布陣ができる場所もひとつひとつ説明する。ここから先は未だカヒに靡かぬ諸侯が数多くいる。それの対応についても意思統一を図る。

 だがどれも小諸侯だ。無視して先に進むと言う意見も魅力的だったが、輜重を襲われてはたまらない。

 結局、一度使者を送ってもなびかぬ場合は踏み潰していこうといったことに落ち着いた。


 一旦、自陣に戻ったバアルだったが、しばし目をつぶって瞑想すると、意を決してガイネウスに話をしに行くことにした。

 王師は王から召喚命令が出て、河北から撤退しようとしている。

 それがバアルが何度か考えた末、出した結論だった。

 ならばこちらは距離が開かない今のうちに兵を遮二無二しゃにむに進めて、合戦に持ち込むべきだ。

 カヒの王師に対する優位性は何かと考えたら、それが一番いいはずだ。

 兵の質や将の質、騎兵の多寡。だが一番の優位性は、諸侯も含めた兵の多さなのである。

 ならばここは敵が野にいるうちに無理やりにでも野戦に持ち込み、味方の犠牲と同数の敵に犠牲を出せばよい。いや例えこちらの方が犠牲が多かったとしても、敵兵を減らすたびに味方は勝利に近づいていくのである。

 カヒは騎兵も多く、弱兵ではない、大きく負けることはありえない。ならば野戦を挑むべきだ。

 だが誰もそれを言い出そうとはしなかった。

 それに気付いてないわけがないのだ。特にガイネウス、サビニアス、デウカリオあたりの将軍は確実に気付いている。

 気付いていないふりをしているには理由が二つあると見た。ひとつはバアルにも未解決な問題だ。何故、敵はまるで襲い掛かって来いと言わんばかりの通常の進軍速度で、退いているのかといった問題だ。その不可解さがたぶん諸将に二の足を踏ませるのであろう。

 二つ目は、諸将の不満なのであろうとバアルは思う。これから行われるのは戦国の行く末を左右するであろう決戦なのだ。参加する将軍は例え勝とうが負けようが、確実に史書に名を刻むのである。だがそれは決戦の地に足を踏んだ者だけなのである。河北の地でいくら活躍しようとも何の意味もない。おそらく歴史の好事家以外は知ることのない戦になるだろう。

 であるから王師がこのまま王都に行くというなら、それに付いて王都まで行きたいという思惑が見え隠れするのだ。

 下手に野戦で消耗したり、河北で王師とにらみ合って足止めを喰らいたくないのであろう。

 その気持ちはバアルにも分かる。できることならバアルとてその歴史的な決戦に参加したい。

 しかし勝てる可能性が上がる機会が目の前にあるならば、それを生かさなければならない。個人的な名誉よりも全体の勝利を考えるべきだ。


 先の志文川の戦いでの苦戦のせいでカヒにおけるバアルの立場は少しばかり悪くなった。

 その原因全てがバアルにないにも関わらず、カヒの兵は七経無双も案外見掛け倒しだな、などと影で笑っていた。

 主将の命令を聞き入れなかった自らの醜態を認めなくなかったのだ。

 デウカリオとも未だギクシャクしているし、こんな時に耳に痛い忠言をするべきかは大いに考えるところがあるが、やはりまずは敵である王を敗北に追いやることが先決だと、バアルは踵を返してガイネウスの天幕へと舞い戻った。

 取次ぎの兵によると幸いまだガイネウスは就寝前とのことだった。幕を持ち上げ、天幕に入る。

 と、そのバアルの目に頭上の梢から音もなく落ちてくる黒い塊が目に入った。

「ガイネウス殿! 上だ!」

 バアルの声にガイネウスが振り仰ぐと黒い衣服に身を固めた人間が頭上から振り落ちてくる姿が目に入った。その手には両刃の短剣が握られている。

 バアルは瞬時に身を伏せ体勢を低くすると、大地を足で蹴って一歩一歩加速し、ガイネウスのもとに向かった。

 間に合う!

 ガイネウスに当たらぬように横後方から一気に剣を跳ね上げ、暗殺者の体へ向けた。

 暗殺者の短剣より、バアルの剣のほうが僅かに早かった。バアルの剣はまず暗殺者の短剣とぶつかり悲鳴のような金属音を発し、それをね飛ばすと、暗殺者の体にぶつかった。手首に衝撃が走り重さが凄まじい勢いで圧し掛かった。だが、切ったという手ごたえがまったく無かった。

「!?」

 その暗殺者はなんと切り上げた剣の刃の上に立っていた。一ミリにも満たない鋭い刃の先である。

 驚くバアルにニヤリと笑みを見せる余裕まであった。

 そして斜め後方に飛ぶと、宙をくるりと一回転し着地してみせた。

 バアルは腰に差した匕首ひしゅを取り出し、立て続けに影に向かって素早く連投する。

 だが影は匕首が飛んでくる度にまた宙を舞い、まるでバッタのように軽々と難なく避けてみせる。

 しかしそれもバアルは計算に入れていた。最後の匕首を投げると同時に、暗殺者が着地するであろう場所に向けて加速を始めていた。

 不意を突かれた暗殺者が再度、跳躍するには時間が足らなかった。二人の体が衝突する。体格ではこちらが上だ、とバアルは体をさらに預けるよう前に倒して諸共に陣幕を突き破った。

そこは傾斜面だった。二人はもつれるように転げ落ちる。

 暗殺者にしては華奢な身体だった。止まった時に襟元を押さえつけて、マウントポジションを取ったのはバアルだった。

 と、驚きで目を丸くした。

「・・・女!?」

 化粧っけはないものの、その顔立ちはたしかに女だった。一瞬、目の前の人物が暗殺者だと言う事も忘れて、殺すことを躊躇ためらう。

 その一瞬の隙をその女は見逃さなかった。

 腰に隠しておいた短刀を取り出し、バアルの喉元に切りつけた。

 それには毒が塗ってある。一ミリでも肌を傷つければ、致死量たるに十分な猛毒が。

 それをバアルは腰を浮かし、身体を後方に倒してかわす。

 しかしそれでもその女には十分だったようだ。素早く足をバアルの身体の下から抜き地面を蹴り上げ、後方へ跳躍する。バアルは慌てて立ち上がるが、その隙に二人の距離は広がってしまった。

 と上方から灯りとバアルの名を叫ぶ兵たちの声が近づいてきた。

 女はそちらにちらりと目をやると、何がおかしいのか鼻で笑った。

「・・・私の邪魔をしたツケは高くつくぞ」

「それは困るなツケをしない性質なのだ。ここで汝を切り捨てて清算しておくとするか」

そう言って一歩前に出たバアルに、女は冷えた声で、まるでお告げでもあるかのように告げた。

「また来るさ・・・必ずな。それまでその首は預けておく・・・」

 そう言うと、深い森の闇の中に吸い込まれるように消えうせた。


 最初に降りてきたのはパッカスだった。とりあえずバアルの無事な顔を見ると、大きく胸を撫で下ろす。

「大丈夫ですか!? お怪我は!?」

「大丈夫だ。擦り傷程度だな」

 続いて兵たちは次々と降りてくるとバアルをまず守るように囲み、次いでそろそろと周囲を探りだした。

 だが当然、すでに周囲はもぬけの殻で暗殺者を見つけることはできなかった。

 陣営に戻ると、さっそくガイネウスがバアルを出迎えてくれた。何度も両手で押しいただいて感謝を表す。

「助かった。バルカ卿がいなければ今頃六道の辻に迷い込んでいたやもしれぬ。まさに命の恩人だ」

「いえ、ご無事で何よりでした。それより聞いて欲しい話があります」

 こういうことは感謝の気持ちが消えぬうちに言ったほうがいい。例えバアルの意見を最終的に取らないとしても、今の状態なら一言の下に却下だけはしない、検討はされるはずだ。

「命の恩人だ。なんでも聞こうじゃないか」

 バアルの言葉にガイネウスは上機嫌に笑いながらそう言った。

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