第190話 第二次河北征伐(Ⅷ)

 この北辺への出兵で王師は兵を減らし、物資も浪費しただけで物質的に得るものはなかった。

 だが苦しみながら勝利を拾ったことで兵士たちは韮山で失った兵士としての誇りを取り戻したのである。それだけが唯一の収穫だった。

 再び一丸となった王師は規律正しく素早く行動することが可能になった。

 有斗は将軍たちに命じて兵を督励し足を急がせた。王師は常に違い、一日に一舎を超える驚異的な速度で河北へと南下した。

 その速さはニケーア伯にとって想定外だっただけでなく、諜報を得手とするサビニアスですら掴めないほどであった。

 迅雷のように押し寄せた王師に不意を突かれたニケーア伯軍はなすすべなく敗れ去り、その知らせを聞いたニケーア伯は震え上がって兵を退き城に籠った。

「カヒが助けてくれるという話はどうなった!?」

 ニケーア伯は恐怖を怒りに変えて初当たり気味に怒鳴りつけるが、サビニアスは軽く受け流した。

「そういうお話もありましたかな。河東と河北は遠いのです、今はまだ芳野にいるのかもしれません」

 おかげで有斗はたいした苦労もせずに城を取り囲めた。

「ここは勢いのままに強攻すべきだ」

 有斗は長期戦を嫌い、速戦を主張する。

 兵力的に有利な有斗はこのまま一気に片を付けたかったのである。

 だが強行軍を重ねた兵が疲れ切っていることを有斗は計算に入れていなかった。おかげで初日の攻撃ははかばかしい戦果を挙げれずに早々に兵を撤収するはめになる。

 二日目にいたっては五回もの総攻撃をかけたが、城壁の上にたどり着く者すら出なかった。

 むきになった有斗は三日目も攻撃を続けたが、まったくといっていいほど戦果を上げることができずに夕暮れを迎えた。

 ニケーア伯の城は見かけよりも堅城のようである。

 四日目も有斗は強攻を行おうとしたが、さすがに兵の疲労を見かねたエテオクロスに進言されて、ようやく兵を休めた。

 長い遠征とザラルセンとの連戦、強行軍と城の力攻めと王師の兵士の疲労はピークに達しており、実力を十分に発揮できる状態ではなかったのである。

 兵の疲労は一日では抜けきれず、更にもう一日休みを取らせ、ようやくその翌日に城攻めを再開することができた。

 といっても実際は疲れが完全に抜けきっていなかったこともあって、城攻めは直接行わずに一部の兵に攻城兵器を作らせたに留まったのだが。

 その間、有斗は気持ちばかりが急いていた。


 攻城兵器も一通り完成し、兵士たちも疲労が取れてこれから本格的な攻城戦が始まろうという時になって急に、ニケーア伯は使者を王師の陣営に送りつけて来た。

 使者は貧相な体つきの初老の男で、有斗がいつぞや会ったニケーア伯の家宰である。

「伯はカヒの口車に乗って火遊びをしてしまったことを悔いております。できますれば陛下の御寛恕を賜りたいとこう申しております」

「虫のいいことを申すな!」

 ベルビオが心底、腹を立てて怒鳴る。城を囲む前、あるいは一戦して矢尽き刀折れて後なら分かるが、降伏の時機を逸しているというのが王師の将軍たちの思いなのである。

 アメイジアでは使者は例えそれがどのような無礼な口上を述べたとしても殺さずに帰すものであったが、最近ではそのしきたりもさすがに古めかしく時代遅れのものとなっていたから使者は震え上がった。

「そ、そうおっしゃらずに話を聞いていただきたい」

「まぁ、まずは話を聞こうじゃないか」

「む」

 有斗の言葉を受けて将軍たちが口を噤んだことで、ようやくニケーア伯の使者は本題に入ることができた。

「伯はとにかくニケーアの地から兵火を去らせることができるのならば何をも惜しむことやあらん、とかように申しております」

「殊勝な考えだ。反乱を起こす前にその考えに至らなかったことは残念だけど」

「た・・・ただ、自分の命令に忠実に働いただけの兵や領民は助けていただきたいとさように申しております」

「さすがは伯だ。何よりも領民のことをよく考えている。僕は暴君じゃない。先の河北での戦いの時と同様の処置を取ろう」

 すなわち敵対しても神妙に降伏するならば、民や兵や将軍はもとより、伯の地位も保全しようということを仄めかす。

 ここまで来れば攻め滅ぼすのも容易なのだが、兵を減らさずに事態を解決できるのならばそれにこしたことはないという判断だ。

「なんという寛大な御言葉! 主に代わって感謝申し上げます!」

「他に望みは無いか?」

「主はできますれば書状で確約していただきたいと、さように申しております。なにしろ王に処刑されるのではないかと恐れた兵どもが何か騒ぎを起こさぬとも限りませぬ故」

「分かった。仔細は交渉で詰めさせよう」

 有斗は使者を下がらせ、将軍たちや文官たちから意見を聞いた。

 本来ならばセルウィリアの時のように降人の作法に従い許しを乞うてこそ王の慈悲も受けられるというもので、王に条件をつけるなどもっての外である。そう言った意見も出たが、有斗はとにかく解決を急ぎたがったのでこの虫のいい申し出を受けることにした。

「まぁ反省しているというのなら、命と爵位くらいは保証してもいいんじゃないかな」

 有斗のその言葉を咎めるように、アエネアスが呆れ声を出した、

「また、そんな甘いことを・・・」


 有斗が寛大な条件を示したのだから、何の問題もなくすんなり交渉がまとまるかと思えば、実際はそうならなかった。

 ニケーア伯が交渉のたびに言を左右にしたからである。

 弱気を見せて提案に乗るかと思えば、次の交渉ではとんでもない条件を出してきて交渉を決裂寸前にまで追いやる。そんなことが何回も続いた。

 交渉は完全にニケーア伯にペースを握られていた。

 この遣り取りに憤慨しない者はおらず、王師の将軍で一番の人格者であるエテオクロスですら心底、腹を立てていた。

 有斗も心底では煮えくり返っていたが、我慢をしてニケーア伯と不毛な交渉を続けさせた。

 有斗の目的はとにかく早く河北を安定させ、手持ちの兵力を早く河東へ向かわせることである。法外な要求は呑めないが、適当なところで決着して兵を退いても良いと思っていた。

 だが交渉は遅々として進まなかった。ニケーア伯が誠実に交渉する気がなかったからである。

「気長にやれ。少しでもいい条件を勝ち取ることだ」

「こんなに前言を軽々しく撤回し続けては、王を怒らせはしませんか?」

 ニケーア伯は楽しそうに交渉を続けるよう命じたが、ニケーア伯と違ってまっとうな思考回路の持ち主の家宰は苦々しく口答えをした。それにニケーア伯と違って王師の将軍や官吏から殺意の混じった視線を向けられるのは家宰なのである。

「信を持って世界に平和をもたらすとかいうお題目を掲げている以上、こちらがある程度下手に出れば、交渉を途中で打ち切ることなどできはしないさ。交渉すると大勢の面前で約束したからにはな。それにあのひ弱な小僧にはそんな非情なことができるものか」

 ニケーア伯はそう言うと低い声で笑った。

 要はニケーア伯は有斗を舐めていたのである。


 掠め取った領土は元の持ち主に帰すが元々のニケーア伯領と伯位は保持したまま、この度の謀反で罪に問われる人間は一人もおらず、ニケーア伯は王に詫び状を書くが、人質も出さず、事実上の人質である朝廷への出仕も拒んだ。

 とにかくニケーア伯は朝廷の傘下に戻ったのだから文句はなかろうというわけだ。

「王が何ほどのものか」

 長い交渉の末、実質、無罪放免を勝ち取ったニケーア伯は勝者の笑みを浮かべ、去っていく王師を城壁から眺めた。

 有斗は負けたような気持ちを抱きつつ、ニケーアの地を後にした。

 ニケーア伯との和睦交渉で十日もの日数を無駄に費やしていた。

 だがこれでようやくひとまずの安定は訪れ、有斗は河北を離れることができる。有斗は兵を堅田城へと向かわせるために大河の縁にたどり着いた。

 河北から堅田城に向かうには畿内に大河を渡って東行した後、再び大河を渡るよりも河北から大河を下って直接水路を堅田城へと向かうのが時間的に早い。

 だが大河の対岸を往復すれば済むのと違って、王師四軍を一度に運ばなければならないから朝廷が所有する船舶だけでなく、大河流域の船も徴発しなければ足らない。

 有斗は予めその準備をラヴィーニアに命じていた。

 だからたどり着いた船着き場には王師が乗るのに十分なだけの船が用意されていた。

 だが、それだけでなく、大勢の傷ついた兵士たちもまたたむろしていた。

「どういうことだ?」

 有斗だけでなくアエネアスも将軍たちも───その場にいた全ての者が同じ感情を抱いた。 


 彼らがどこの兵か、そして何者と戦ってこうなり、何故ここにいるのか。

 敵ならば急いで王の身を守らなければならないし、今後の対応も変わりうる。先陣を預かるプロイティデスが足を止めて兵に陣形を組ませると同時に偵騎を発した。

 幸いなことに、その兵たちは王師を見ても敵対する様子も見せず、そしてある程度の統率も取れているようだった。

 だがそのことごとくが疲労の色を隠せない様子だった。それだけでなく負傷した者もまた多く見られ、疑問は深まるばかりだった。

「そなたたちはどこの兵だ?」

「我々は第八軍だ」

 兵の所属を聞いて、偵騎は何が起きたかをようやく理解した。

「ということは堅田城が落ちたのか・・・!」

 その間も船べりに矢が突き刺さった船が続々と下流から漂着し、岸に負傷兵を吐き出していく。

 命からがら辛うじて逃れ得たであろうに、船上で息絶えたのか死体となって戸板で運ばれている悲し気な姿もあった。

「彼らが第八軍の兵だって言うのは本当なの?」

 落城時の戦闘の混乱で誰もが正確な情報を知らなかった。それでも負傷兵たちの間を回って断片的な情報を聞き出してまとめあげ、偵騎が有斗に報告する。

「真実です。堅田城はカヒの猛攻にもよく耐えましたが、何故か城内で失火した火が折からの東南の風に煽られ広がてしまい、その機に乗じて攻めて来られて、奮戦空しく落城したとのことです」

「ヘシオネは!? ヘシオネはどうしたの? 無事に脱出したの!?」

「ヘシオネ卿やアクトール卿、ガニメデ卿などは最後まで城に残り味方を脱出させるのに御尽力なされた模様、なお生死は不明です」

 ニケーア伯と不毛な交渉を続けていた間に堅田城は既に落城していたのである。

 有斗は大河のほとりで堅田城の落城を知った。


 有斗は急遽、この場に陣営地を築くことを命じると、堅田城を身一つで逃れ得た兵たちに兵糧を給し手当をするように命じた。

 脱出は急な不意の出来事だったため、食事も手当ても満足に受けられる状態では無かったのだ。

「軍が河を渡るにも下るにも船は必要です。壊れている船を少しでも修理しておきたいと考えますが、陛下にはお許しいただけますでしょうか」

「あ、そうだね。その通りだ」

 エテオクロスは有斗の許しを得て、兵たちに船の補修をさせた。

 堅田城を脱出してきた友軍をただ見守るだけでは、軍の士気は落ちる一方である。兵に体を動かして何かやらせておくことで余計な考えを浮かばせなくするためなのだ。

 兵士たちには余計な考えが浮かばぬようにしなければならないが、首脳部である有斗たちは同じようなわけにはいかない。集まって今後の方策を話し合った。

「当初の予定では大河を下って堅田城へと向かうつもりだったが、こうなってしまった以上、別の手段を取るほうが良いかもしれない。僕たちはこれからどうすべきだろうか?」

「堅田城を奪えばカヒはその勢いで畿内になだれ込んでくるのではないか。一刻も早く大河を南に向かい、畿内への進出を防ぐのが先決ですぜ」

 ベルビオはカヒに復讐戦を挑みたいらしく当初の予定通りに大河を下ることを主張した。

「もう少しこの場にとどまり、情報を集めるべきでは?」

「そもそも堅田城を失陥したという確たる証拠はありません。第八軍の兵の大半が河北へと城から逃れて来た。これだけが真実です」

 だがエテオクロスらは早急にことを急ぐべきではないという意見のようだった。

「彼らが嘘をついているとでも?」

「第五軍や第十軍の過半の姿が見えませぬ。第八軍を先行脱出させたものの、残りの兵力で堅田城を守り切ったという可能性があります」

「だがその場合、傷ついた城でいつまで持ちこたえられるかどうか・・・兵を送って救援するか、撤退の支援を行うべきでしょう」

 堅田城を失陥したしないに関わらずに後詰の兵を繰り出すべきというプロイティデスの意見にも耳を傾けるべきものがあった

「ですが大河を下った場合に、もし堅田城が落城していて、第五軍、第十軍も全滅していた場合、我々は四師、第八軍も含めるなら五師ですが、とにかく少ない兵数で勝利に意気上がる敵と戦わなければならなくなります。その時には勝ち目は到底ありません」

 将軍たちの意見も一致する様子も見せず、有斗も決を下せずにいた。

 そこにやっと続報が届けられた。堅田城を逃れ出た船団の最後尾が河北に到着したのである。

 他の集団からだいぶ遅れてやってきたその五艘は船体の各所に穴が開き、矢が突き刺さって帆も破れ、火矢でも受けたのかところどころ焦げていた。

 その船に乗っていた第八軍指揮官のアクトールである。

 アクトールは肘に矢を受けて怪我をし、長い籠城戦で頬は痩せこけ、疲労の色も隠せなかったが、まずは王に御報告をと馳せ参じたのだ。

「堅田城は!?」

 有斗は挨拶もねぎらいもすっ飛ばして質問した。それだけこの時、有斗は心に余裕がなかったのである。

 アクトールはそんな有斗にも嫌な顔一つせず、淡々と事実を伝えた。

「堅田城はカヒの猛攻を前に三か月もの間耐え抜きましたが、去る三月十八日に落城いたしました」

「アクトール、ヘシオネは!?」

「ヘシオネ卿は落城時に最後まで兵を脱出させようと殿を自ら買って出られ、脱出しようとしたときには搦め手の船着き場への道を敵兵に塞がれ脱出できず・・・・・・捕らえられたか、あるいは城と運命を供にされたか・・・」

「・・・!!」

 絶句する有斗にアクトールは深々と頭を下げる。

「主将であるヘシオネ卿の生死が分からぬというに、副将の一人であるそれがしがこうしてのうのうと生き残ってしまったこと、誠にお詫びのしようもございませぬ!」

 そう言うとアクトールは今度は膝を折って叩頭した。

「申し訳ございませぬ!」

 有斗は全身から力が抜けて崩れ落ちそうになり、慌ててアエネアスが有斗を支えねばならなかった。

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