第165話 韮山崩れ(Ⅶ)

 街道では夜通しの追撃戦が行われていた。

執拗しつようなやつらだ」

 カヒ側だって戦闘に続いての追撃だ。疲労度はピークに達しているはず。そして逃げる敵を追撃すると言う目的なら十分に達せられている。普通なら夜になる前に追撃を終えて兵を撤収し、戦を終えて休むものだ。

 なのにカヒの兵は諦めることも疲れることも知らぬかのように、迫ってくる。王師の兵は心底うんざりしていた。


 しかも王師でも最後尾でバアルらと接していた兵以外は後方からバアルたちが追ってくることを知らなかった。戦場を逃れ、薄闇に包まれたことで安心し、疲れた体を横たえて休息を取ろうとした者は少なくなかったのだ。

 そこをバアルたちに襲われたのである。

 夢を見ることすら許されないほど深い眠りに落ちていた彼らは、突然の騒動に睡眠不足で充血した目をこすりながら、悲鳴を上げて逃げ惑うことだけができるただ一つのことであった。

 その背中にバアルたちは好きなだけ槍を突き立てた。

 王師の将士は焦りを感じる。

 このままの状態が続くのなら、不利になるのは王師だ。

 バアル隊だって超人の群れではない。いつかみ疲れて追撃を止めるだろう。だが明日の朝になれば、十分睡眠と休息を取って元気いっぱいのカヒの騎馬兵が馬蹄を轟かせて、東山道からバアルたちを追って駆けつけてくるとも限らないのだ。

 王師は戦場で失った数倍の兵士を東山道に屍と化すことになるかもしれない。


 翌朝、ほんの少しの休憩を取ると、太陽が登りきらぬうちにバアルは馬に乗り、追撃を再開した。

 深夜、日付が変わるころまで追撃したのに、いまだ王の姿は影も形も無い。

 王師と同様に時間がたつにつれバアルにも焦りは生じていた。

 ヒュベルと戦ったあの時が一番王に近づいたときかもしれない。あの機会を逃してしまったことが運命の分かれ道だったかもしれない。そういった思いだった。そこから相手も馬に乗って夜通し駆けているとすれば、王はもうバアルには手の届かない場所に逃げ延びてしまった可能性が高い。既に堅田城に逃げ込んでいるかもしれない。それにバアルの強行軍にさすがのカヒの兵たちも落伍者を出し始めていた。

 だがそれでも諦めるわけには行かない。このような好機は二度と訪れないかもしれないのだ。


 だがバアルのその僅かな希望をも打ち砕くものが現れた。

 突如大量の矢が天から降り注いだ。喚声と共に横手の丘の上に一斉におびただしい旗が立ち並び、かねが鳴り、兵が湧き出る。

 予期せぬ攻撃にバアル指揮下の三翼は大混乱に陥った。

 敵兵が混乱し、隊列を乱していると見たその兵たちは勇躍、司令官の命令の元、丘を駆け下りバアルたちに襲い掛かった。

「まさか本当に来るとは思わなかった」

 カヒの旗をこうして目前にしても、ガニメデは信じられない気持ちでいっぱいだった。

 ここは戦場から十里は離れているのである。ここまで追撃するなど常識ではありえぬことだ。

 ガニメデが敵が来る可能性の低い、こんな遠方で兵を伏せさせていたことも常識ではありえぬこと。これにはもちろん理由がある。

 今回の戦ではガニメデ率いる第十軍は輜重しちょうの担当と堅田城の守備である。大河の両岸に留まって、荷の受け渡しなどその任務を遂行していた。だが突然、事態は変化する。王が全軍の退却を命じたためだ。

 そうなると大軍を堅田城に迎え入れる支度もせねばならないし、帰りの船を確保しなければならない。忙しく近隣の村々に兵を派遣して船を集めるガニメデに、一通の封書を渡したのは王都から派遣されていた軍監だった。

 その書類には中書令の封がなされていた。軍監によると王が急に退くことがあればガニメデ卿に渡すように、と王都を出る時に渡されたらしい。

 そこにはこう書かれていた。もし王が撤退に失敗しカヒと戦うことがあるとすれば、勝利はどう転ぶか分からない。勝つならばいい。だがもし負けたなら、カヒは勢いに乗って追撃し、大勢の王師が命を落とすことになる可能性がある。そこで、ちょうど東山道には兵を埋伏するのに適した地形がある。そこならば四旅であってもしばらくは敵の進撃を食い止めて味方に堅田城に入る時間を与えることができる。それを行ってみてはどうであろうか? もし将軍がそれに成功したならば、此度の東征で一番の首功者ということになるであろう・・・と書かれていた。

 中書令には軍事に対する指揮権は無い。だからあくまで『提案』である。

 それを跳ね除ける権利はガニメデにはあったが、鹿沢城では世話になった恩も無いわけではない。だめもとでやってみるかと判断したのである。

「どうやらあの小さな中書令殿は、たいした戦略眼の持ち主でもあるらしい」

 官僚としての吏務の才は言うまでも無く、戦においては多少の戦術に通じていることも鹿沢城での戦いで身をもって体験したが、それは城攻めに対抗する事前の策でしかなかった。

 実際の攻城戦の最中に武将としての閃きを見せたことは無かった。戦闘中はどちらかというと、ごく平凡な指示しかガニメデは貰っていなかった。

 鹿沢城防衛戦で敵の奇手にもことなきを得たのは実にヘシオネとガニメデの指揮の賜物たまものである。

 だから所詮頭でっかちの学者、兵書をかじった程度であろうと見くびっていた。

 だがその認識を大いに改めなければならない時が来たようである。

 それにこれはガニメデにも喜ばねばならぬことでもある。数多くの王師の将軍たちがいる中で、特に選んでこの役目をガニメデに割り振ったのだ。どうやらラヴィーニアの目にはガニメデはこの退勢を覆すことができる数少ない男として映っているということでもある。王朝の頭脳である中書令に良い印象を持たれているのなら、今後の昇進にも期待が持てるというものだ。

 もっともこうなった時に兵を自由に動かせる将がガニメデしかいなかったということも理由の一つかもしれないけれども。

 ガニメデの指揮のもと、坂上からすべるように降りてきた兵たちに挟まれて、瞬間慌てるバアルたちだったが、バアルたちを止めるにしてはそれほど兵が多くないことに気付く。

「これなら慌てることもない。突破して後背に回りこみ素早く殲滅する!」

 こちらは騎馬なのだ。その強みを存分に生かして戦えば、多少の伏兵など物の数でもない。

 一方的に押される時間は終わった。バアルは素早く兵を纏め上げ、自ら剣を取り、敵陣の薄い場所を目聡く見つけて突入する。簡単に蹴散らすことはできた。だが突破はできない。それを蹴散らしていると突如横合いから槍を突き入れられるという手酷い歓迎を受ける。

 騎兵は足が止まると歩兵に対する優位さが半減する。だからそれを防戦しつつ動き続け、敵の一番弱そうな部位を見つけ集中的に攻撃し、背後へと抜け出す道を探る。だがなかなかそれに成功しない。敵の重囲を突破しようとすればするほど情勢が不利になってゆく。真綿で首を絞められていくように、行動範囲が狭められていた。

 ふと一瞬だけ、眼前から敵が消え、手が空き、戦場全体の光景を冷静に見ることができる時間がバアルに与えられた。

 戦場を一望したその時、バアルは敵の意図に気が付いた。

 敵将は右に左に兵士たちを細かく動かし、わざと弱い部分を作って敵に見せ、そこに誘い込むことでバアルたちを動かしている。

 完全に包囲し、バアルたちを絶対の死地に追いやろうとしているのだ。

 バアルは戦慄した。なんということを考える敵将なのだろう!

 いや、違う。考えたとしても普通では実行できない。複雑な敵の動きに合わせて部隊を動かすなど常人の為しうることではない。誰かは知らぬがそれをバアルの目の前でやって見せている将がいるのだ。

 だが、それが分かれば対策は簡単だ。

 バアルは反転を命じると包囲を抜け出すべく街道を逆進する。

 当然の如く、そこは兵が戦列を組んで待ち構えていた。二重三重の槍衾だ。普通なら一見して兵のいない丘の方に馬首を向けるであろう。だがバアルは知っている。そちらこそ危険なのだ。丘を登って息の上がった馬の前に立ちふさがるように兵が伏せられているであろうことを。

 もはや多少の犠牲などお構いなしだった。バアルは物量だけをもって敵に相対した。それも当然だ。

 己が立てた計略が敵に露呈し、脱出せんとしていることを悟ったガニメデが持てる兵力を全て叩きつけようとしていた。このままでは足を止めた瞬間にバアルたちは全滅する。

 とにかく局地的な数ならばカヒ側が上回ることができる。目の前で立ちふさがる戦列に持てる限りの兵力をひたすらぶつけ、突破を図った。策も戦術も無かった。ただ敵が防御できなくなるまで数をぶつける。飽和攻撃あるのみだった。

 バアル隊三翼は脱出するためだけに、この戦で今まで払った犠牲の十倍もの死者を出した。

 だがとにもかくにもバアルは脱出した。預かった三翼の兵を全て失うと言う愚だけは避けることができた。兵をまとめて速やかにその場を後にする。

 それを見たガニメデは落胆した表情を浮かべた。ガニメデはカヒの軍旗の中に見たことのある軍旗、つまりバルカ家の旗を発見していたからである。もし彼を捕らえることができたら、その功はまさに前代未聞の大功となったであろう。

「逃げられたか。あとほんの少しだったのだがな」

 だが、直ぐに気を取り直す。それでも追撃してきた敵兵の鼻っ柱をへし折って、敵に冷や水を浴びせることができたことは事実だ。これだけでも十分な成果だ。

 それに反撃を受けたと言うことでカヒもこれ以上の追撃を諦めるであろう。

 それでもしばらくは陣を敷き、旗をなびかせ厳しく布陣せねばならないな、とガニメデは考えた。敗走してくる味方を鼓舞し、偵騎であれ部隊であれ近づく敵を警戒させることができるであろう。


 一方、なんとか死地を脱出したバアルたちは一里も走りぬけ、ようやく人心地つくことができた。

 だが反撃を食らい、頭が冷めた兵たちは前日からの強行軍で溜まった疲れがいっぺんに出て、これ以上の戦闘に耐え切れなくなっていた。兵だけではない。一昼夜走り続けた愛馬は白い泡を吐いて叩いても起き上がりもしない。もうどの馬も限界だった。

 バアルはついに追撃を諦める。

「残念だ。王を捕らえる絶好の機会だと思ったのだが・・・実に残念だ」

 バアルは心の中からしぼり出すようにそう呟いた。

「残念です」

 そう呟くパッカスの息も絶え絶えだった。


 ガニメデは逃げ落ちてくる味方の為に一昼夜その場に布陣し続けた。やがて落ち延びてくる兵もまばらになったことで堅田城に撤兵を決意する。

 まだ道に迷って辿り着かない王師の兵もいるではあろうが、河東はカヒの勢力圏、長居は危険だ。

 韮山で戦ったカヒの本隊も近づいてきていると言うし、近隣の河東の諸侯もしきりに兵を集めて落ち武者狩りをしている様子だった。いつ攻め寄せてきても不思議ではない。河東沿岸諸侯は幸いにして未だ朝廷側だったが、それもいつまで味方してくれるかは未知数である。四千しか兵を持たないガニメデにはこれが精一杯と言える。

 無念な気持ちはもちろんあるが、今はこれ以上の犠牲を出さないことだけを目指すべきだ、とガニメデは考えた。

 堅田城に戻るとそこは終結した王師の兵で埋め尽くされていた。

 防衛戦も考えなければならない。


 王師が集結した堅田城をバアルは無念そうに近くの丘の上から眺めていた。

 バアルは彼を追ってカヒの他の部隊が追跡してくることを知っていた。夜も戦いつつ敵を追い続けたバアルたちと違い、彼らは十分休んで活力があるはずだ。

 彼らの協力を得ればまだ追う事は可能だと踏んだのだ。

 だが彼らはバアルらが反撃を受けたと聞くとそれ以上の追跡は無駄だと結論付け、バアルの策に同意しなかった。備えのある敵に襲い掛かっても得る物は少ないと判断したのだ。

 河東沿岸部の諸侯への地ならしも行わずに、堅田城を攻めるのは時期尚早とカトレウスが考えていることも影響した模様だった。

 バアルには手持ちの兵力も無ければ、命令する権利も要請する権限も無い。黙ってそれを受け入れるしかなかった。

 王の首を得れば天下を得れるのだ。幾千の犠牲を払っても行うべきだと思うのだが、彼らの考えは違うようだ。

 王の首などいつでも取れるさと言わんばかりの態度だった。

 しかし王は稀有けうな幸運の持ち主なのである。それは間違った考えだ。このような好機そうそう巡ってくるとは限らない。後になってあの時追撃していればと悔やむことになったらどうするのだ。

 だが今日は諦めるしかない。

「どうやら王と俺との戦いはまだ終わりを迎えるときではないようだな」

 この切所せっしょを乗り切るとは、なかなかにしぶとい。

 だがこの次こそは、とバアルは大河の水面に映る堅田城を見て、そう固く誓った。


 こうして有斗の言葉から始まった、多くのものを費やしてまで行った、労多くして実りの無い河東侵攻はようやく終了した。

 この一連の戦争はカヒと有斗との未来を決定付ける最終決戦とはならなかったが、その結果が人々に及ぼした影響は大きかった。

 今までの王の軍事的成功は、亡くなった二人の謀臣の力であって、有斗の実力ではない。有斗の不敗伝説が紛い物であり、よって有斗が天与の人であるということに疑問符がついたのだ。

 さらにいかに地の利があったとはいえ、数に劣るカヒが王師をたった一回の会戦であっさりと打ち破ったのである。各地の諸侯の目には王朝が図体が大きいだけの瀕死の病人であると映ったのだ。

 そして実害も馬鹿にはできない。徴発した船舶、大量の矢など戦費も莫大な金額であり、河東にて放棄せざるをえなかった兵糧もまた多大であった。

 何より朝臣の顔を青ざめさせたのは、五万の征東軍のうち帰還できた者が四万に満たなかったことである。

 帰らなかった兵は実に二割を数えることになった。

 エザウ、バルブラの両将軍を筆頭に多くの名のある武将も命を落とした。

 国家が傾くほどの歴史的な大惨敗であった。

 もし最終的にカヒが天下を取ることになるとすれば、後世の歴史家は間違いなく、この敗戦と有斗の軽々な判断を最大の要因として、有斗を糾弾することになるだろう。

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