第189話 第二次河北征伐(Ⅶ)
ニケーア伯は朝廷に叛旗を翻すことを宣言すると、鼻息荒く慶都にまで攻め寄せた。
もっとも慶都の守りは硬く、ニケーア伯は城壁に向かって矢を数本射かけただけで簡単に城攻めを諦めると兵力を返して、さっそく周辺諸侯や王領を荒らしにかかった。
慶都を攻めたのはサビニアスに最低限の格好をつけるためであり、元より攻め落とす気などなかったし、その戦力もなかったのである。その点、ニケーア伯は極めて冷静で現実的な戦略眼の持ち主であると言えよう。
幸い周辺の敵対勢力はといえば、王に敵対したことで猛将(?)エザウや多数の兵を失って、もはやニケーア伯に抗する力を持たなくなったクルシャリ伯が最大勢力という絶好の状況だったので、ニケーア伯は苦も無く周辺地域を併呑しにかかった。
「併呑するのはいいが、それを保つ算段がニケーア伯にはあるのかな」
サビニアスはそう皮肉気に呟いた。
今、獲るのは容易いかもしれない。だが掴んだものを離さないためには強大な意思と力がいるのである。
何しろ敵に回しているのは朝廷なのだ。ニケーア伯の勝手な行動を許すことなどありえないのである。それを力で跳ね除ければならぬのだが、ニケーア伯にはその双方が欠けていると言わざるを得ない。
しかしサビニアスはその言葉をニケーア伯の耳に入るところで言うことは無かった。サビニアスにしてみればニケーア伯が今、朝廷に向かって挙兵したという事実だけが必要なことである。
殊勝にも忠告してやるなどといった義務も親切心も持ち合わせてはいなかったのだ。カヒに味方し、朝廷に対する敵対行動を嬉々としてやってくれているのだから、冷や水を浴びせることもあるまい。
得意げなニケーア伯を見て、冷笑を浮かべただけだった。
ともあれ慶都に残されているのは輜重に携わる部隊の他は、僅かな衛士と文官たちである。自分たちだけでは対応できないと思った彼らは北辺の地にいる有斗に急使を発した。
ニケーア伯の目が届かぬように隠れつつも夜を日に継いで使者は走り、北辺の地にいる有斗の下にたどり着いたのは、有斗が逃げるザラルセンの追跡を諦め、撤退の準備に取り掛かっていたところであった。
使者がもたらした書簡を見て、事の重大さに驚いた有斗は再び四将軍を呼び集めた。
「あの恩知らずが! 先の河北攻めで周辺の諸侯領を横領したことをお見逃しになった陛下の温情を忘れ、カヒに通じるとは!」
「あんな忘恩の徒に情けをかけても無駄だったんだよ、陛下! 馬鹿はす~ぐ付け上がっちゃうんだから! 陛下、思い知らせてやりましょう!!」
元から猪武者のベルビオやアエネアスは仕方がないにしても、いつもならフォローに回る側のプロイティデスや、戦場で冷静な判断を見せるエテオクロスまでもがニケーア伯の行動に怒りを見せていた。
「陛下、ザラルセンを北辺に追いやってもニケーア伯の
ザラルセンの追討が上手く行かなかったということもあったし、王師が河北を開けるや否や後方を塞ぐように裏切ったことなど、とにかくこれまでのニケーア伯の様々な行動がどうにも腹に据えかねるものであったのである。
有斗だけが一人、怒っていないような状況であった。これは有斗が格別度量が大きい人物であるからというわけではなく、ただ単に自分が王では裏切りたくもなろうとあきらめにも似た気持ちを抱いていたからだ。
「どうせ兵を返す予定だったんだし、河北へ戻ろう。ニケーア伯の裏切りを放っておけない」
とはいえ今が重大な局面であることには違いない。前方のザラルセンだけでなく、後方にニケーア伯という敵が現れたということになる。戦略的に避けるべき状況なのは有斗にも分かる。
「ニケーア伯の裏切り、兵には知らせないほうがよろしいかと。後方で裏切りがあったとあらば糧道を絶たれたと兵が絶望しかねません。河北に入って、慶都との連絡が容易くつく地に到着して後、兵に攻撃対象がニケーア伯であると告げる方が動揺は少ないかと」
「それもそうだね」
敵地で兵が動揺すれば軍中で何か変事が起こる危険性がある。河北という王師のホームに帰ってしまえば慶都や王都に近く、兵の動揺も抑えきれる。
有斗はプロイティデスの進言に従ってこの情報を秘し、あくまでも当初の予定通り河北へと兵を戻すかのように装って撤退することにした。
だが、その首脳部の間だけで話し合われた書簡の内容が、どういうわけか兵の間に漏れていた。噂はあっという間に伝播し動揺が広がる。
実はサビニアスが部下を使って使者を追わせていた。その者は慶都からの使者の一人であるかのような何食わぬ顔で北辺の遠征軍の中に潜り込み、あちこちでその事実を吹聴して回ったのだ。
「ニケーア伯がカヒに寝返ったらしいぞ」
「本当か!?」
「関西、南部、河北と各地の諸侯が次々と裏切っている。朝廷ではカヒに勝てないと踏んでいるのか・・・」
「諸侯が束になってかかったとしても王師には勝てんさ」
「しかしニケーア伯に慶都との糧道を押さえられては、我らは北の地で孤立する」
「手持ちの食糧は一週間もないというぞ!?」
本当は二週間半の食糧があったのだが、こういう場合、たとえ真実の数量を知ったとしても、悲観的になった兵士たちが信じたいと思う数量が信じられるものなのである。
退路と糧道を塞がれては北の地で戦う前に飢え死にしてしまう。その不安が兵士たちの心で育って恐怖となったのだ。
冷静に考えればザラルセンやニケーア伯の勢力では統一行動が取れたとしても、よほどうまく立ち回らないと王師の互角の敵とはなりえないのだが、韮山での敗戦での心の傷や、北辺という慣れぬ地での孤軍ということで兵はいつになく弱気になっていたのである。
「兵士たちが動揺しているって?」
騒ぎを聞きつけた有斗が実際の様子を聞こうと、羽林の兵たちを集めて何やら話し込んでいるアエネアスを見つけ話しかけた。
「兵士が従軍拒否を起こした! ニケーア伯の裏切りで退路が塞がれ、このまま見知らぬ北辺の地で家族にも会えず一人寂しく餓死するのは嫌だって訴えてるらしいよ!」
「どこから洩れたんだろう・・・」
「わからないよ! それより、不満を持った兵たちが集まったことでちょっとした騒ぎになってる。百人隊長の命令にも従わず、不満をあらわにするばかりだって!」
「それは一大事だ」
有斗だけでなくアエネアスも珍しく不安げな面持ちだった。
「将軍や百人隊長が説得に当たっているけど、説得しきれるかどうか。ベルビオなんかは特に口下手だし」
口には出さなかったものの、エレクトライやプロイティデスも苦労するだろうなとアエネアスは思った。完全に兵士たちを押さえきれるのは生粋の王師叩き上げであるエテオクロス将軍くらいであろう。
「よし、僕が直接説得にあたろう」
有斗が珍しくやる気を出して見せるが、アエネアスが立ち上がりかけた有斗の前に両手を広げて立ちはだかった。
「将軍たちに任せたほうがいいよ。兵は殺気立ってる。なにが起こるか分かんないから」
兵が命令拒否を起こすということは兵が将軍に心服していない時や、兵と将軍との心理的が距離が近すぎる場合にも起こる現象である。カエサルもアレキサンドロス大王も起こされたことがあるから、起こされたからと言って将軍として恥というわけでは決してない。
だが、その時こそ全軍を統率する総司令官の器量が試されると言っても過言では無い。
姿を現しただけで人々を圧するようなカリスマを持った者だけがこの混乱を制することができるのだ。
だが現状の有斗は贔屓目に見ても正直、そこまでいっていないというのがアエネアスの見立てなのである。
普段なら有斗を王と敬ってくれる兵士たちも、こうなってしまっては王と言えども遠慮は無い。彼らの手には武器がある。不満をぶつけられ、混乱の中で王の身に何かあったら取り返しがつかない。
「そうは言っても兵士たちを落ち着かせないと出発できない。こんなところでいつまでもグズグズしていられないよ。堅田城のことがあるし」
そう言って立ち上がった有斗をアエネアスは慌てて止めようとした。
だがアエネアスが有斗を説得するという骨を折る仕事をする必要は直ぐになくなった。それどころではなくなったからである。
「ザラルセンだ! ザラルセンが来たぞ!!」
天幕を出た有斗たちが見たものは、兵士たちが指さす先に土煙を上げて近づいてくるザラルセンの賊である。
兵士たちの声と共に馬上から放たれた幾千本もの矢が陣営地に降り注いだ。
王師に敗れた恐怖のあまり、どこまでもただ逃げているだけと思われていたザラルセンたちだったが、実はザラルセンたちは軽騎兵である利を生かして王師から一定の距離を保って移動していただけだったのだ。
王師内で兵士たちが騒ぎを起こしたのを聞きつけ、馬首を翻して勝機と見て襲い掛かって来たのである。
「羽林の兵よ、方陣を築いて王を守護せよ!! 左近将監は北面、右近将監は東面、左近権将監は西面、右近権将監は南面を担当、それぞれ兵を率いて急いで!!」
王師は移動時以外、強固な陣営を築くことで敵の襲撃に備える。流賊の攻撃などものともしない。
だが従軍拒否を起こした兵士たちの多くは持ち場を離れている。すなわち今、方角によっては本営にまで易々と接近することが可能な危険な状況なのだ。まずはどこから攻め込まれても対応できる状況を作ることが先決だとアエネアスは判断した。
「陛下、おそらく敵はまっすぐに本営に向かってくるはずです。戦況が一段落つくまでは天幕の中に隠れていてください」
天幕の布が勢いのない矢なら防いでくれるし、なによりも狙い撃ちされる心配がない。アエネアスはそう薦めたが、
「天幕の中じゃ戦況が見えないから指揮ができない。だいいち火矢を射られたら、天幕の中に隠れていても無意味だよ」
と、有斗はアエネアスの言葉を聞き入れやしない。
「その時はその時! 流れ矢で死んじゃったりしちゃ元も子もないでしょ!!」
そう言うとアエネアスは持ち前の怪力を発揮して、有斗を荷物のように強引に天幕の中に投げ入れた。
ザラルセンは王師全体を見て、まずプロイティデスの隊に狙いをつけた。
兵の従軍拒否で揺れる王師の中から特にプロイティデス隊が選ばれた理由は、プロイティデス隊は前の戦闘で勝利した経験があって心理的に優位に立つことができ、さらにはプロイティデス隊がその戦いで兵力も減じており、何よりも王師の中心、すなわち王がいる場所までの最短距離に当たる場所に位置していたからである。
ザラルセン隊がこちらに向かって来るのを見たプロイティデスは百人長に命じて迎撃の体制を整える。
幸いにも従軍拒否を口にしていた兵士たちも敵を目の前にして兵士の心を取り戻したのか、己が百人長の下へと駆け参じた。
プロイティデスは盾を頭上に降ってくる矢を防がせ、
勢いで何か所かは前線を突破されるが、多くはプロイティデス隊の兵士の健闘もあって防がれた。
敵は突破よりも奇襲を得意とする軽騎兵である。
少数の兵で突破して、そのまま本営にまで達する力は無い。たちまちのうちに囲まれ討取られるか、それを嫌って逃げ出すかの二択であった。
賊は機動力を生かして戦場を左右に移動し王師を揺さぶって攻撃の糸口を探すが、それは戦場を大きく俯瞰すると足を止めて戦っているに等しい。
「ちくしょう! 今度はうまく行くと思ったんだがなぁ!!」
ザラルセンは味方を鼓舞するかのように矢を放ち続け王師の兵を射殺し、一人獅子奮迅の活躍を見せるが、戦局全体を見れば焼け石に水の状況である。
降り注ぐ矢や、ザラルセンの強弓など王師にとって嫌な要因はまだあるものの、正面から戦えば王師の方が優位だ。
徐々に戦闘は王師優勢となっていった。
ひとまず防衛に成功した王師はここで逆襲に転じる。
ベルビオがプロイティデス隊の援護をしようと敵側面に回りこむような形で兵を動かした。
先の戦でのベルビオの超人的な活躍を目にしていたザラルセンの配下の者たちはベルビオが近づくだけで、いや、ベルビオの姿を見ただけで恐慌状態に陥り、尻尾を巻いて逃げ出した。
ベルビオは防衛戦や攻城戦など我慢と駆け引きが必要な戦局では並みの司令官だが、ひとたび攻勢に転じればその威力は王師一と言っても過言では無い。
ザラルセン隊の右翼を蹴散らし、ザラルセン本人のすぐ横にまで迫る勢いで攻め上る。
ザラルセンの強弓だけではとてものことで押し戻せぬ。
それにエレクトライが右翼を駆けあがって後方を塞ごうとする動きを見せたこともあって、ザラルセンは戦闘継続を諦めた。
「おい、今日はダメだ。逃げるぞ!」
と言ってもザラルセンの言葉よりも前に部下の多くは逃げ出し始めていた。
「それにしても王師ってのはなんて強さだ。付け入る隙がねぇや」
ザラルセンは逃げながら敵である王師を褒めた。自軍の不甲斐ない戦いぶりを忘れるためにもそうしなければならなかった。
「兄貴、白旗ですかい?」
「なにを言いやがある。また別な手を考えるさ」
「まだ王師とやりやがるんですかい」
賊は王師や諸侯とは違う。生きていくために、あるいは豊かになるために、他者から奪うのが目的で戦うのである。今回のように戦っても何ら得ることのない戦いはしたくないのだ。
「とにかく今日は逃げろ。なぁにまた明日があるさ。一度や二度破れたからって屁でもねぇ」
渋い顔の部下たちを前にザラルセンは強がって見せた。
「陛下、ザラルセン隊は潰走しました。追撃しますか?」
ザラルセンを追い払い、騒ぎを起こした兵士たちを再び元の持ち場に戻したエテオクロスが有斗に報告を行いにやって来た。
「その必要はないよ、エテオクロス。兵も落ち着きを取り戻したし、予定通り河北へと戻ろう」
エテオクロスは有斗の言葉に叩頭する。
「分かりました」
興奮する兵士たちが先走らぬように追撃を禁じる命を下すエテオクロスの横で有斗はそっとため息をついた。
「僕が間違っていたのかなぁ・・・初めから兵に正直に現在の状況を話して理解を得るべきだったかもしれない」
「陛下は間違ってはいなかったと思うよ。あの場合、馬鹿正直に話しても今回と同じように兵は動揺するだけだもの。王は兵に同じ目的を抱かせて戦わせる必要はあるけど、兵と王が同じ情報を共有する必要はないよ」
そのアエネアスの言葉に慰めの臭いを感じた有斗は返答はしなかった。
「でもなんで漏れたんだろう・・・?」
「耳聡い奴もいるからね。それに聞かなくても慶都から急使が来たってことで勘のいいやつが察したのかもしれないし」
「まぁ、いいや。犯人捜しに無駄な時間を費やしている時は無い。先陣はベルビオ、殿はエテオクロスで。撤退すると知れば再度ザラルセンも追撃にかかるかもしれないし」
「とはいえ、これでザラルセンも懲りたでしょう」
「だといいけど」
有斗はまだ不安だったが、幸いなことにザラルセンやその部下たちは流賊の常として、まとまって追撃される危険を避けて四方に散って逃げたため、兵力を集結させるのに時間がかかる態勢になっていた。とてものことで連続して再戦する余裕などなかったのである。
ともかく王師は失っていた兵の心を取り戻しただけでなく、兵の士気も高まった。有斗はこの好機を逃さずにすばやく兵を河北へと動かした。
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