第213話 一笑に付す。

 カヒが畿内侵攻に使った兵力については諸説ある。合計七万だという説もあれば、それは河北侵攻軍を入れての数で、畿内に渡ったのは五万程度ではなかっただろうかという説、それとは逆に輜重を入れれば十万くらいではないかという説もある。その十万と言うのも輜重を除いた数であって総計は十二万に迫るのではないかと唱える学者もいる。

 ともかくわかっていることは一つ、戦国でも見たことも聞いたこともない空前絶後の大兵力だったことは間違いない。

 カトレウスは渡河に備えて、河東の船、味方についた南部諸侯の船、商船など、船という船をかき集めて水面みなもを埋め尽くさせた。

 兵を集めてカトレウスが大河の東岸に立ったのは一月十六日のことである。

 すでに王都にガイネウス率いる河北侵攻軍が現れたと言う知らせが届いているのと同様に、カトレウスの下にも河北の戦況は伝わっていた。

 その日に河北より続報が届いた、カトレウスは本陣の最奥の一角に腹心を呼び集めた。

 マイナロス、ニクティモ、そしてダウニオス。カヒが誇る四天王のうちの三人である。

「ガイネウス殿は川を挟んで王師とにらみ合いを続けているようですな」

 カトレウスが無言で手渡した書簡を見てマイナロスはそういった感想を持った。

「あの男のことだ。無謀な戦はせぬ。戦機をうかがっているのだろう」

 カトレウスは火箸で火鉢の上に置いた網の上の餅をひっくり返しては反対面をあぶる。

 網の上にある四つの餅を器用に次々とひっくり返す。

「ガイネウス殿をもってしても手間取るとは・・・苦戦しているようですな」

 残念そうに呟くダウニオスとは対称的に、ニクティモはその原因を分析し、理由を述べていく。

「兵数に差がない上、河北東部は起伏の多い地形だ。騎馬戦での優位性もそれほど多くはないからであろうよ。それに兵も芳野の兵が中心だ」

 それに将軍こそガイネウス、デウカリオ、サビニアス、バアルと一線級を揃えてはいるが、デウカリオの黒色備えを除けばそれを構成する兵はカヒの二軍、いや三軍といった顔ぶれである。

「それでよい。王師の精鋭五軍を引きつけてくれるだけで十分だ。もちろん吉報を期待してはおるぞ。破ってくれるにこしたことはないからな」

 カトレウスが上機嫌でそう言うと、マイナロスもニクティモもダウニオスも一斉に笑った。

「兵も今日中には全て集まるでしょう。南部の諸侯も対岸で御館様の到着を今や遅しと待ち構えている様子、さっそく明日にでも大河を渡りましょう」

「待っておったのだがな、王を」

 そう言うと焼きあがった餅を火箸で摘んで、ニクティモに渡す。

「王を?」

 ニクティモは頂いた餅のあまりの熱さに左右の手のひらで転がして冷ます。

「対岸で迎え撃つかと思っていたのだが・・・」

 次いでマイナロス、ダウニオスにも一つずつ渡すとカトレウスは残りの一個にかぶりついた。

「ありがたく頂戴いたします」

「うむ、よく焼けておる。冬は餅に限るな」

 しばし小さな咀嚼音そしゃくおんがその場を支配すると、まず食べ終えたニクティモが口を開いた。

「先程の話ですが、臣も対岸に陣を敷き迎え撃つとばかり思っておりました」

 その言葉にマイナロスも大きく頷いて同意を表す。

「それが常道だからな」

「南部諸侯との合流を防ぐためにもそうするものだと思っていたのだがな」

 だが予定は狂った。作戦を立て直さなければならぬ、カトレウスは自慢の髭を撫でつつそう思った。

「そうしてくれると我々としてもありがたかったのですがね」

 もしそうなれば船を待ち構えて上陸する敵を片っ端に河に追い落とせばいい王師に比べると、河から上陸するところを襲われるカヒは明らかに不利。おそらく危険な戦いになる。だが総兵力が多いカヒの上陸を全て河岸で撃退するなど不可能ごとだろう。

 上陸地点を上流や下流に分散する術もある。上陸する兵は時間が経てば経つほど増していく。

 さらには南部から駆けつけてくる諸侯も加われば、結局は王師は水際での防衛を諦めることになるに違いない。

 そうなれば後は只の野戦である。韮山で分かったとおり、例え同数であろうと王師がカヒの騎馬軍団に勝てるはずがない。ましてや今や総兵力ではカヒが大きく上回るのだ。

 当初優位に戦を進めていた王師は退くことすらできない消耗戦の中、てん滅することだろう。

 そうなればもはや王は終わりだ。生き残った僅かばかりの兵を持って王城で籠城すれば何ヶ月かは耐えられるかもしれないが、もはやそうなっては味方する諸侯も一人とておらず外から救援の兵が来ることはない。

 最後は王都の市民か羽林の兵あたりに裏切られ殺される、哀れな末路が待ち構えているだけだろう。

「ということは敵は引き付けるだけ引き付けて戦う気だな。籠城戦という線もある」

 河東でも秋の収穫は終わったから兵糧に不足はしない。とはいえこれだけの兵が消費する兵糧は莫大だ。

 諸侯の兵糧もある程度は補助してやらなくてはいけないだろう。考えるだけで頭が痛くなるほどの金が日々飛んでいくに違いない。

 それに量も問題だが、輸送はもっと一苦労だ。なにしろ大河を越えて輸送しなければいけない。それに従事する船や兵員も莫大なものとなることだろう。補給線が遠征の弱点になりかねない。

 さらには籠城戦ともなればどちらが勝つかは予断を許さない。

 王都の高い防壁の中に籠もる万の兵と戦うならば、カヒの騎馬軍団の優位性は消える。王都の壁は高く、生半可な攻撃を全て跳ね返す。

 それに城内にも蓄えはあるだろう。兵糧攻めがどれだけ効果があるかはわからない。

 長期対陣になれば今は味方している諸侯の心とて揺れ動くかもしれないし、各地の諸侯がカヒ打倒の為に立ち上がることもあるかもしれない。

 それにオーギューガの動向も心配である。

 テイレシアは行動が読めない。なにしろ乙女なのだ。

 そんなことを言ったら、配下の者たちなどはあの婆さんが乙女などという年かと大笑いするだろうが、実際そうなのだ。

 何しろあの女には利益とか打算とかそういったものが一切通用しない。

 あの女が大好きなものはただ真っ直ぐな正義、それだけだった。

 カトレウスが掲げる正義というものは他人を騙したり、己の所業を誤魔化すための方便でしかなかった。

 今までの己を振り返れば、昨日と今日の正義が齟齬そごすることも珍しいことではなかった。例えばつい最近まで関東の権威を借りて領国統治をしてきたにも関わらず、関西の復興を唱えて反乱を起こすといった具合にだ。

 だが、あの女にとっての正義は違う。

 それは鋼鉄よりもなお硬いもので作られた、絶対に歪まない塊のようなものに違いなかった。

 なにしろその正義とやらのおかげでカトレウスは何年も坂東の片隅でテイレシアと不毛な戦いをするはめになったのだから。

 それはまだ純粋な乙女が抱く、まだ未だ出会わぬ『憧れとしての恋』という存在に似ていると思った。

 実際の恋愛は相手がある。相手に合わせて己を殺すこともある。理想像とはかけ離れた相手でも妥協することがある。利益の為に欠点に目をつむることも珍しくはないだろう。だがまだ恋せぬ乙女なら、まだ見ぬ完璧な理想の相手を思い浮かべ、その相手とお互いに全てを理解し愛し合う、そういった妄想の中に耽溺たんできすることができるだろう。

 あいつが正義に対して抱いている感情はそれとまったく同じなのだ。

 人を騙し、人を裏切り、人から奪い取るといった、腐った戦国の世を同じように生きてきたはずだ。

 正義など何の価値もない、無力なものであるという事例を数限りなく見てきたことだろう。

 それなのにどうしてあの女は正義などというくだらないものの為に、俺の前に立ち塞がろうとするのだろう。自らの命を賭けるような真似をするのだろう。

 カトレウスにはそこのところがまるで分からなかった。

「とりあえず来ない者のことを考えてもしかたがない。今は念願の畿内に足を踏み入れることができる、これを喜んでおくべきだろうな」

 敵と戦わなくても、敵が放棄した陣地であっても敵地に一歩でも足を踏み入れたということは大きな戦果と言ってよい。

 それを十分に利用しなければならぬ、とカトレウスは思った。

 それを喧伝すれば、未だ王に忠誠を捧げる愚かな諸侯の目を覚まさせることだってできるかもしれない。

 カトレウスはぼんやりそんなことを考えていた。


 と、突然その場に小気味よい音が鳴り響いた。

「そうそうニクティモ、例の物を持ってきたか?」

 大事な用件がまだあったことを思い出したカトレウスが、うっかりしていたとばかりに膝を拳で叩いたのだ。

「ここに」

 ニクティモはふところから血で赤く染まった書状を取り出し、カトレウスに捧げる。

「詳細を述べよ」

「今朝、陣外を警備していた一隊が死体を見つけました。その死体が後生大事に抱えていた文です。関東の偽王からツァヴタット伯にあてた文でした。内容は離反を促し、莫大な報酬を約束するものです。既にツァヴタット伯が内応に応じたとも取れる文章でした。しかもそれを持っていた兵の身元を調べた結果、ツァヴタット伯の兵だったそうです」

「・・・ツァヴタット伯が・・・?」

 この間、韮山で王師がカヒと戦わなければならなくなったのは、ツァヴタット伯が王を偽の投降劇で誘い出したからだ。それを考えると、とても投降を王が許すとは思えない。

 それにツァヴタット伯の方が王に接近することもありえない。

 確かに功を傘に来て増長し、御館様や我ら四天王と衝突はあったが、褒美も十分与えたし、何よりこのカヒ優位の情勢だ。強いものに尻尾を振り、長いものに巻かれるのが大好きなツァヴタット伯が裏切ることはまずありえないことだ、とニクティモは感じた。

「実は似たような文が四人の諸侯から提出されている。内容はほとんど変わらぬ」

「ということは、ツァヴタット伯だけ、運悪く書状を持った配下の兵が殺されたということか・・・」

 ダウニオスは引っかかるものを感じて、しきりに首をひねった。

「考えられるのは一つ」

「ああ、一つしかありえない」

 マイナロスの言葉にニクティモもダウニオスもカトレウスも大きく頷く。

「カヒの中には、王に内応した五将がいた。そして密かに連絡を取り合っていたが、なんらかの事件が起きて使者が死んでしまった。それを偶然、ニクティモの手の者が発見し、こうして御館様に届けられる。そして使者が帰らぬことに気付いたツァヴタット伯が調べると、どうやら御館様の手に渡ったということが分かる。そうして、内応が露見したことを知った四人が慌てて御館様に書状を提出し誤魔化そうとしている───」

 マイナロスはそこで一旦、息を入れた。

「と、我々に思わせ、無実の諸侯を始末させて、内部の結束をガタガタにする、という王側の謀略だな」

「そのとおりだ」

 カトレウスは満足そうに頷いた。

「まさか、ツァヴタット伯が王に裏切ったなどと言い出しはしないか、冷や冷やしたぞ」

「おいおい、いくらなんでも馬鹿にしすぎだろう。これでもカヒの四天王の一人だぜ」

 再び四人の笑い声が響き渡る。

 そうなのである。これはどこから見ても謀略である。それも相当単純で底の浅い策。

 何故なら、おかしなところが多すぎるのである。

 ここはカヒの勢力圏なのである。周囲は味方の兵だ。殺される理由が無い。

 もちろん雑多な寄せ集めの混成軍だ。兵士同士のいさかいも多いし、諸侯どうしの争いもある。しかし大事な密書を抱えた身だ。目立つようなことや厄介ごとは極力避けるはずだ。争いに巻き込まれても逃げるだろう。

 それに単なる行軍中に死人が出ることは稀だ。現に今朝、他に死んだ兵はいない。

 十万の兵の中で、偶然死んだ一人がツァヴタット伯あての密書を運ぶ確率はどのくらいか? 考えてみれば分かるとおり、極めてありえない確率と言わざるを得ないだろう。。

 大体、今この時点の情勢下で、諸侯がカヒと王とを両天秤にかけることはあっても、寝返ることは考えられないことであった。

「その通り、実に子供騙しだ」

 だからその書状をカトレウスは一笑に付すことにした。

 血で赤黒く染まった書簡を握りつぶすと、火鉢の中に投げ入れた。

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