第187話 第二次河北征伐(Ⅴ)

 その瞬間、王師右翼に凍りつくような衝撃が襲い掛かった。

 ベルビオが転がり落ちた先に敵味方両軍の兵がわっと殺到する。味方が辺りを取り囲み、首を獲ろうとする敵兵を追い散らしてベルビオの身を守ろうとした。

 さっきまでの勢いはどこへ行ったのであろうか、右翼の味方は一本の矢で勢いづいた賊に押しまくられていた。

 本陣で成り行きを見守っていた有斗も例に洩れなかった。息を吐き出すことも忘れてベルビオの様子を見守る。

 やがてベルビオが味方に抱えあげられて騎乗する。

 口からは大量に出血しているようであったが、後ろを指差して後退を促す兵をどやしつけると再びげきを振り回し、自身の周りに集まった敵を蜘蛛の子を散らすように追い払った。


 ベルビオは生きていた。


 その瞬間の有斗の安堵感は途方もなく大きかった。

 有斗が大きく息を吐き出すと同時に、すぐ近くで同じような嘆息が聞こえた。アエネアスが大きく安堵のため息を漏らしたのだ。

 義は君臣にして心は朋友。アエネアスにしてみればアエティウスと同じく家族みたいな存在なのだ。アエティウスやアリアボネが死んでから日が経ってない。生きた心地がしなかったであろう。

 なんにせよ良かった、と有斗は思った。ベルビオは生きていたのだから。


 ベルビオが死ななかったことで王師右翼は再び生気を蘇らせた。

 一転、劣勢に立ったのは賊のほうであった。いや、それどころか彼らは恐慌状態におちいっていた。

 いかなる敵も一矢でしとめ、外すことのないザラルセンの弓は彼らにしてみれば神の業に等しかった。

 その強弓は鎧を着た武者を射抜いて後ろの者の腕を貫通したこともある。北辺をうろつく獰猛な熊ですら一矢で殺せるのだ。

 ザラルセンはその弓の技を持って万の賊をまとめ上げていたのだ。それは信仰に近いものであった。

 だが、その矢を真正面から顔に受けながら、死なずに立ち上がってくる人間がいるという信じられない光景を目の当たりにしたのだ。彼らが恐慌状態になったとして誰が責められようか。

 ベルビオは口から血を吐き出しながら大声で笑うように叫び、戦っていた。

「死ねえええええええぇぇぇぇいいいぃぃぃぃ!!!!」

 それは彼らにとっては死神の声に等しかった。

 この目の前の大男は、いかなる手段によってか地獄から舞い戻ってきたのかもしれない。そう考えるより他にはなかった。

「俺の矢が狙いを外した・・・?」

 ザラルセンも呆然としていた。

 いや、それはない。当たるところも見たし、現にその巨躯きょくの男は口から血を流しているではないか。

 真正面から射て口の中を怪我した・・・

 この距離だ。強弓で引いた矢は口中で止まる威力ではないはず。

 脳髄を射抜いたはずである。そんなところを射抜かれて生きている人間がいるというのか・・・?

「まさか・・・不死身の人間がこの世にはいるというのか・・・?」

 神話に出てくる不死の存在のように。

 ベルビオの前にはもはや立ち塞がる敵はいなかった。逃げる敵を両翼の騎馬隊が包み込むように包囲する。もはや賊は完全に戦意を喪失していた。

 これはもうザラルセンには打つ手はない。三十六計逃げるにしかず、である。

「逃げるぞ!」

 逃げればまだ復讐の機会は来る。策も立てずに勝てるほど甘い相手ではなかった、とザラルセンは反省する。体勢を立て直して今度はもっと慎重に戦えば、必ず負けない。

 ザラルセンは背後の丘に向けて馬首を翻した。

 部下たちも彼らの主人に倣って、一斉に馬首を翻して逃走を開始した。

 彼らにとって戦わずに逃げることは恥ではあるが、勝てない相手を前にしたときに逃げることは恥ではない。

 王師は勝利したのである。


「陛下、ザラルセンたちは塵尻ちりじりになって、北に向けて敗走しているとのこと。いかがなさいます?」

 勝利を本営に報告に来たエテオクロスに有斗は満足げに頷きつつ言った。

「追撃する。ザラルセンを捕まえるか、二度と河北に来ようなんて思わないように徹底的に叩いておく必要がある」

 有斗のその考えに四将軍すべて同意を表した。ザラルセンをここで追い払ったといっても、生かして置いたらいずれ再び兵を河北に向けるのは目に見えている。せっかく兵を動かしたからにはこの際、病巣を根本的に取り除いておくべきなのだ。

 有斗は四軍を率いてザラルセンを追って北上を開始した。


 一方、有斗が兵力の過半を河北へと振り向けたという情報は畿内に潜り込んでいたガルバの隊商たちによってたちまち掴まれ、既に遠く河東へと運ばれていた。

 時にして有斗が河北に渡った少し後のことである。

「してやったり!」

 それを聞いてカトレウスは小躍りせんばかりに飛び上がり、喜色を露にした。

「ザラルセンは案外役に立ちましたな」

 冷徹な兄が久々に見せる感情の昂ぶりに呼応するようにグラウコスも薄い笑みを浮かべる。

「河北に侵攻するだけでなく、王師の一軍を破ったという。たいしたものよ」

 河北の細かな情勢は流石にガルバでも掴んでいなかったし、ザラルセンはもとよりカトレウスにいちいち報告するようなまめな男ではない。河北でのザラルセンとプロイティデスの戦いが、王師が全面的に敗北したという形の大げさな噂となって坂東には誤って伝わっていた。

「とはいえ王師は強大です。ザラルセンでは荷が重いかと」

「王師の目をしばらくの間、カヒから逸らしてくれればいいのだ。勝つ必要などまったくない」

 それにもし万が一、ザラルセンが王師をことごとく破って王都を占領でもすればカトレウスの野望は一頓挫を免れない。王を破って王都を得たという事実が何よりも諸侯を心服させるのである。

 もちろん流賊のザラルセンに天下の経営などできはしないだろうが、カトレウスの経略図は大幅な修正を余儀なくされることとなろう。

 ザラルセンにカトレウスが望むことはたった一つである。

「すぐに負けてだけはくれるなよ」

 ザラルセンは一万もの大兵を抱える大流賊だが、先年テイレシアの討伐を受けて手ひどく敗戦したあたり、軍隊としての質は良ろしくないとカトレウスも思っていた。

 だが一万という兵数があれば王師も兵力を出し惜しみするわけにはいかない。堅田城に過大な兵力を振り分けている余裕はないはずだ。

 いくらカヒが強いと言っても、王師が籠る堅田城を数日で落とすなど夢物語なのである。場合によっては何か月、いや何年も費やさねばならない可能性がある。

 その間、ザラルセンは存分に王師と河北で不毛な戦いを繰り広げていてもらいたいものだとカトレウスは思った。


 カトレウスの意を受け騒然とざわめくカヒの館内で、その銀髪の美貌の武人は人を探して歩いていた。

 バアルは官位や血筋の良さだけでなく、韮山での手柄もあり、館内ではデウカリオらカヒの四天王と同じ行動の自由を保障されていた。

 尋ね人であるカトレウスは奥座敷ではなく、中庭に面した大廊下にどかっと腰を下ろし、絵図面を指さしては武将たちに次々と指示を下している。諸侯に出させる兵はどのくらいか、行軍路はどうするか、またその為のまぐさの準備はどうするのか、出兵前の下準備に余念がない。

「カトレウス殿」

 異分子であるバアルが機密に触れることに拒否反応を示した幾人かが身構える様子を見せるが、カトレウスは特に気にするそぶりを見せなかった。

「どうなされた、御客人」

「出兵と聞き及びましたが、まことでしょうか?」

「この喧騒を見るが良い。このカトレウス、単なる気まぐれで部下に労苦を強いたりはせぬ。出兵よ」

「王と戦うとあらば、是非、お手伝いさせていただきたい」

「それは心強い。韮山で見せたような活躍を此度も期待しておるぞ」

 まるで主君であるかのように尊大な振る舞いにバアルは内心不快を覚えた。

 だが何はともあれ王と戦うにはカヒの力がいる。それに王と戦えるということがバアルの心を高揚させていた。


 カトレウスは近々にこの日があることを期し、既に準備万端整えていた。知らせを受けると瞬く間に軍勢を催した。

 七郷を発した軍は行軍途上の諸侯の兵を吸収しつつ、一月足らずで河東最西端の堅田城へと津波のように押し寄せる。

 王師の河東駐留軍の現有戦力では野戦で抗するだけの力はない。大した議論もなく、堅田城籠城に衆議は一致した。

 王師側に旗色を鮮明にしている周辺諸侯のある者は堅固な自城に引きこもり、またある者は兵を率いて堅田城に加勢に加わった。

 ヘシオネは準備万端整え、カヒの軍勢を迎えた。

「来たか」

 ヘシオネやガニメデら将軍たちは高楼に登り、城外を囲むカヒの陣を一望した。

「大菱旗も見えます」

 色取り取りの旗が立ち並ぶ中、ガニメデが指さした先にカトレウスの座所を示す旗が高々と掲げられていた。

「鬼蔦・・・二引・・・カヒ二十四旗の大半がここにありますな」

 四天王やガイネウスなど名のある武将はほぼ参陣している様子が見て取れた。この場に旗が見られないのはサビニアスなど数えられるほどの将軍でしかない。

 それはカヒが本腰を入れて堅田城を攻略しようとする決意の証でもある。果たして守り切れるのかと沈黙が将軍たちの口を重くした。

 その沈黙を破ったのは堅田城の留守居役を預かるヘシオネである。

「当然だろう。カヒも背後のオーギューガが怖い。河北に行った王師の軍もいつ戻って来るかわからないからね。私がカトレウスなら短期決戦でこの城を落としたい」

「カヒが本気とあらば朝廷も片手間に相手をするわけには参りませぬ。この変事を陛下にお知らせし、救援を乞うてはいかがでしょうか」

「知らせはするが救援は求めない。この城には三師もの兵士がいるんだ。戦う前に何を弱気になっている。手ごわい相手ではあるが、勝てない相手ではない」

「・・・・・・」

「陛下はまず西と北の安定をお望みだ。この城に各地に散った王師を集めればカヒは撃退できようが、西方と北方の安定は崩れよう。事態が良い方向に動くわけでは無い」

「ではありましょうが・・・」

 不安な面持ちの将軍たちとは対照的に、ヘシオネは固い決意を崩すはこと無かった。

「こちらとしては与えられた使命を果たすだけだ。一日でも長くここを持ちこたえなければならぬ。坂東の山猿に決して畿内に足を踏み入れさせてなるものか」

 ヘシオネは思いつめた表情でカヒの大軍を見つめた。

 アエティウスやアリアボネがいない今、有斗を支えるのは自分だと固く思い定めているようだった。


 ヘシオネたちがカヒの陣営を見つめていると同時に、カヒの側も堅田城を見つめていた。

 前にも増して広く堅固になった城郭には容易く付け入れられそうな隙が見当たらなかった。

 そこに王師が三軍もの兵力を有して籠城している。

 軽々しく力攻めでもしようものならば、軽視できない損害を受けることは明白だった。カトレウスの年齢を考えれば、後々の畿内侵攻は少しでも早く行いたい。ここでの兵の損耗は是非とも避けたい。

 それに城攻めは最初が肝心である。もし初期に手痛い打撃を軍が受ければ兵の腰が重くなって士気が落ち、長期対陣しても戦果は得られないであろう。

「ここまでは描いた図面通りに持って来ましたが、これからが大変ですな」

 カヒ一の軍略家であるガイネウスですら苦々しく城を見つめるだけで、有効な策を直ぐには口に出すことができなかった。

 カトレウスは深く被った面頬の内側で誰にも聞こえぬ小さな呻き声を発した。

「だが、ここを越えねば俺に天下は取れぬ」

 それはカトレウスの耳にも聞こえないほどのほんの小さな言葉。カトレウスの執念が発した言葉だったのかもしれない。

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