第170話 強運の持ち主
竿で小船を手繰り寄せられて、縄梯子を下されては仕方がない。
アエネアスの足のこともある。ここは
「今度の戦での敗戦、それだけでなく陛下が行方不明であるということは噂では聞いておりましたが、なにせ田舎諸侯の身、正確な情報を得ることができず、日々鬱屈して楽しくなく日々を過ごしてきました。王都からの指示もなく、心配すること以外できることはなかったのです。それでも念のためと思い、こうして大河を越えて落ち延びてくる兵を救おうと舟を出した次第。いやはやまさかアエネアス殿を、いえそれだけでなく、なんと陛下まで発見できるとは・・・実に光栄なことです。このマシニッサはよくよく運がいい」
マシニッサは実はこの航海は、カヒから命じられて落ち武者狩りを行っていた、というよりは落ち武者狩りを行う振りをしていただけだということをおくびにも出さず、しれっとさも自分が王朝の忠実な臣下ででもあるような言葉を吐いた。
しかしマシニッサに運がいいとか言われると、「それは僕を虜囚にできたことに対してかい?」などと勘ぐって言ってしまいそうになる。
さすがに王である暮らしも長いのだ。そこまで本音を
「それはありがたい。多くの兵に代わって感謝を言う」
「これは光栄の極み」
マシニッサは外見だけは殊勝に一礼する。だが何を考えているかは分かったもんじゃない。分かったとしても、知りたくもないし。
「しかし陛下がわずかな人数だけで落ち延びられるとは・・・よほどの激戦だったようですね」
「手酷くやられてしまった。さすがは常勝を
「勝敗は兵家の常。一度や二度の敗北でくよくよなさらず、是非王都に戻り、諸侯を集め
「では僕たちを畿内へ連れて行ってもらえるかな?」
有斗としては一秒でも早く安全なところに戻り、心から安堵したい。マシニッサの側なんて河東の山で
だが有斗の希望はあっさりとマシニッサに握り潰された。
「まずはメッシニナの港に向かいましょう。陛下をトゥエンクにお迎えできるなどそうそうありません。このマシニッサ一生の誉れ。是非とも来ていただきたい」
・・・行きたくないなぁ・・・そう思う有斗の言葉を代弁するように、
「ダルタロスの領土である南京南海府のほうがいいよ! 距離はそれほど変わらないし! 何より安心できるもん!!」
行儀悪く椅子の上で胡坐をかいて座っているアエネアスが皮肉たっぷりにマシニッサに対して言った。
確かに、マシニッサとは一刻も、いや一秒でも早く離れたい。
「またまたアエネアス殿はいつもながら手厳しい。本音では私のことを好きだということはわかっているのに。素直になってもよろしいのですよ」
いや、絶対そういったツンデレ要素ではないと思うぞ。本音で嫌ってる。
それが証拠にアエネアスは眉を寄せて心底嫌そうな顔でマシニッサを
マシニッサは最後に部下に菓子とお茶とを差し入れるよう命じると、部屋から出て行った。
「どう思う?」
マシニッサが出て行くと有斗は小声でアエネアスに尋ねた。
「どうも何もない。とにかく今のわたしたちはまな板に登った鯉でしかないです。マシニッサの出方を伺うしかありません」
そうアエネアスは不満そうに言った。アエネアスにもマシニッサの腹の内は推量できぬようだった。
「王師がカヒに敗れたことを知っても、こう歓待してくれているんだから直ぐには危害を加える気は無さそうだけど・・・」
「油断しちゃだめ。なにせ相手はマシニッサだ」
と、言ってアエネアスは乾いた口をお茶で
「そうだよなぁ・・・油断したところを後ろから襲い掛かってきそうだもんなぁ・・・」
有斗は不安でおもわず溜息をつく。
「・・・そうなったときは、例え叶わずとも一太刀だけは浴びせてやる」
まだマシニッサが敵だと決まったわけではないのだが・・・
アエネアスの言葉に有斗はぶっそうな未来にならないことをただ願うだけだった。
「・・・とはいえ、お茶には毒が入ってないようだ」
とアエネアスが口にしたのを確認して、有斗もお茶を飲んだ。さっきから喉がカラカラだったのだ。
その言葉を聞くと、アエネアスがぎろりと有斗を睨んだ。
「・・・あ、ひどい! 陛下!! 私を毒見に使った!?」
有斗はアエネアスが動けないことをいいことに素早く移動し、殴られないように羽林の兵の背中に隠れた。
客間から退出したマシニッサを追って、廊下にて控えていたスクリボニウスが近づき、話しかけた。
「どうなさるおつもりで?」
「まだ決めていない。まさかここまで大物が網にかかるとは思ってもいなかった。正直言うと困り果てたというのが本音だな」
苦笑いするマシニッサをスクリボニウスが珍しいものを見るかのように見上げた。
「これはまたお珍しい」
「カヒに引き渡したほうがいいか、それとも王を安全に王都にお返しするほうがいいか、にわかには得失を計りかねる」
これまたマシニッサにふさわしくない優柔不断ぶりである。
なにせマシニッサは即決即断の男である。
しかも一度決めたら、それが成功しようが失敗しようが、どんな結末を迎えようが一顧だにしない、ある意味からっとした性格の持ち主なのである。
妻が自殺しようが、妹が切りかかろうが、姉を焼き殺そうが、その瞬間ちょっと悲しそうな表情をしただけで、その夜には何もなかったかのように熟睡し、翌日には朝飯をお代わりまでする胆の持ち主。それがマシニッサなのである。躊躇や後悔など無縁な男だ。
王が今手元に、しかもわずかな護衛しかつけずにいるというこの最大の好機に動くのを
いつものマシニッサ様なら一も二もなくカヒに王の首を売りつけると思うのだが・・・
「私はカヒに引き渡すべきだと思います。王師全軍をもってしても、カヒの騎馬軍団には手も足も出なかった。今回の戦でそれがわかったではありませんか? もはや流れは完全にカトレウスのほうにあります。いずれ滅びるのであれば、それに加担して共に滅びることなどありますまい。しかもここで王をカトレウスに引き渡せば、カヒは天下を手中にします。前代未聞の大功と言えるでしょう。恩賞も破格な物となるに違いありません。それに天下人となったカトレウスはマシニッサ様の働きに感謝し、その恩を生涯忘れぬことでしょう」
「それはどうかな・・・カトレウスは
「トゥエンクにとっては王が勝ち残ったほうがいいとお思いで?」
「俺はどちらが勝つのも望まない。ずっと両者が泥沼の戦いを繰り広げている間に、ある時はカヒにつき、ある時は王につく。そうやって時に武力で時に謀略で領土を増やしていきたい。そのためには今回は王に生き延びさせるべきだと思うのだ。おまえは王がこのままやられっぱなしでいると思うのか?」
「正直申し上げて、私はあまりあの王の実力を買っていません。今回の戦で分かったではないですか、今までの戦争はダルタロス公の補佐があったから、勝利していたということではないのですか? そのダルタロス公のいない今、王に肩入れしても何一ついいことなどないと思うのですが」
「実力・・・か」
マシニッサは何故かスクリボニウスの言葉を鼻で笑った。
「王は河東に攻め込み敗北した。これが何よりの証では? しかも見え透いた罠にはまり、後方からカヒに襲われ大崩れ、一万もの兵を失ったとか・・・まさに大敗。疑問の余地なく愚将です」
「だが絶対の死地に追いやられ、大敗したのに一万の兵を失っただけ、いまだ王師は健在。しかも味方とはぐれ、敵中に孤立したのに無事に河東から逃げ切ることができた。王もなかなかのものだとは思わんか?」
「実に運のいい人物とお見受けいたします」
それは運以外何もなかったではないかという、スクリボニウスの痛烈な皮肉だった。
「そうだな・・・そのとおりだ」
だがマシニッサは顎に手を当てて何かを考え込むようであった。
「なぁこの世でもっとも努力や修練をしても得られないものとは何だと思う?」
突然の質問にもスクリボニウスは戸惑わない。マシニッサの思考はいつも一箇所には留まらず、あちこちに飛ぶ。これくらい対応できなければマシニッサの副官などできやしないのだ。
「容姿とかですかね。やはり美人不美人は生まれついてのものでしょう」
歴史を見ればいい。下賎な出でも美人であるが故、王に見初められ栄耀栄華を極めた女人の話がいくつでも転がっているではないか。どんなに高貴な出でも王の寵愛を得れず泣き暮らした女人の話も聞くではないか。
「だが外見は化粧や服装でなんとでも誤魔化せるものだ」
「では運動能力・・・そうですね剣術とかはどうでしょうか? あれももって生まれたものがものをいう」
「たしかにな。最後は持って生まれたものが物を言うだろう。だが練習し、技術を取得すれば、ある程度の差は逆転できる」
「となると・・・思いつきませんな」
「先程おまえが言っていたではないか。運、だよ」
「運?」
「そうさ運だけは努力しようもないし、修練しようもない」
「ですが運だけでこの戦国を生き残っていくことなどできませんよ」
戦争の才だけではない。あの王は政治の才能もないのだ。
「王は愚かにも新法派の口車に乗り、
「それはどうかな? 王から乞食同然にまで堕ちたのだ。普通の運の持ち主ならそこで死んでいるはずだ。ところが逃れ来た南部にはダルタロスという大諸侯がいて、どうやってかアエティウスの知遇を得、挙兵した。しかもそこには病気で中央から追い出された稀代の天才アリアボネが運よくいた。その二人の協力を得て勝利を積み重ね、王都へ戻ってみるとどうだ。すると王朝内のやっかいな勢力、理想ごとを並べながら利権を得ようとした新法派と既存の利権構造に癒着した旧法派双方がいなくなり、王が思いのまま政治の取れるような朝廷になっている。王にとって何よりもやっかいなのは外の敵よりも、派閥を組み王を軽んじ政治を私する連中なのだ。なぜなら敵なら攻め滅ぼせばいいが、
そんな強運がそうそうあってたまるか、というのがマシニッサの本音だった。
「関西遠征もそうだ。王は四方を敵に囲まれ絶体絶命の危機に見舞われていた。誰の目にも滅亡は必至だった。だのに気が付けばあっさりと関西を滅ぼしていた。しかもやっかいな関西王朝の高官と将軍たちを反乱騒ぎで一掃し、東西の統合という難事をあっさりと終わらせてしまった。これまた王の名に一切傷がつかずに、だ。いや、違う、むしろアエティウスが王の代わりに死んだこと、それにも関わらず当初の約束どおり王女を生かしたことで、王は諸人の同情をかい、東西の官吏から尊敬を得ることとなった。運が良すぎるのだよ。王は」
まるで周囲の運を吸い取り、己のものとするかのようだとマシニッサなどは思う。
そして運を吸い取られた者は王に代わって死んでいくのだ。
四師の乱の高官たちのように、アエティウスのように、アリアボネのように。
「今まで王は、反乱騒ぎや包囲網など、どう見ても圧倒的に不利である状況に何度も陥った。だがそれらは終わってみれば何故か全て、王にとって有利な状況になって終わっているのだ。だとしたらカヒに大敗したこの状況、最後は王にとってどういう結末で終わるんだろうな? その時、我々はどちらについていたら生き延びられるのだろうな? そうは思わないか?」
「・・・それは、確かに」
言われてみればそうだ。確かに王は運が良い、いや良すぎるのだ。
「俺が王に感じる怖さとはそれだ。王は何度も死んでもおかしくない局面を迎えたのに、悪運強く生き長らえている。死ぬのはことごとく王に敵対していった者たちだ。もし我々が王をカヒに突き出したとしたら、今度こそ王の悪運は
天だとか神だとかいうものがもし本当にあるのなら、聞いてみたいものだとマシニッサは思った。
貴方はどんなとんでもないことをやらせる為に、あの男に肩入れし、生き延びさせているのですか、と。
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