第207話 第三次河北征伐(Ⅷ)
一瞬、想定していなかった報告に我を忘れて呆然としたバアルだったが、すぐさま我に戻ると、その言葉が意味することを全て悟った。
「そうか、その手があったか」
苦々しげにひとりごちる。
川の向こうにカヒの河北侵攻軍がいる以上、そこよりさらに東に位置するロガティア伯を救出するには、王師は川を渡ることと、目の前の河北侵攻軍を排除する必要がある。そう決め付けてしまっていた。
だがそれも仕方が無いことだろう。なぜならまずカヒの軍勢と川を挟んで対陣しているのだ。
川を中ほどまで渡った敵を討つ、これは兵書に記載されているほど初歩の初歩。であるからそれがカヒ側の
だが川の淵にいまだ位置する軍は背水の陣となりかねない。まずは川から離れて一息つきたいところだ。それには近くに存在する敵軍が邪魔なはずだ。すぐ襲い掛かって来られたらたまらないし、それに今度は逆にカヒの軍が川を渡って王師の後背を押さえる危険性に目が行くであろう。
輜重を断ち切られる、その不安から渡り終えた兵をすぐさまカヒの陣営に攻めこませるはずだ。
彼らにとって幸いなことに分遣隊を出したカヒの河北侵攻軍は王師全軍より遥かに劣勢な兵力になったのだから、王師が遠慮することは無い。
敵将はそういった思考で行動するはず。
そこですぐさま分遣隊を戻して王師を挟み撃ちにする。それがガイネウスが立てた計略であった。
敵がその計略に気付いて渡ってこなかった場合のことは考えていたが、まさか分遣隊のほうに襲い掛かってくるとはバアルもその時は考えもつかなかった。
後背に敵軍を無傷のまま放置しておいては補給線が断ち切られるのだから。
だが、よく考えてみればその可能性は無くは無かったのだ。
もしロガティア伯を救出するだけ、もしくはロガティア伯を救出しようとしたという名目が欲しいだけならば、敵を全て排除する必要は無い。分遣隊を破りさえすればいい。
それどころか分遣隊を撃破できなくても、ロガティア領に兵の片足でも踏み込みさえすればよいのである。
もちろんそうなれば我々は当然のように敵の補給線を断ち切ろうとするだろうが、だがそうすれば王師もカヒの補給線を断ち切ろうとするのである。
河北拠点→王師 ⇔ 河北侵攻軍←芳野
と、なっていたのが、場所を入れ替えて、
河北拠点→×河北侵攻軍 ⇔ 王師×←芳野
と、なってしまうのだ。
こうなると両者とも補給を絶たれ五分と五分、どちらにとっても不利な条件であるだけかに思えるかもしれないが、実際はそうではない。
まず補給線の長さが違う。これだけでもカヒは大きなハンデを背負っている。そして何よりも補給経路の数に大きな差があるのだ。
その気になれば大きく迂回さえすれば、時間と手間はかかるがいくらでも補給が可能な王師に対して、カヒは芳野から河北に通じる道はただ一つだ。そこを押さえられたら全てがお仕舞いなのである。
それに王師はホームで戦っているのだ。地元の諸侯や民から
だがカヒにはこれを期待するのは無理だったのだ。
これまで河北の流賊に対して何かと後援し、河北を散々引っ掻き回したことが、河北の民の怒りを買っていたからだ。
「ぬかった」
これは自分のミスであった、とバアルは痛烈に自己批判する。ガイネウスの策は道理の通った策であったし、自分は客将だから要らぬ差し出口を挟まぬほうがいい、などと考えたのが間違いだった。
深く考えようとしなかった。これが
だが反省は後回しだ、とバアルはすぐさま思考を切り替える。今は自身と預かった七千の将兵を無事に帰すことだけを考えなければならない。もちろん、なろうことなら勝利できるなら言うことはない。
「この可能性があったのに見過ごしていた。私の失策だ」
「で、どういたします?」
未だパッカスは混乱収まらぬ顔でバアルを見ていた。だがその不安げな面持ちが逆にバアルに冷静さを保たせた。
七千の将兵の命が自身の双肩にかかっているという義務感、誇りがバアルに不安や困惑といったものの中に耽溺することを許さなかったのだ。
「どうもこうもない。ここで迎え討つ」
「一旦、距離を取ってはいかがでしょうか? 幸いこちらは騎馬です。敵を引き離すことは無理筋じゃない」
その間に良策が定まるかもしれないというわけだ。
だがこのまま逃げても戦局は好転しない。それに我々が逃げ去った後、再度反転して遠征軍の本隊を叩こうとしたら問題だ。
我らは逃げることに注力するあまりに、そのことに気が付かないかもしれない。少なくとも敵の行動を把握することは遅れるだろう。
しかも本隊から我らに急を告げる使者を送ろうとしても、我らがいる場所が掴めない。
そうなれば孤立無援の河北侵攻軍の本隊は数で圧倒する王師に敗北する可能性が非常に高いのだ。
であるならば・・・
「いや、それよりも我々はあえて一見死地に見えるこの場に留まり、敵をしばし防ぎ留めるべきではないだろうか? ガイネウス殿やサビニアス殿やデウカリオ殿がいるのだ。必ず何が起きたのか把握し、全軍を持って敵の後備目指してひたひたと街道を東へと今も向かっているはず。おそらく半日持てば相手を挟撃できる。当初の考えとは大きく異なったが、結果としては王師を前後から挟撃するということには変わりが無い」
まだ十分勝機はある。ならば敵が我らの思惑に乗って川を越えたように、あえて敵の思惑に乗り返して戦ってやろうではないか。
それに野戦であればカヒの兵は王師に劣らないということは韮山で証明済みだ。恐れることは無い。
「はい」
落ち着きのある声で、冷静に分析し、丁寧に説明するバアルに、パッカスはじめ周囲の将校たちも次第に落ち着きを取り戻す。
「いや、まてよ・・・」
バアルは顎に手を当てて考え込む。ロガティア伯領まで通常行程でここから三日、バアルが出た昨日の朝まで王師はこの策を知らなかった。
ならば背後を気にする必要は一切無いと思うが・・・
「念のため街道だけでなく、脇道も塞いでおけ。ロガティア伯に知らせを送り挟撃を企むかもしれない」
「はい、了解いたしました。して布陣はどのように?」
バアルは眼前の丘を指差した。
「街道はその先で小高い丘に面している。その丘を占拠する形で布陣したい。敵が街道を通り抜けようにも丘上の我が軍がいる限り、そこから一歩たりとも先に進めない。敵は戦わざるをえない。高低差はそれほどあるわけではないが、それでも高所に陣した我らのほうが兵勢は有利。数の差を補ってくれるはずだ」
勝つにしろ負けるにしろ勝敗は二、三日でつくだろう。長期戦の心配はない。高所に陣した時、問題となる水の心配はそれほどしなくても済む。
勝った場合は水の豊富な陣営地に戻ることになるし、負けた場合は水の心配などしている場合ではないのである。
冬枯れの山を左手に望んで、王師はエレクトライ、プロイティデス、エテオクロス、ベルビオ、ガニメデの順で街道を東に進んでいた。
先頭のエレクトライ隊から敵影を見たという報告を諸隊はすでに受けている。
ここまで接近できたのだ。このまま逃がしてなるものかと、エテオクロスは少しばかり行軍速度を上げ、敵の後備に喰らいつこうと試みた。
敵も逃れられないと観念したのであろう。エテオクロスの目に映る時には、七千の兵を街道に隣接する丘の上に配置し、今や遅しと王師を待ち構えていた。
エテオクロスはエレクトライをまず、布陣が完了するまでの敵からの防波堤を兼ねて、中央に置いた。さらにはその左にベルビオ、プロイティデス、その右を街道を奥へと進んで、エテオクロス、ガニメデと布陣し、鶴翼の陣形で包囲する。
七千対二万五千。兵力差は圧倒的である。
「かかれ!」
まだプロイティデス隊、ガニメデ隊が布陣も終わらぬうちに、エレクトライの号令一下、手に槍を持った王師第九軍の兵がまっすぐに丘の頂上めがけて駆け登る。
ここは勢いで押すべきだと考えたのは無理も無い。エテオクロスもその策を良しとする。
続いてエテオクロス、ベルビオ隊も同じように力押しの我攻めを開始する。
兵たちはケーキに群がる蟻のように密度を増して駆け上がった。
そんな彼らを歓迎したのは、敵からの矢の一斉正射である。二度、そして三度、上方から兵たちを矢が襲う。ぱたぱたと人が倒れ、坂道を転がり落ちる。中には幸運にも岩影に隠れることができたが、周囲の味方がやられて、孤立無援で進むことも退くこともできなくなった者もいた。
あと三十メートル、その僅かな距離を王師は埋めることができなかった。
「行け!
ベルビオが穴の開いた横列を埋めるように次々と部隊を送り出す。
同様の光景はエレクトライ隊でも、エテオクロス隊でも見られた。
損耗を気にすることがないかのような王師の我攻めに両者の距離は縮められ、終に白兵戦に入ろうかといった時だった。
突然、大きな喚声を上げながら手に槍をもった兵士たちが丘の上から坂を駆け下ってきた。
矢によって勢いを殺されていた王師は、その攻撃を支えきれるだけのものをなんら所持しているはずもない。
瞬く間にカヒの兵は王師を丘の下まで押し戻した。いや、それどころか、さらに三十メートル、自軍陣地まで押し戻された者すらいたのである。
「ええい! 返せ! 情けない! 敵は七千、味方は二万五千だぞ! おまえらそれでも王師の一員か!」
ベルビオは腹の底から搾り出したような大声を出して兵を
こうして王師の攻撃を一旦は退けることに成功したが、だからと言ってバアルは一息つくことが許される身ではない。
特にこれからが大変なのだ、とバアルは思った。
王師を押し戻しはしたものの、今度は丘の下まで駆け降りた兵を、丘の上の陣に収容しなければならない。
矢で援護して、敵から背後を狙われないようにするが、敵も
そうなると味方に当てることを恐れ、弓もなかなか射れなかった。
「それっ! 今だ! 逃げる敵に喰らいつけ!」
エテオクロスのその声に兵は応え、再び坂道を駆け上がった。
二度、三度と同じような攻防が繰り返され、カヒの兵も王師の兵も坂の上り下りで膝が笑う。
丘上に布陣した地形の優位さが生きて、戦いの主導権は握ったままであるし、カヒ兵の士気も高い。
まだまだ充分に戦えるが、プロイティデス隊が後方を蓋するような形で回り込みを見せていることもあり、楽観は許されない。
丘の上とはいえ、高所である以外に崖や急坂といった兵の攻撃を制約する何かがあるわけではないのだ。
登り口は無数、どこからでも登ることができる。せめて柵でもあればな、と思わずにはいられない。
手負いの王師も多いが、カヒの兵も死者、手負いの者が増えてくる。おおよそ同じ人数が減っていくとするならば、人数が少なくなればなるほど元の人数の少ないカヒ側が不利になるのは自明の理だった。
バアルは周囲を見渡し怪我人の数をざっと見積もる。そして心の中で呟いた。
もってあと二刻といったところか。
バアルは自軍が壊滅する時間を人事のようにそう算出した。
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