第209話 第三次河北征伐(Ⅹ)

「全軍に通達! 左右に分かれて急ぎロガティアに向けて転進せよ。街道を向かってくるカヒの本隊に追いつかれて不利になる前に兵を退く。殿しんがりはガニメデ隊とプロイティデス隊。ガニメデ隊は街道に陣取り敵を食い止め、プロイティデス隊は丘の上に陣取ったまましばらく援護させよ」

 脳内に仕舞い込まれた地図を広げ、手早く撤退の段取りを決めると、各部隊に軍使を送り通達する。

 おそらく撤退は一筋縄ではいかないだろう。今でこそ王師に囲まれて劣勢に立たされているバルカ隊だが、バルカ隊を押さえつけていた重しが除けられるにしたがって、勢いを取り戻し、今度は攻勢に出ようとするはずだ。

 はかますそすがり付いてでも王師の退却を阻止すべく動くに違いなかった。

 困難な撤兵になるだろうな、とエテオクロスは唇を真一文字に結んだ。


 だが王師の撤退を阻もうとするバアルにもそれほど余裕は見当たらなかった。

 まず手元に兵がない。周囲にいる兵は既にほとんどバアルの命令を聞こうともしなくなっていた。一回バアルの指揮下を離れた兵だ。戦場でもう一度従わそうとしても、興奮しきった頭ではそれはなかなかに難しいだろう。

 今、バアルの指示に従い戦ってくれる兵は二千ほどの数でしかなかった。

 二千の兵はちょっとした戦力ではあるが、二万を超える敵の逃げる足を止めるには少なすぎた。

 しかもバアルの周囲は敵だけではない。先程までバアルの指揮下にあった味方の兵が横にも後ろにもいるのである。

 敵に喰らいつこうと思って、後ろに振り返って追撃しようにも彼らが行く手を阻む。ならば一旦前へ出て左右から回り込んで敵後備に襲いかかろうとしても、彼らはバアルらがせっかく苦労して敵を排除し開けた空間に入り込んで、これまた行く手を阻んで邪魔をする。むしろ勝手気ままに行動する彼らこそがバアルの行動範囲をせばめ、王師の撤退を援けていた。だが命令を聞かぬからと言って攻撃する訳にも行かないのである。彼らは今でも味方なのだ。

 彼らはあくまでカトレウスの命を受けてバアルを手助けするといった扱いなのである。完全な指揮下にあるわけではない。彼らには命令を聞く義務も無ければ、彼らを罰する権限もバアルには無いのだから。

 他にも、この一帯の制高点でもある丘を手放したことも地味に痛かった。

 プロイティデス隊は撤退の命を受けると、バルカ隊へ突撃をして接近戦を挑む愚は冒さなかった。動きまわるバルカ隊に対して丘に陣取り最小限度の動きで牽制し、距離を保ちつつ、味方の撤退を援護しようとした。

 バアルの隊はいいように矢で射られた。射られただけならまだ良かったのだが、バアルの指揮を離れた諸隊がその射撃によってますます混乱状態におちいり、算を乱して更に戦場を手の付けられない状態にしていた。

 おかげでほんの目の前にいる王師の兵が易々と逃れ行くのを防ぐことができなかった。

「ええい! 土壇場でバルカ卿を信じないだけでなく、無茶苦茶な動きをして味方の行動を阻害するとは! 援護に来てくれた本隊と敵を挟撃する好機だというのに、浮き足立ちおって! これが同じカヒの兵だと思うと口惜しい!」

 パッカスが悔し涙を流してバアルに謝する。

 もしバアルが七千の兵力を完全に掌握したまま、その場に残っていたならば王師もかくも容易く突破などできなかったであろうと思うと、パッカスは味方の醜態が恥ずかしいやらすまないやらで、感情を上手くコントロールしきれないようだった。

 とはいえ敵はさすがは王師といった後拒こうきょを見せた。

 エレクトライがさっと下がると同時に王師の戦列は真ん中から二手に別れ、ベルビオ隊は左手からザラルセンの位置する丘の背後へと回り込んで兵を退かせ、エテオクロスとエレクトライは右方向に進み、街道に入って東へと馬首を向けた。

 少しでも安全な位置に逃れることしか頭に無い味方の兵に邪魔されながらも、バアルは指揮下の二千の兵を半回転させエレクトライ隊の最後尾に接するように近づく。

 だがそこには王師の撤退を援護する殿しんがりとしてガニメデ隊が街道をサザエの蓋のように塞いでいた。

 逃げる敵を追いかけてきたバアルの騎馬隊はそのガニメデ隊とぶつかり合った。

 一瞬の静止、だがたちまち勢いに押されてガニメデ隊は後退する。だがいかんせん二千という数ではやれることには限度があった。ガニメデが幾段にも敷いた迎撃陣と、丘上のプロイティデス隊からの援護射撃とに兵たちは次々と足を止める。

 これはまずいとバアルは体勢を立て直すために一旦兵を退こうとした。

 だが獣が獲物を狙うように、ガニメデはその瞬間をじっと待っていたのだ。一旦距離を取ろうと後ろを向いたバルカ隊にプロイティデス隊は容赦なくありったけの矢を降らせた。次いでガニメデ隊が大きく崩れたバルカ隊に襲い掛かると、五十メートルも追い払う。

 その追撃で敵戦列がバラバラになって組織立った動きが取り辛い状態になったことを確認すると、ガニメデは兵を整然と纏めてゆうゆうと街道を東へと退いていく。


「もう一度、追撃しましょう!」

 そう主張するパッカスを尻目に、バアルは悔しそうに馬上から去りゆく王師の旗を見つめるしかなかった。

 ガニメデの攻撃を後方より受けた兵は混乱して四方に逃げて散らばってしまった。後で聞いた話ではなんと三里も逃げた兵もいたとか。

 もはや付近には僅かな兵しかいなかった。五百いるかどうかといったところだ。

 もちろんここにバアルが軍旗を立てている以上、やがて死の恐怖に駆られて逃げ出した者たちも、気が落ち着けば戻ってくるだろう。街道の西に見える河東遠征軍本隊もまもなくここに到着するだろう。

 だがその頃には王師は遥か遠くに逃げ去っているに違いない。

「いや・・・その好機は逃しただろう。今日はここまでだ」

「・・・残念です」

 バアルの言にパッカスが悔しそうに下唇を噛んだ。

「なに、また直ぐに王師と戦う機会はやってくるさ」

 だがバアルはその時、別のことを考えていた。

 後拒こうきょを見せたあの王師の旗だ。頭の片隅に何かひっかかるものを感じた。

 鷲の翼と上半身、ライオンの下半身をもつ伝説上の生物が描かれたその旗には確かに見覚えがあった。あの旗・・・たしかどこかで見たような気がするな。だがしばらく考えても、はっきりとは思い出せなかった。

 単なる記憶違いだったか、とバアルは小首を傾げると、それを忘却の彼方へと追いやった。


 やがて敗走していた兵も戻り、辺り一帯はカヒの旗で埋め尽くされた。

 一槍も交えていない本隊の兵は、追撃したそうなそぶりを見せたが、総大将であるガイネウスがそれを許さなかった。

「バルカ卿のいうとおりであろう、今から行っても、とても追いつけぬ」

 それにデウカリオ、バアル旗下の兵は疲れが頂点に達している。今の軍は合計九千の兵が戦闘不能なのである。ここは抗戦を避けるべきであろう。

「おおデウカリオ殿、ご無事で」

 ようやくデウカリオが逃げた兵を纏め上げて帰還した。

「ワシが背後から強襲をかけたのに、敵を打ち破れなかった。スマン」

 広言を吐いて単騎駆けをしたものの、敵の逆襲を支えきれず敗走するハメになったデウカリオは、少し面目なさげであった。悄然と頭を下げた。

「相手に背後から襲い掛かり、敵陣を乱しただけでも素晴らしい活躍です。おかげでバルカ卿の兵の多くが死なずにすみました」

「そうです。それだけでも十分殊勲と言えましょう」

 ガイネウスとサビニアスは揃ってデウカリオを元気付けた。

 しかし、とバアルは考える。

 確かにバアルたちにそれほど被害が出なかった要因の多くは、デウカリオ隊の奮戦にある。それには感謝せざるをえない。

 だけどそれとはまた別で、もう少し多くの兵で、きちんと戦列を形成さえしていたら、勝利できたのでは、と思わずにはいられなかった。例えば本隊の中から騎兵だけを選りすぐって先行させていたならば、とか。

「もし騎兵だけでも、もう少し早くこの地に到達できていれば、王師の殲滅も可能だったのですが・・・」

 思わず口にしたその言葉にデウカリオは激昂した。

「それは二千の騎兵を率いて惨敗したワシにたいする当て付けか!?」

「いえ、別にそんなわけでは・・・」

「ではどういうわけだと言うのだ!? ワシはそなたを助けようと馬を酷使してまで駆けつけたと言うのに、その返礼がこの暴言か! 感謝ということを知らんのか!」

 デウカリオがバアルに殴りかかる直前、ガイネウスとサビニアスが間に慌てて割って入り、二人を引き離した。

 怒りが収まらず怒鳴り続けるデウカリオから距離を取ろうと、サビニアスはバアルの袖を掴んで本陣から出てもらう。三十メートルは離れたのに、デウカリオの罵詈雑言はそこまで響いていた。

「バルカ殿、デウカリオ殿は今日は気が立っておいでだ。許されよ」

「許すも何も・・・私にはデウカリオ殿に感謝こそすれ、憎む理由など一つもございません」

 単に言葉の意味が正確に伝わっていないだけなのだ。

 バアルにデウカリオを辱める意図はまったくなかった。だから今は王師をその手で打ち砕けなかったという怒りがデウカリオの脳を正常に働かせていないんだろう、といったふうに気楽に考えていた。

 だがサビニアスはそうは思わなかった。

 デウカリオは一旦こうと決めたら、人に譲らない頑固な性格の持ち主だ。例え理でバアルの言葉を理解しても、一度嫌った感情を優先させるのではないだろうか。

 仲間内での不協和音、これから面倒なことにならねばいいが、とサビニアスは溜息をついた。


 この戦の勝敗の判別は難しい。

 双方それぞれ痛みを分け合った。

 だが渡河を見逃し、ロガティア伯領に王師の兵を入れてしまったという結果を考えると、カヒの負けともいえる。

 といっても素直に敗北したと認めるわけにはいかなかった。カヒが王に勝つには、いくら諸侯を取り込めるかにかかっている。

 諸侯がカヒについたのはカヒのほうが王よりも力があると思ったからなのである。ここで負けを認めると諸侯の中から離反者が出かねなかった。

 そこでカヒが選んだのは戦果を誇張し、敗北を覆い隠すという古くからある手法を取った。

 敗北とも勝利ともつかぬ実態を糊塗ことすることに決めたのだ。

 ロガティア伯の救援に赴いた王師を前後から挟撃し、多大な被害を与えることに成功した。最後には王師は支えきれずに戦場を離脱、逃走したと大いに喧伝したのである。

 戦地を最後に確保したのがカヒで、王師がロガティア伯の城に入ったまま動こうとしないという現実が、それに幾分かのリアリティを持たせていた。

 それははっきりとした目に見えるほどの変化をもたらしはしなかったが、諸侯の心に幾分かの影響を与えることには成功した。

 ロガティア伯などは来た当初は今にも土下座する勢いで感謝を表していたのに、最近では、このままではロガティアが戦場になってしまう、早く出て行ってくれといわんばかりの態度だった。


 ロガティア伯がそういう態度ならば留まる理由は無い。いつ敵に寝返るか分からない諸侯と同じ城にいることは危険でもある。

 エテオクロスは一旦、河北の中心都市である慶都に帰還することにした。

 とにかくロガティア伯を援けたという大義名分は得られたのだからいいではないかということらしい。幸い、王師に芳野と河北を繋ぐ糧道を押さえられたらまずいと思ったのか、カヒはロガティア伯領と芳野を繋ぐ直線上に兵を退いて布陣させている。退路は空いていた。

 王師は闇夜に紛れて街道を西へと進んだ。

 そこに王からの召喚状が突如、舞い込んだ。

 カヒが配下の諸侯に召集をかけて近畿へ向かっているらしい。今現在東山道を陸続と行軍中であるとのこと。各地の諸侯と王師は可能な限り急ぎ王都へと参集せよと書かれてあった。

 だが簡単に言ってはいたが、こんな状況で迂闊うかつに兵を退くことなどできはしなかった。

 撤退したら河北はカヒの手に落ちる。河北のカヒ兵が王都まで追って来る可能性も高い。

 そこは善処せよということなのだろう。だから全軍撤退ではなく、可能な限り集まるようにと書いているのであろう。

 しかし王都に兵を返さねば王は負ける。だが河北にもカヒが攻め込んできている。その兵が王都に向かうことを食い止めるためにも河北には兵がいる。

 この二律背反する二つを同時に解決することはできるのか?

 諸将はむっつりと黙り込んでしまった。

「用は河北へ来たこのカヒの分遣隊を王都に向かわせなければいい」

「それはそうだが、簡単じゃないぞ」

 二万五千もの兵に対峙するには同じくらいの兵数が必要だ。となると余剰戦力は四、五千である。

 かといって四、五千の兵を王都にやってもそれほど効果があるとも思えないし、兵の減った王師がカヒの河北分遣隊に敗れないとも限らない。

 しかし全部隊を持ってしても、今すぐカヒの河北分遣隊に勝てる見込みはそう大きなものではない。

 それに焦って攻めかかる行為は、敵の思う壺であろう。

 だからと言って王都に王師の軍を送らないと、王は間違いなく敗れる。

 皆、思考の迷宮に迷い込んだように、暗く沈んだ顔を見合わせあった。

「私がやろう」

 その空気を打ち破ったのはガニメデの明るい声だった。

「勝つ必要も敵を追い出す必要も無いのならば、不可能じゃない。私が残ろう。皆は兵を率いて直ぐにでも王都に出立すれば良い」

 どういう目算があるのかはっきりしないが、ガニメデはそうこともなげに言い放った。

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