第208話 第三次河北征伐(Ⅸ)

 その後も王師とバアルの間では一進一退の攻防が続いた。

 この丘が中途半端な急峻さを持っていることが、良い方にも悪い方にも双方に影響していた。歩兵が簡単に攻めあがることができ、攻め口を固定できるほどの急峻ではない。そして馬が駆け下りれないことは無いが、駆け上がるにはちと難しい。

 もう少し険しければ攻め口が限られ、陣地防衛する側が格段に有利になるし、もう少し緩やかなら惜しみなく騎馬突撃を使えるのだ。

 それでも若干の有利さは高所に布陣したバアルらにあった。

 下馬をしたカヒの兵は兵数の差にもかかわらず王師の歩兵と五分の戦いを繰り広げられていた。

「やはり・・・な」

 兵数の不利よりも地形の利のほうが大きいのに五分だということは、馬を降りたカヒの兵は王師に劣るというわけだ。バアルはそう判断した。

 とはいえ全員を馬に乗せ、駆け下りて戦うわけには行かない。兵数に圧倒的な差があるのだ。もし敵戦列の突破に成功しなかった場合、馬では丘の上に簡単には戻ることができない。バアルたちを待つ運命は全滅でしかない。

 まだそんな一か八かの賭けを行う危急の段階に陥っているわけではない。ここは我慢のしどころだな、バアルはそう考えていた。


 一刻の時間が過ぎ去る。

 後背に回り、退路を塞いで動揺を誘おうというプロイティデス隊の陽動にも、丘の上のカヒ兵は反応しない。しぶとく粘り強く戦い続け、王師の兵を辟易とさせた。

 一刻あまりの時間をも戦い続けたのだ。兵の息だけでなく、乱れた陣形も整えなければならない、王師は攻撃もまばらになる。

 膠着こうちゃくする戦況を動かそうと、エテオクロスは前線に出て直々に指揮をすることで、味方を大いに鼓舞することを試みた。督戦とくせんするように牙旗が丘の真下近くに立てられると、鈍くなりかけていた王師の勢いが、雨後の草原のようによみがえった。

 兵は百人隊長の支持の下、武器を手に取り隊列を組み、坂を再び駆け登る。

 一箇所だ、一箇所だけでいい、丘の上に一箇所でも橋頭堡を確保しさえすれば、とエテオクロスは思う。

 そうすればそこを足がかりに兵を次々と投入すればいいだけだ、高所に布陣するという敵の優位さは消えうせる。

 後は数の論理がものを言うだろう。王師が必ず勝利する。

 王師は全域で敵をひた押しに押している。疲労は王師だけでなく敵にも確実に圧し掛かってきている。このまま押していけばいい。先程よりも王師の勢いは増している、将兵はその確かな手ごたえを内心感じつつ丘を這い上がる。陣形はやや前掛かりとなった。


 王師の後方で不意に大きな悲鳴が上がった。

 それは鶴翼の陣を敷いた王師のかなめ、中央部の後方から聞こえた。

 エテオクロスを始め諸将は一斉に後方を振り返った。

 そこには、騎馬武者が二人、三人と小さな塊となって、赤い旗をなびかせ、街道を東に向かって来る姿があった。だがその小さな塊はそれ一つだけでなく、ここ、そこ、あそこと偏在し、街道上にぼやっとした赤黒い大きな何かの塊であるかのように鎮座していた。それらがまとまった時の数はいかほどになるのか容易には想像できない。

 騎馬は揃えたように同じように黒に塗られた鎧を着、深紅の旗を翻えし疾走する。中に黒い大きな菱、その中に小さな菱が四つ。大菱旗、カヒの軍旗だった。

「もう来たのか・・・!」

 早い。朝靄に紛れた渡河についでの東行、一旦姿を見失ったカヒ河北遠征軍の本隊が王師の行動を掴んで追跡するには、半日は猶予があると思っていたのだが。

 とにかく急いで対処しなければならない、怪我が大きくなる前に。

 そうは思うが王師の陣は全て丘の上のバアルの分遣隊に対峙するように丘の根元に折り敷かれている。しかも全体として前掛かりになっている。

 エレクトライが慌てて丘に注ぎ込むべき兵力を後ろに振り向ける。前面に構成すべき陣形を、反転して陣の後ろに回りこませる、しかも混乱の最中にだ、戦列を完全に組むまでには至らなかった。

 その戦列の乱れたところにピンポイントで合わせる様に黒い鎧に赤い旗の兵は戦馬の馬首をじ入れる。

 いくら戦馬の本場の河東とはいえ、慣れた戦馬は得がたいものだ。一匹で米十五石は最低する。その馬を惜しげもなく危険にさらす、その心胆たるや見事の一言に尽きる。

 いやそれだけではない。王師に比べるとほんの一握りの、僅かでしかない数にも関わらず、瞬時の迷いすら抱くことなく敵に立ち向かえる、その強靭な精神たるや、見事などと言う範疇はんちゅうを遥かに凌駕りょうがしている。

 彼らは信じているのだ。己の力量を、そして後ろから味方が次々と駆けつけ、彼らに続くであろうことを。


 これがカヒの名高い五色備えか───!


 エレクトライ隊は後方から叩きつけられたその最初の騎馬突撃を、複数の戦列を持って封じたかに見えた。

 だがその後方から行われた攻撃の呼吸に合わせるように、丘上に布陣していたバアルが動き出した。

「騎乗せよ! 魚鱗ぎょりんの陣形を取って、敵後方より来る味方と息を合わせる! 敵戦列を分断すれば我々の勝利だ!」

 角笛が幾度も鳴り響き、鼓の音が坂を降りる兵たちの心を激しく波打たせる。

 騎馬は坂を下り降りるというよりは、山津波のように滑り落ちた。

 王師の戦列は大海の波を防ぐ防波堤のようにそれを支えようとしたが、それはまるで砂の堤防であるかのようにたちまち彼方此方あちこちで崩壊する。

 それだけバアルの行った突撃が苛烈かれつだったのだ。

 街道に布陣しているため、前後から挟撃される形になったエレクトライ隊は極度の苦戦に陥った。

「こらえろ! 丘上の敵は我が方に包囲されており、背後から来た敵兵の数は決して多くない! この一刻を支えたなら、勝利は必ずや我らの手に入ってくるのだぞ!」

 そう、しかも敵は馬に乗って突撃してきた。有利な高所を捨てて平地に降りてきたのだ。

 ならば今までのような攻防にはならない。数の多い王師に囲まれ、やがて打つ手をなくし全滅することだろう。

 だがエレクトライ隊が突破され王師が中央突破されることがあれば話は別だ。カヒはどちらかの翼を選んで包囲殲滅することができる。全滅するのは王師ということになりかねなかった。ここは何が何でも支えきる。

 そのエレクトライの気迫が兵士たちに乗り移ったかのだろうか、第九軍は躍動し、騎馬相手の戦にも怯まず戦い続ける。

 バアルも必死に戦列を突破しようと、何度跳ね返されてもむことなく突撃を命じ続けた。

 だが突き破るにはあと一息足りなかった。包囲されている以上、バルカ隊は側面からも攻撃を受ける。正面の敵だけに専心できない。

 兵力が欲しい。一万などと贅言ぜいげんは言わない。突き破る為の三千・・・いや二千あれば、王師を分断し、勝利をその手に手に入れて見せる。

 また突撃を行おうにも敵戦列と自戦列は鼻面をつけ合わしたかのような近接距離、十分な加速を得られるだけの空間が得られず、突撃の効果も薄かった。

 失速した矢がもろいように、騎馬も速度という武器を封じられると優位さは消えうせる。

 バアル隊は再び王師の戦列の中に閉じ込められる形となった。今度は先程と違って高所に陣取るといった地形の恩恵を受けることはできない。

 しかも後方の丘には回り込んでいたプロイティデス隊が今や空き家となった頂上を占拠していた。彼らが袋の口を閉めるようにバルカ隊の後方をやくすれば、それが戦を決定付ける致命の一手となるだろう。

 バアルの兵たちに大きな動揺が見られた。

 だがそれでもまだ希望はある。援軍が街道を続々と駆けつけてきているのだ。きっと背後から王師の部隊は崩れ去るはず。

 エレクトライ隊の後ろにいる味方を信じて苦闘を続けていた。

 だがその頃、デウカリオの黒色備えもバアル隊以上に形勢が悪くなっていた。

 バアルが丘を降りたことによって遊兵となっていた一部の軍をガニメデは、エレクトライを挟撃していたデウカリオ隊へと振り向けたのだ。

 ガニメデの攻撃は巧緻こうちだった。

 兵列を街道の横に出し西へと逆進させ、エレクトライ隊の攻撃に被せるようにデウカリオ隊に襲い掛かる。

「ええい! 敵の主力は歩兵ではないか! カヒの黒色備えの名に恥じよ!」

 デウカリオの絶叫も兵士の耳には入らない。戦列もない兵の塊だ。横槍を入れられては自分の命を守るだけで精一杯だった。

 デウカリオは凡将ではない。黒色備えはカヒきっての精鋭と言ってよい。もしそれが二千の数の総員全てを持ってして王師の後背に一斉に襲い掛かって来たのなら、きっと王師は中央突破され、敗北していたことだろう。

 だが陣形も整えずに長駆してきたデウカリオの部隊はてんでばらばらだった。陣形どころか戦列も無く、まさに兵力を逐次投入する形になってしまったのだ。その細く途切れがちに前後に伸びた列は、横槍を入れられたことであっけなく寸断されてしまったのだ。

 デウカリオ隊は多大な被害を出して、このまま攻撃を続けることを諦めざるを得なかった。兵を一旦退ける。

 これを見て、ここまで健闘を続けていたバアル隊に大きな変化が訪れた。

 バアルの兵はカヒ二十四翼の兵だけでなく、諸侯の兵といえどバアルの指揮にも従い動くだけの高い錬度を持った兵だ。

 だが所詮は借り物の兵、優勢な間はバアルの指示にも従うが、劣勢になると命まで差し出して命令を聞くほどの義理も恩も無かった。

 デウカリオはカヒに名高い四天王の一角、それが崩れ去る様を見た兵士たちは恐怖に駆られて、もはや戦どころではなくなったのだ。

「あと少しだ! 援軍と合流できれば活路が開ける!」

 だが諸侯の中にはバアルのその命令を聞こうとしない者も現れた。このままこの若造の命令を聞いていては死んでしまう、包囲網を打ち破ろう、と勝手に攻撃を始める。

 それどころか諸侯の命も聞かず、自身の判断で戦場を往来しようとする兵まで現れる始末だ。

 だがそれらの行動はバアルたちに活路を与えてくれるような方向には働かず、王師の兵に力を与えただけに終わってしまった。

 総大将の命令を聞かなくなるというのは、末期的な軍に共通する特徴である。

 バアル隊は死傷者を加速度的に増やしていた。このままでは負ける、バアルがそう思った瞬間だった。

 エレクトライ隊が急にざわめき出し、兵たちは後方を振り返る。

「後方よりさらに敵影!」

 エレクトライ隊から聞こえたその声に釣られるように、バルカ隊は一斉にエレクトライ隊の向こうを覗き見した。

 そしてそこに多数の赤い旗が風に棚引いているのを見て、生気を取り戻したように喚声を上げた。

 先程と違い、今度は遠めにもはっきりと分かる赤の旗の数から、そこにやってきたものが大軍であることは想像できた。

「なんだと・・・!」

 エレクトライは呆然とした。まったく無傷の大戦力が敵に加わったのである。バルカ隊だけで苦戦を強いられている王師にとっては大いなる脅威である。

 今度は王師が動揺に包まれる番だった。このままではバアル隊と背後の軍とで完全に挟撃される。

 もちろんどちらか、というよりは兵の少ないバアル隊を壊滅できたなら、今度は翻って背後の敵を討ち、各個撃破することは可能であるが。

 もし王師にまだ予備兵力があったならば、エレクトライ隊の後方に回し、バルカ隊を葬るまでの時間を稼ぐのであるが、今まわせるのはせいぜいが二百か三百。

 万を超えるであろう敵に当たるにはあまりにもその数は少ない。時間稼ぎをするどころか、触れた瞬間、撃砕されてしまうであろう。

 それにバルカ隊は周囲を敵に囲まれ、三倍以上の戦力差、高所の放棄、援軍の敗退、これらの不利を受けても、まだ戦い続けていた。

 恐るべき粘り腰だ。これを短時間で破るのは容易くない。いや、至難の業であろう。

 左右に翼を広げバルカ隊を包囲した王師の布陣は厚みを減じている。前後から攻撃を加えたならどこであっても切断は容易い。

 そうなった時、王師は退勢を踏みとどまることができるものだろうか。エテオクロスにはその自信が無かった。勝敗の見通しが立たないのであれば戦うべきではない。

 決断を遅らせれば命取りになりかねない。ここは後背に敵が食いつき、退却が不可能になる前に引くべきだ。

 エテオクロスはそう決断した。

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