第188話 第二次河北征伐(Ⅵ)
即戦や力攻めを行わない場合、攻める側は城の周囲に営塁を築いて包囲する必要がある。
長期戦の最中に城内から不意の攻撃を受けて、味方に不要な損害を出さぬためである。
だがそれが完成するまでの間、攻城側は極めて不利な立場にある。将兵の意識のほとんどが設営に向いているからである。そのような中で不意の攻撃を受ければ負けは必定、せっかく築いた陣営地も崩され、立て直す為には陣を一旦後方に下げる必要も出てくる。
そうなれば再び城を包囲するためにさらに無駄な日数が必要になるのである。
その為、カヒが堅田城を囲む間、どこかに付け入る隙が無いかとヘシオネは
いや、正確には隙はあったのだ。
だがカトレウスにしてはあまりにも不用意に見えることから、罠であることを警戒せざるを得なく、ヘシオネは逆に手を出せなかった。
もし罠に
「罠にかかってはくれぬか。敵も楽には勝たせてはくれぬ」
わざと隙を見せ敵を誘い出すという初手が空振りに終わっても、カトレウスはそれほど悔しさを見せなかった。
策は毎回必ずしも上手く行くとは限らないのだ。故に真の策士はひとつひとつの策の成否に一喜一憂しないものである。
「敵地に孤立した城を任せられるほどの将軍です。軽挙妄動はせぬということですな」
「女にしておくのは惜しいな」
カトレウスは陣営地を完成させるまで堅田城を攻めることを諸将に禁じた。
おかげで直ぐにもカヒの激烈な攻勢を覚悟していた籠城側は大いに肩透かしを食らう形となった。
しかも完成しても直ぐにカトレウスは攻めて来なかった。兵に休息を与え、鋭気を養わせるためだ。
ゆえに本格的な戦闘が始まったのはカヒが堅田城を取り囲んでから一週間後の払暁となった。
「ようやく来たか。慎重だな、カトレウスは」
不意の急襲で就眠中に叩き起こされたヘシオネは身体のラインが透けて見えるような薄い夜着をまとっただけの姿で現れ、ガニメデは思わず目を背けた。
ヘシオネは少年のようなガニメデの態度に妖しい笑みを浮かべた。
「それだけにこの攻めの下準備は万全のものとしていると思われます。まず追手ではなく搦め手口を攻めたということも不可解です」
城を攻めるときには複数口から同時に攻めて防衛側の指揮系統を混乱させるのが常道である。が、一方を囮にして本命の他方を隠そうとすることも珍しいことでは無い。
「わかっている。搦め手以外も気を緩めることないように兵には伝えよう」
ヘシオネはガニメデの言を受け、攻め口以外の警戒も厳にした。
だがカヒは日が昇り切る前に早々に攻撃を終え引き上げた。こちらの損害は皆無だった。もっともカヒの損害も軽微だったが。
「よし、まずは初手は防ぎ切ったな」
何事も最初が肝心である。初戦を苦もなく乗り切ったことにヘシオネは安堵した。
「それにしても、不思議だ。思ったよりあっさりとカヒは引き下がったものよ」
気がかりなのはそのことである。カトレウスともあろうものが、ただ闇雲に攻めてみただけということはあり得ない。
「我が方の備えに関して虚実を計り、双方の軍の優劣を調べたのでしょう。勝つとか敗けるとかは慮外して戦ったものと思われます」
ヘシオネはガニメデの言に得心した表情を浮かべた。
「一理あるな。将軍は見かけと違い兵法に通じておられるようだ」
ともあれ勝利には違いない。堅田城守備兵の士気は大いに上がった。
ヘシオネは耐えに耐えた。
その後もカトレウスは三月に渡って堅田城を攻め続けたが、守備側はよくその攻撃に耐え、敵兵を一歩たりとも城内に入れなかった。
大きく掘を割った堅田城が堅城であったこともさることながら、ヘシオネの指揮が卓越していたことや、守備兵が敢闘したこともその要因であろう。
城攻めは根気と粘りが肝心である。だがそれはすなわち時間を浪費すると言うことでもある。手は打ったと言っても、このままではいつかは必ず王師の救援部隊が来ることになる。王師の主力部隊が戻ってくれば、さすがのカトレウスも堅田城を落とす目算が無くなってしまう。
後背のテイレシアの動きや面従腹背で従っている諸侯の気変わりも気にかかるところだ。
内心で押し殺してはいたが、カトレウスの焦りと不安と不満は膨れ上がる一方だったのだ。
その気配を敏感に察した諸将の口も重くなる一方だった。
「攻め口を変えましょう」
付き合いの長いガイネウスがさすがに見かね、カトレウスに進言した。
「変えろと簡単に言うが、この城を攻める搦め手はないぞ」
カトレウスにぎろりと鋭い視線を向けられてもガイネウスは眉一つ動かさなかった。
「城ではございませぬ。人の心を攻めましょう」
「人の心?」
思いもよらぬ言葉にカトレウスはガイネウスの隻眼をまじまじと見つめた。
「坂東でコルブラを攻め滅ぼした時の手を使いましょう」
「ふん。あれか」
「お気に入りませぬか?」
「いや、悪くない・・・そうだな、それがこの城を落とす近道やもしれぬな」
カトレウスは包囲網の中から部隊を割いて動かした。
城を囲む兵数が減ったことは即日籠城側にも伝わった。カトレウスに隠す気が無かったからである。
だが兵を割いたと言ってもまだ攻城側の方が総兵力では上回っている状態だった。
「一部の兵を退かせた? 撤退する気か?」
「にしては残りの部隊が撤退の準備をしている様子は見られませぬが」
「ということは防備を薄くして隙を見せ、城からわれらを誘い出す戦術か?」
「分かりませぬ」
ヘシオネに与えられた役目はとにかく堅田城を守り切ることである。この機を逃さず敵に打撃を与えて、現状を打開したいという願望が皆無というわけでは無かったが、失敗した時の損失を考え、軽挙妄動を慎むように諸将に告げた。
これまでの戦いではかばかしい戦果を上げられなかったこともあり、カトレウスは兵数の減った今、城攻めを強行するのは得策でないと判断し、攻囲から包囲へと切り替えた。
よって攻城側籠城側双方ともに一息つくことになり、堅田城には久しぶりの静寂が訪れた。
堅田城を離れたカヒの分遣隊は、さらに三つばかりの集団に別れると、堅田城近辺の朝廷側についた裏切り者の周辺諸侯の領土へと侵攻した。
分遣隊と言ってもカトレウスがいないというだけで、構成されるのはダウニオスやマイナロスやニクティモといったカヒの四天王を頭に、二十四翼の翼長七人、あるいは客将のバアルなど、ずらりとこの戦国を代表する名将たちである。
兵数的にも一地方の攻略に向かってもおかしくはないだけの軍で、無名の河東諸侯の相手をするのに過ぎた戦力であるといって良かった。
さて、周辺諸侯はカヒが来襲したことで、蓋を閉じたサザエのように閉じこもっていたのだが、カヒはまずは何より堅田城をと、彼らに目をくれなかったことで安堵すると同時に油断が生じていた。
そのようなところにカヒの分遣隊が襲い掛かったのである。彼らは抵抗する術を持たなかった。
カヒの分遣隊の諸将はそれまでの鬱憤を晴らすかの如く周辺諸侯の城を片っ端から落とした。
城は炎上し、砦は破却され、道々の村々も押し入られ、殺戮と略奪を欲しいままに行った。
河東沿岸域の人々は改めてカヒの実力とその残虐さに震え上がる。
こうして周辺の邪魔な諸勢力を鎮定することで味方の士気を高めるだけでなく、近隣の人々の心に恐怖を植え付け、対陣中にこそこそと動き回られないようにすることがカトレウスの狙いだったが、本当の狙いはそれだけでは無かった。
民衆の恨みも鑑みず執拗に寇略を行ったのは、人を探していたからである。
落城前に落ち延び、隠れていた二組の家族が運悪く捕らえられ、戦勝の知らせと共にカトレウスの下に運ばれた。
そのうちの一組の家族の中に、夫が兵と共に堅田城に籠った諸侯の妻がいた。
カトレウスは早速、その女を本営で引見した。
女は落城のショックですっかり怯え切っていた。戦場の殺気立った空気を身にまとった、鎧姿の恐ろし気な男たちに囲まれただけで震え上がった。
カトレウスは恐怖で目を伏せたままの女の目に一通の書状を突き付ける。
女は目を見張った。
そこには夫の名前だけでなく、夫と共に入城した者の名前が一人として欠けることなく記されていた。
カヒは多くの忍びを敵領に忍ばせ、日々諜報を行っており、その全てを掴んでいたのだ。
「そなたも諸侯の妻、覚悟があろうが、このカトレウスは裏切りを笑って流すような生ぬるい男ではないぞ。そなたとそなたの夫、そなたの子だけではない。この全ての者と家族を捕らえ、逆さ
カトレウスの低い言葉が単なる脅しでないことは戦国に生きる者ならば誰もが知っている。カトレウスはやるといったら必ずやる男なのである。
「だが助かる方法がないわけではない」
カトレウスの言葉に女は思わず顔を上げた。
「そなたの夫に書状を書け。内応して城に火を放ち、寄せ手に加われと説得するのだ」
「それは・・・!」
「成功すれば本領安堵だけでなく、そなたの夫には新領をも給付しよう。失敗すればそなたも子供たちも命は無い。そしてそなたの夫も決して許さぬ。天地が裂けても探し出し、八つ裂きにしてくれるわ」
そう言うとカトレウスは手ずから筆を女に渡した。
女は震える手で渡された筆を持った。
一方その頃、有斗は逃げるザラルセンを捕捉できずにいた。
ザラルセンは北辺に生きる流賊である。一か所に定住せず、気ままにその時々に応じて住処を変える彼らには逃げようと思えばどこまででも逃げることができたのである。故に居城や自領を攻めれば最終的に片が付く諸侯とは違う意味で難敵なのである。
さらには彼らは軽騎兵が主体、歩兵を持つ王師とは足の速度が違う。
馬蹄の後を追って追撃しているものの、その馬蹄が幾日前のものかは誰にもわからない。騎影も見えないことが有斗に焦りを生み出していた。
人知れず大きく迂回して後背に回り、糧道を立つのではないかという不安もあった。
今回の河北遠征に当たり、有斗はここまで長期間の追討戦となるとは思わず、策源地を慶都に定めていた。すなわち補給線がすっかり伸び切ってしまっていた。手持ちの兵数だけでは補給路の警護もままならない。両道を絶たれれば河北遠征軍は餓死するのである。
そんなところに王都からの急使が走りこんできた。
有斗は書状を軽く読むと、ことの大事に驚き、プロイティデス、エテオクロス、ベルビオ、エレクトライ四将軍を呼び出して秘密の会合を持った
「堅田城が攻められているとの知らせが届いた」
「いつのことでしょうか!?」
エテオクロスの言葉に有斗は再度書簡の日付を確認する。さすがの有斗も日付くらいなら草書でも読めるようになってはいた。
「既に三か月も前のことらしいよ」
「して堅田城は?」
「ヘシオネからは救援を求められてはいない。つまり逼迫した状況にはないようだ。だがここと堅田城とでは距離が離れていて今がどうなっているのかまでは把握しようがない」
堅田城にはカヒの来襲に耐えられるように三軍もの大兵を籠めている。ちょっとやそっとのことでは落城はしないはずだが、戦は何が起こるかは分からないのである。
「陛下、いつまでも河北で悪戯に兵を遊ばせている場合ではございませぬぞ」
「ザラルセンの奇妙な動き、背後にカトレウスがいると考えると辻褄が合います」
自分は罠に嵌ったかもしれないと有斗は思った。
「わかってる。慶都に兵を返そう。堅田城へ行くかどうかはそこで決める」
有斗はザラルセンの追撃を諦め、兵を返すことを決断する。
さて、堅田城攻めの軍中にカヒの外様衆筆頭であるサビニアスの姿は無かった。調略と城攻めの名手と知られたサビニアスがこの大事に何故加わらなかったかというと、河北に潜んで王師の動きを監視していたからである。
サビニアスは当初のザラルセンの働きには満足したものの、王が親征するや途端、簡単に敗北したことには失望せざるを得なかった。
「ザラルセンにはちと荷が重すぎたか」
敗けるにしても、幾度かの戦いを経て後のことだと思っていた。そもそももう少し敢闘してくれることを望んでいたし、できうるならば王師に手酷い打撃を与えてから負けて欲しかったというのが本音である。そうなれば今後の戦いがカヒ優勢に進もうというものである。
だが失望はしたものの、それもすべてサビニアスには織り込み済みであった。
このような時の為に、堅田城攻めに加わるという栄誉に後ろ髪引かれる思いをしてまでも河北に滞在し続けたのであったのだ。
サビニアスは今、客人として逗留している屋形の主人に面会を求めた。
屋形の主人とはニケーア伯エウデマである。
「エウデマ殿、今こそカトレウス様にその意のある所を告げる好機ですぞ。約束通り、是非立ち上がっていただきたい」
「そうは言うがな、サビニアス殿。悲しいかな我が手勢だけでは王師に
「戦う必要はないのです。兵を挙げるだけでよいのです。ここで伯が兵を挙げれば、前にはザラルセン、後ろに伯を受け王は河北で孤立します。遠く関西でも乱があり、河東ではカトレウス様が堅田城を包囲しており、まもなく陥落させるでしょう。四囲に敵を受けた王は呆然と立ち尽くすに違いありません。王とその軍はなすすべなく河北で枯死することでしょう」
サビニアスの甘い誘いにも当初、ニケーア伯は単純に乗ろうとはしなかった。
「そううまく行くだろうか。王も河北で孤立することを恐れれば、まずは王都との連絡に邪魔な我が領土を攻めようとするのではないか」
だがザラルセンが当てにできなくなった以上、サビニアスは王の足を河北に留めておく別の手段を講じなければならないのだ。なんとしてもニケーア伯を挙兵させ、王の足を堅田城へと向けさせてはならない。
サビニアスは都合の悪い真実を巧みに糊塗し、楽観的な予測ばかりをニケーア伯の耳に注ぎ込む。
「その為のザラルセンです。きゃつらが王の袴の袖に喰らいつき戻らせはしません」
「・・・・・・だが、あの流賊にそこまでの期待を持って良いものか」
「それに万が一、伯が危急に陥ればカトレウス様が放っておくはずがありますまい。必ずや堅田城攻めを終えた兵を後詰として河北へ送り込んできましょうぞ。危惧なさることはありません」
次第にニケーア伯の表情に変化が出てきた。高名なカヒのサビニアスほどの武将の言う言葉だ、間違いは無かろうと己の考えが揺らいできたのだ。
「立っていただけますな?」
サビニアスのささやき声に誘われるように、ニケーア伯は首を縦に振った。
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