第210話 苦悩(上)
時は少し
有斗が王都に帰還して一か月後に、カヒがとうとう上洛の兵を挙げたとの報が王都に入ってきた。
有斗は慌てて全遠征軍に帰還を命じる軍使を派遣する。
両軍とも近々の報告では奥地深くまで進軍したと聞く、戻ってくるのに半月は最低必要だろう。
敵と
対するカヒはまだ河東の岸に現れたわけではない。だが既に秋の間には街道沿いには
それにカトレウスは長年の野心、天下取りを目指して畿内へ渡るのだ。おそらく持ちうる限りの全力で攻めてくるに違いない。
味方する諸侯の兵も合わせれば、王師は兵力でも既に負けている。
しかも配下の将は名将猛将が綺羅星の如くいるらしい。能力値が高い将軍が率いたほうが同じ兵力でも強いはずだしなぁ・・・、と有斗はゲーム感覚でおぼろげにそう考えていた。
だが王師の将軍だって負けはしないはずだ。最大の心配はそこでは無い。
問題は有斗自身だった。カトレウスは言うまでも無く戦国が生んだ最大の戦略家と呼ばれるほどの戦の達人だ。対して有斗は一介の現代人、戦術や戦略などアメイジアに来てからの付け焼刃に過ぎない。果たしてこれで勝負になるだろうか。
とはいえ逃げるわけにはいかない。この戦は他の誰の戦でもない、有斗の戦なのだから。
決戦の時は着実に近づいてきていた。
近づく決戦のプレッシャーに胃が痛い有斗と違って、執務室に集まるいつもの顔ぶれは他人ごとと思っているのか、いたって気楽なものだった。
「こんな寒い中、大河を渡るとはご苦労なことだね」
あの大河は水量も多く幅も広い、冬のこんな時期に河にでも落ちたらまず助からない。何もこんな大寒の時期に兵を進めなくてもいいではないか、とアエネアスは言いたいらしい。
それは相手の兵士たちを気の毒がるとかいった博愛精神溢れた感情から来るものではなく、もちろん敵に合わせて出陣するであろう有斗の身を案じたわけでもなく、その有斗について出て行かねばならぬ自身の心配をしただけであるのだが。
「雪を待ってたんだろうね」
ラヴィーニアはアエネアスの疑問にそう答えた。
「雪?」
王都では今年はまだ一回しか雪が降ってない。しかもあっという間に溶けてなくなる程度の僅かな雪だ。
アリスディアによると畿内や南部は何年かに一回積もるか積もらないかという話だという。
そんなものを待ってどうにかなるのか、有斗は不思議そうな顔をラヴィーニアに向けた。
「越ですよ。越は豪雪地帯、十尺以上の雪が積もることもあるという話です。冬季の出兵に備えて雪をどけて道を確保していなかった場合、出兵するのは不可能に近い。それどころか畿内や河東で何が起きているかの情報すらはいらないでしょう。だが秋の間はカヒは大人しかった。きっとオーギューガはその備えをしていなかったと思われます。カヒは雪が溶けるまで、後ろを気にすることなく心置きなく畿内に攻め込めるというわけです」
越ってところは雪国なのかと有斗は納得した。ということは今回はオーギューガの助力も得られないということになる。
ますますカヒは持てる力の全てを畿内に振り分けるに違いない。
報告では、既にカヒの先遣隊が河北に侵入しているとも聞く、そちらからの攻撃にも注意を払わなければならない。
まさかとは思うが河北経由で王都の背後を脅かすように侵攻してくる可能性だってある。
油断していると長征の時の関西の二の舞を演じるのは今度は有斗ということにもなりかねない。
最初に中書省にラヴィーニアが仕事を続ける為に戻り、次に有斗いじりに
「荒民となる者だけでなく、死者もでているとのことです。ですから義倉の開放の許可を求めているようですね」
アリスディアは今日も字が読めぬ有斗に代わって公文書を読み上げていた。
「・・・・・・」
有斗から上奏書に対する質問も答えも返ってこないことに不審を抱き、アリスディアは思わず顔を上げた。
「陛下?」
有斗は執務机に頬杖をついて、何か深く考え込んでいるようだった。アリスディアの呼びかけにも一切反応が無い。
「陛下、いかがなさいましたか?」
「あ・・・うん、ごめん」
アリスディアが身を乗り出して再度声をかけると、有斗はようやく自分が話しかけられていることに気が付いた。思わずびくついた有斗にアリスディアは優しく微笑む。
「今日はこの辺りにいたしましょうか」
連日深夜遅くまで公務を続けて疲労もピークに達しているのであろうと、アリスディアは有斗を気遣い、そう言った。
「いや、まだもう少しやるよ。カヒとの戦が近い。そうなったら、しばらくまた政務など取れない。政務の停滞は朝廷や民衆に迷惑をかける。今のうちに少しでも進めておかないと」
本当に陛下はご立派になられた。自身のことより国やそこに住まう臣民のことを考えている。
アリスディアはこの声を、いまだ宮廷のことを知らぬなどと陰口をたたく朝臣たちや、豪華な宮殿に住み贅沢三昧な生活を送っていると
「ご立派なお考えです。この
深々と腰を折るアリスディアに、有斗は慌てて手を振ってそんなことはする必要はないと否定した。
「それになんか・・・アリスディアに
今でも文字が読めない有斗に代わって上奏書を朗読することを始め、身の回りの世話から書類の管理、奏上の取次ぎなどを全て仕切ってもらっている。アリスディアがいないと何もできない有斗だ。そのことを有斗よりも知っているのは、他ならぬ世話をしている当人のアリスディアであろう。
であるから
「まぁ・・・もったいないお言葉です」
その謙虚な姿にアリスディアは袖で笑みを隠して一礼する。
「陛下、少しお話よろしいでしょうか」
「・・・何?」
「最近、前に比べるとお一人で考え込まれることが多くなられました。何かにお悩みでしょうか?」
「うん・・・そうかな?」
考えているか考えていないかといったら、考えているんだけど・・・
そんなに考え込んでいるように見えるのか、外に出さないように気をつけていたつもりだったんだけどな。アリスディアによけいな心配かけちゃったな、と有斗はひとしきり反省する。
「そうです。よく考え込まれているお姿をお見うけします。もしわたくしのような者でもよろしければ、お悩みをお聞かせくださいませんか? わたくしはアリアボネのように難問を解決することは到底できませぬが、悩みは人に話すことで軽くなると申します。少しは気がお晴れになるかも」
「・・・」
アリスディアの勧めにも、黙り込んで見つめるだけだった。
その視線に何か踏み込んではならない、拒絶の意のようなものが含まれていると勘違いして、アリスディアは目線を伏せ有斗に頭を下げる。
「無理にとは申しません。わたくしめ如きが余計な差し出口をいたしました。お許しください」
アリスディアにそこまで言われたら、有斗としてもこのまま黙っているわけには行くはずもない。
「いやいや、別にアリスディアに隠し事があるわけじゃないんだよ」
有斗はアリスディアのその思い違いを修正しようとした。慌てて打ち消しに入る。
「悩んでいるのは近づいているカヒとの戦のことだよ。向こうから攻めてきたんだ、これは逃げられない。今度は敵はどういう手段を取って王師を撃破しようと企んでいるのだろうか、また僕はどうやってカヒを破ればいいのか考えていたんだ」
それはアリスディアの守備範囲外だ。でも朝廷にも王師にもそういったことに詳しい人物は数多くいる。一人で考えこまずに、彼らに意見を聞いたほうがいいのではないだろうか?
「ラヴィーニア殿や武部省の方々、王師の将軍たちにお聞きになったらいかがでしょう?」
「既に聞いている。籠城策、大河を越えてくる敵の補給を絶つ策、敵兵を分断し各個撃破する策とか・・・いろいろあるんだ」
「迷っておいでなのですね。ならば今一度もっと意見を得るために下問なさっては?」
お一人で悩まれるよりも、有意義であるように思えた。
だが有斗はそのアリスディアに向けて
「下問してもたぶん答えは同じだと思う。どの意見も一長一短があり、それなりの説得力を持っている。僕が迷っているのは、どんな策があるかということではなく、どの策を取るかということなんだ」
「それも含めて皆さんとお考えになったらいかがでしょうか?」
「・・・でも最後に決めるのは僕だ。僕が王なんだし。全ての責任は王にあり、したことの結果も王に返ってくるのだから。これは他の誰でもない、僕の戦なんだから」
これは有斗が望んだものの為に、天下を手中にしようとする戦いだ。
間違った選択をすれば有斗の為に働いてくれる王師の将士の命が無駄に散る。そして有斗の首も飛ぶことだろう。そんな大事なことを他人任せにしてはいけないのだ。
「これは失礼を申し上げました」
有斗に
「そんなこと無いよ! アリスディアの言葉は悩む僕を援けようとしてのことだ。それは本当に嬉しいよ。それに有難う、僕のことを心配してくれて」
アリスディアは誰よりも有斗に優しい。それがアリスディアの優しさから発せられたもので、好意から発せられたものでないことは残念だけど。
「緊張しておられるのですか?」
「緊張しているかしていないかと言ったらしているよ。だって韮山で僕はアリアボネやアエティウスに教えてもらったこと全てを使って実践して見せたんだ。今、考え直しても、あの策以上の策は僕には出てこない。それをカトレウスは容易く破って見せた。その男が全力を挙げて近畿へ侵攻するという。僕はどうやったら彼に勝てるのだろうか不安でいっぱいだよ」
「陛下・・・」
アリスディアは無力な自身を悔しく思う。自分がアリアボネであったなら・・・この苦境においても支えてあげられるのに、と。
顔を曇らせたアリスディアに有斗は笑って見せた。
「大丈夫、僕は勝つさ。いや、勝たなくちゃならない。セルノアの犠牲を無駄にしないためには勝つしかないんだ」
アリスディアは突然、予期せぬ名前が出てきたことに驚いて、目を丸くして有斗の顔をじっと凝視した。
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