第163話 韮山崩れ(Ⅴ)

 バアル指揮下の三翼は地元民に韮山と呼ばれる段丘をぐるりと巡って裏側に回りこんだ。道なりに行ったにもかかわらず、思ったよりも距離があり、そのため開戦時までにたどり着くことができなかった。

 その代わりに戦闘状態に入り、前面に意識を集中せざるを得ない王師にその存在を感づかれることなく接近することができた。

 兵を松林の奥に隠すと、草むらに身を隠すようにして戦場の様子をうかがう。

 戦は今まさにその時、大きく動き出そうとしているところだった。

 左翼に位置していた敵の一部隊が大きく弧を描いて、カヒの右翼の横腹をえぐるように突き刺さっていた。とはいえその攻撃にカヒはよく耐えている。普通は横から攻撃を受ければ大きく陣形を崩すものなのだが。

 だが王師の他の左翼の隊はいまだ最初の位置から大きく動いてはいない。

 特に本来その動きに連携せねばならない敵左翼の本隊はカヒと正面からぶつかり合っていて一進一退、その場を動くことができない。カヒに襲い掛かった部隊の後ろに位置する隊は本来はその二つの部隊を繋ぐように布陣し、両者を援護する動きをするべきなのだろうが、撤退時にカヒの攻撃をよほど受けたのであろう、大きく傷ついており、そういう補助的な動きすら満足にすることができないようだ。

「まさに絶好の好機だ」

 バアルは急いで部隊のもとまで戻り、颯爽と馬にまたがった。

 天高く手を挙げ、続いて前へさっと倒し出撃の合図をすると、馬腹を軽く蹴って走り出した。

 兵が付いてくるかも確認せず突出する、勇気があるのか無謀なのか分からぬ指揮官を見て、兵は慌ててその後を追った。

 松林は下草も大して生えておらず、木々もまばら。騎馬はその間を縫うように馳せて次第に速度を速めていく。


 ニクティモが擬態で走らせた兵に気を取られ、王師は開戦前に全戦力の一割にも及ぶ部隊が敵軍から突然消えうせたことに気付かなかった。

 だから韮山の傾斜面と松林を利用して接近してきたバルカ隊の存在に気が付くのに遅れた。

 だが少しばかり認識が早かったとしても、結果は同じであったかもしれない。ベルビオの部隊はもはや前につんのめるような形で敵と接している。ステロベ隊も正面で敵と激闘を繰り広げていた。

 唯一アクトール隊だけが暇をかこっていたが、それはアクトールが怠惰な将であったわけではなく、ここまで退却するまでの間に受けた損害で損耗が激しく、攻勢にでれるような状況ではなかったからだ。

 だが軍としてそこに位置している以上、ステロベもベルビオもその存在を当てにしたとしても誰も彼らを責められはしないだろう。

 カヒは難敵なのである。とても兵力を二分して複雑な二正面作戦を指揮する余裕はステロベにもベルビオにも無かった。

「敵に別動隊がいたのか!」

 敵は王師に比べると兵数が少ない。その少ない中からあえて別動隊に兵力を割いたのは、それが戦局を決定づける一打となると判断したということだ。しかも王師の左翼は先ほどからの攻勢で陣形が大きく崩れ前掛かりになっている。ここで横合いから槍を入れられては左翼は持たない。敵の思惑通りに全面崩壊に一直線ということになりかねない。

 だとするとアクトールとしてはそれを防がなければならない。

 兵をもう少し休ませる時間が欲しいと言うのが本音だ。退いてすぐ布陣しただけで替えの武器や矢の補充を受けたわけでもない。とても戦える状況になり。とはいえ他にあれの相手をしてくれるお人好しな部隊は周辺には見当たらない。

「受けて立つしかあるまい」

 一旦こうと決めると、アクトールに迷いや不安は無かった。

 アクトールは全身、これ胆と呼ばれるほど度胸が据わった人物なのである。

 残り少ない矢を惜しまず、アクトール隊は向かってくる敵に向けてひたすら矢を放った。射すくめようとしたのだ。時間を稼ぐ、それがアクトールが出した結論だった。

 時間を稼ぐことで前掛かりとなったベルビオ隊とステロベ隊をもとの位置に戻させ、三隊が一体となって両面の敵に相対しようとした。

 だが効果は薄かった。絶妙な円形運動で矢を回避し、バルカ隊は眼前の部隊に襲い掛かった。

 アクトール隊とバルカ隊が交錯した。

 一瞬。

 まるで花火が炸裂するように、蜘蛛の子が散るように、豆腐を地面に叩きつけたように。

 アクトール隊は壊滅した。

 そう、まさに鎧袖一触だった。

 アクトールは本営周りの兵と共に孤軍奮闘し、カヒの騎兵隊の突撃を食い止め味方を鼓舞しようとしたが、もはや部下には戦いを支えるだけの気力が残っていなかった。敵の攻撃で敗北したと言うよりは自壊した。

 それでも崩れたのは王師の一部。新手のバルカ隊に対策を打ちつつ、粘り強く戦っていればあるいは勝敗の行方は分からなかったかもしれない。

 だがここで一気に王師は浮き足立ってしまった。

 理由は将軍たちの連携不足と、指揮系統の非確立だ。

 ステロベは関西王師、ベルビオは南部の諸侯の郎党、アクトールは南部諸侯、それぞれ出身も出自も違う。価値観や考え方も違い、お互い相手が何を考えているかわからない。

 本来なら阿吽あうんの呼吸で互いの弱いところを補うように部隊を動かす。だがそれは互いの動きが何を目的として動いているかわかるからできることだ。

 王師の動きも南部の兵の使い方も全てが違う兵理で動いている。手助けしようと思っても相手の考えが分からぬのならば補完しようがない。

 そして彼ら三人は同格なのである。誰かが誰かに命令を下すことはできない。

 もちろん要請することはできる。だがあまりにも立ち位置が違いすぎる三人の為に、遠慮しあって誰も要請すらしなかったのである。

 いままではそれでも良かったのだ。たとえ何かどこかで問題が起きても、本陣にいるアエティウスなりアリアボネが有斗に助言し、直ぐに適切な指示を出して兵を動かし救援させたのである。

 だがこれは有斗にとって初めての指揮と言っていい。常に全戦線に眼を配るだけの心理的余裕も戦略眼も無かった。

 何より有斗は目の前の街道上で繰り広げられる、エテオクロスら三師とカヒの騎馬軍団との死闘にほとんど意識を取られていたのだ。一度など危うく本営近くまで押し寄せたのだから仕方が無いとは言えるが。

 それに有斗が布陣したのは右翼後方である。しかも見晴らしのきく丘陵とかではなく平地だ。

 ベルビオが独断で部隊を動かしたことも、左翼で変事が起きたことも、気付かなかった。いや気付くのが無理だった。五万もの大兵だ。兵の陰に隠れて遥か遠い左翼の状況がよく見えなかったのだ。

 アクトール隊が崩れ去った瞬間、その敵が後方に回り込むのを見たベルビオ隊はこのままでは退路が塞がれると悟り、慌てて後退を始めた。

「ここで後ろを向いて逃げれば敵にいいように後ろから槍を入れられるだけだぞ! まん丸になって守りぬけ! 我慢していればまだ勝機はある!」

 もしそれが成功していれば、左翼は崩れなかったに違いない。

 ベルビオは逃げようとする兵の髪を引っ張り怒鳴りつけたが、まるで効果は無かった。兵は我先にとベルビオを置いて逃げ出した。

 なぜなら、ベルビオは急造の指揮官、一般兵たちとは心の接点が無い。

 兵から見るとベルビオは一人の人間としてなら強いことは間違いないが、指揮官として信用できるかは分からない。それに親しくもない。別に親しみも感じない人物の為に命を張って膂力りょりょくする兵はいない。そして己の命をまず大事に考えるのは人間として当たり前の行為だ。

 もはやベルビオ隊は後ろから好きなだけ槍を突きつけるだけで首が狩れる惰弱だじゃくな標的と成り下がった。

 後はマイナロスの兵に任せておけばよい、とバアルはもうベルビオ隊に興味を無くした。好きなだけ戦果をあげることができるのだ。喜んでやるに違いない。


 次にバアルの前に現れたのは実に馴染み深い旗だった。

 その旗を見てバアルはふと寂しい気持ちに襲われた。それは関西王師中軍の旗、そしてステロベ卿の旗だった。ついこの間までの味方だ。できれば殺したくない。もし関西を復興するならば、いずれ彼らは必要な味方となりうる。

 とはいえ私情は無用だと一瞬で思い直した。今は関東の王に従う兵なのであるからだ。

「パッカス殿!」

 呼ばれたのは若い、二十代に届かぬ青年将校だった。堅田城で城と運命を共にした父に代わって一翼を担う存在なのだから、それなりのやり手であろう。バアルにとっては自分に近い年齢ということで命令も下しやすい。

「御用は!?」

「左翼の本隊であるあの部隊を三方から包囲する。後方に回って欲しい。左翼を完全に崩壊させたい」

「了解しました!」

 返答に迷いはない。若いが、頭の回転の速さと戦術的視野の広さはバアルも認めるほどの人物だった。二十年もすれば老齢となった現四天王の後釜にもなれる人物であるとさえ思っていた。

「父上の仇を取るには絶好の機会だ」

「はい」

 これに成功すればカトレウスの、そしてバアルの考えは完璧に実現されることであろう。

 左翼が全て崩れ去れば敵に与える心理的影響は大きい。さらに戦っている実数でもその時点でカヒが上回ることになる。

 そうすれば後はひた押しに押すだけ。敵はしばらくは持ちこたえるかもしれない。

 だが、やがて気付くだろう。自分たちの右手にある川が見かけと違い水量が多く、鎧を着た兵士ではとても渡れないことを。そして自分たちが背水の陣という死地にいることを。そうなればもはや戦どころではない。勝利はたやすく転がり落ちてくることだろう。

 そして王がそれに気付いて逃げ出す前にバアルに与えられた三翼三千を背後に回して街道を塞ぐことができれば・・・王を捕らえることも夢ではない。

 バアルは期待に胸を膨らませて、その障害となりうる目前の部隊に襲い掛かった。

 前方の敵と応対していたステロベ隊は横腹に匕首ひしゅが突き刺さってもステロベの指揮よろしく、しばしの間持ちこたえた。

 だが背後に回りこまれるとアクトール、ベルビオ隊に続いて引き摺られるように崩れ落ちる。

 勢いに乗るカヒの軍は次なる獲物、鶴翼における鶴の胴体、すなわちバルブラ、プロイティデス隊に襲い掛かった。


 バルブラ隊とプロイティデス隊はそれでも力戦した。

 すでに一翼が崩れ去ったのだ。戦は終わりなのである。もちろん右翼や中央が敵軍を突破するなら話は別だが、押すどころか、いまや勢いづいた飢えた牙狼によってむしろ食い散らかされている有様だった。

 だが、いましばらく崩壊を押しとどめようと懸命の努力を続けていた。

 それは勝利のためではない。だが味方のためになることではある。

 もはやよほどのヘマをしでかさない限り、カヒの勝利は疑いない。この退勢を覆すのは容易ではない。このままでは囲まれて逃げ場をなくした王師は多大な犠牲者を出し壊滅するだろう。

 だが陽は傾きつつある。もうすぐ稜線に日が沈む。そうなれば逃げ出すことが容易になる。より少ない犠牲で負け戦を終えることができる。

 が、それもこれも王が生き延びたらという条件付だが。

「何をしているんだ本営の将軍たちは」

 プロイティデスは苛立たしげに本営に今だ立つ王旗を睨んだ。それは戦場に王がまだいるという証。

 若が生きていればこんなことは無かった。いや、こうなったとしても既に王を逃がしているだろう。

「陛下の下へ走れ。早くお逃げください、と言ってくるんだ」

 有斗にここで死んでもらっては困る。他のものならいざ知らず、自分が生き延びているのに王を死なせた日には、若に死んで合わせる顔が無いのだ。


 プロイティデスがそう言っていた事を兵が伝えても、有斗は頑として首を縦に振らなかった。

 それもそのはず、本営では先程から落ち延びるように説得を続けるアエネアス、エテオクロス、ヘシオネらと有斗の間で一悶着が続けられていたからだ。

「今、目の前で戦いは続いているのに、王が逃げ出すなんて卑怯だよ! 僕は退却するなら兵たちと一緒に退却したい」

 有斗は王の命令で戦わせているのに、その王が真っ先に逃げ出すのは理に合わないと主張し続けていたのだ。

 どこかのラノベで書いてあった、物語の主役であるトップは後方の安全な椅子に座り、兵に死ぬ命令を下すのではなく、軍の先頭に立って、兵と共に食事し戦うというのが良いトップであるという誤った情報を丸呑みしていたのだ。

 それは単なる匹夫の勇だ。敵の兵を倒すのが兵の仕事、その兵を効率よく動かすのが将軍の務め、そして戦場全体を把握し部隊を動かすのが総司令官の務め。

 それぞれが己が役割を果たすからこそ組織はちゃんと動くのだ。総司令官が兵士と同じ行動を取ったら、誰が全体を指揮するというのだ。

 だがその心がけは立派なものだ、とアエネアスは思った。その心を忘れなければ、兵はきっと王の為に喜んで死んでいくに違いない。

「実に立派な考えです。陛下の御考えを聴いたら兵は喜びましょう。でも今は陛下がすべきことは逃げることです。さ、行きましょう」

 しかしアエネアスが手首を掴んでそう言っても撥ね付けられた。いつもの有斗にはありえない強情さだ。

「今、目の前で戦っている者たちは王を逃がすために戦って死んでいるんです。どんな勇猛な戦いぶりでも、陛下が死んだら彼らの死は無意味なものになっちゃうんですよ!」

「それはわかるけど、まだ戦いは終わっていない。最後まで諦めずに戦えば、きっと・・・!!」

 そう簡単に諦めちゃいけない。まだ勝負は終わりじゃない。有斗は頑強に抵抗した。いつにない有斗の頑固さにアエネアスだけでなく、本営周りの将軍らはなすすべを知らなかった。

 そこにバアル隊に押されて本営間近まで後退していたバルブラがやってくる。

 もう戦は終わった、大勢は決したというのに、真っ先に退くべき王旗がいつまでも戦場に棚引いていることに事の重大さに驚いて、慌てて駆けつけたのだ。

「陛下、大勢は決しました。一刻も早くお逃げくださるようお願いいたします」

「これはバルブラ卿! 先ほどから陛下にそうお薦めいたしておるのですが、ご納得いただけないので困っているところなのです」

「左翼は崩壊したと言っても、まだ全軍の三分の二は残っている。どこかに・・・どこかに勝利する糸口を見つけさえすれば・・・・・・!」

 負けるのは勝つより簡単だ。だが痛手が浅手なうちに鮮やかに退くということになると実は勝つよりも何倍も難しい。

 まだ勝てる目があるかもしれないのに、それまでに費やしてきた時間や物資が全て無駄になること、そして負けの責任の両方を認めなければならないからだ。それは自己を否定することである。人間だれしもできれば己を否定したくはない。よって周囲から見て遅いと映るほど負けないと、人間、負けを認めないことが多いのである。

 その感情は博打や投資に似ている。そして多くの場合、感情論からずるずると決断を引き延ばして、より悪い結果を生むのである。

 つまり負けを早いうちに認めるのは、当事者であっても冷静に情勢を判断できなければならない。年若い王にはこれは難しかろうとバルブラは思った。

 しかも王はこれまで勝って勝って勝ち続けてきた。

 それはそれで素晴らしいことだが、負けた経験がなければ、自分が今どのくらい負けているか正確な判断をすることができない。

 そんな状況で側近たちに戦は負けました、逃げましょうと言われても、負けを認めたくはない、自己を否定されたくないという心が勝り、承諾しないといったこともあろうと人生経験の豊富なバルブラは考えた。

 そこでバルブラは王の長所の一つである情け深さを利用するべきであると考える。

「陛下、ですが陛下が落ち延びなされないと将兵はいつまでたっても逃げ出すことができません。陛下をお守りしようとあたら無駄に命を散らすことでしょう。大勢の王師の将兵と、その家族の為にお逃げくださるよう懇願いたします」

 そう言ってゆっくりと頭を下げたバルブラの言葉は有斗の心に突き刺さり、冷静にさせるだけの効力を持っていた。

「そうか・・・僕がここにいると犠牲は増えるだけ・・・か。どうやっても、もう勝ち目はない?」

「はい」

「そうか・・・わかった」

 有斗は悔しかったが、戦場往来の豊富なバルブラやヘシオネらが異口同音に負けを口にするならば、それが間違いであるはずはないと判断するだけの冷静さをようやく取り戻していた。

 有斗の言葉を撤退に同意したものとみなし、ヘシオネが有斗に退き陣を迫る。

「そうと決まれば羽林将軍どのと共に一刻も早く退いてください。殿はこのヘシオネが承ります」

「ヘシオネ殿は陛下を補佐する大事なお身の上、この私に考えがありますれば、陛下、僭越ながら王旗をお貸しください」

「王旗を?」

「王旗が戦場から退けば味方は崩れ去りましょう。それでは退く陛下の御身の上が危なくなります。味方の兵も秩序だって退くことができなくなり、被害が増えるばかり。私が殿しんがりとして日が落ちるまで王旗をお守りいたしますれば、しばらくは敵を引き付けます。その間に我が将兵と陛下は安全に堅田城まで退くことができるでしょう」

「しかしバルブラ殿の兵は先の戦いで大きな損害を受けております。困難な撤退戦、支え切れるものでしょうか」

「ヘシオネ殿、このバルブラは流賊流民など渦巻く河北で泥船に乗るかのような負け戦、幾たびも経験しております。このような苦境の戦こそ老骨の得意とすること。この老いぼれめの経験を信じて、殿を任せてもらえないか」

 有斗はヘシオネが頷くのを見て、バルブラの策を取ることに決めた。

「そうしてくれる? 困難なことを任せてすまない」

「こういうことには慣れております」

 心配はいらぬとばかりにバルブラは笑ってみせた。

「バルブラ・・・必ず戻ってきて欲しい。死んだらだめだ」

「かならず。堅田城で再びお会いいたしましょう」

 バルブラに王旗と本営を預け、有斗らは急ぎその場を後にする。


 一人残ったバルブラは有斗たちを見送ったのち、本営前に陣を再び敷いて敵を迎え撃つ。

「旗をもっと立てよ。さも本営に陛下がおられるかのように見せかけるのだ」

「そのようなことをして意味が?」 

「中は無人なのだ。少しでも賑やかにせねば敵に勘付かれる」

「敵はここを目指して殺到してきましょうね。支えきれましょうか」

「なに、夜までの辛抱だ。ここが踏ん張りどころだぞ」

 バルブラはそう目の前の兵に大言壮語を吐いた。だが王にはああ言ったが、バルブラは自分が生きて堅田城まで帰ることなど既に露ほども思いもしなかった。

 左の翼は折れ、それを治す命令を下せる王はこの場におらず、予備兵力もない。そして敵はカヒなのである。易々と殿を逃がすような生易しい敵ではないのである。自身も、第五軍の多くの兵も死なねばならないだろうと既に覚悟を決めていた。

 だがそれを悲しんでいるわけでは無い。

 バルブラには王に請い願われて出仕したその日から、いつかこういう日が来るのではという予感があった。

 それを恐れていたわけでは無い。むしろそれを願っていたくらいだった。

 華やかな勝ち戦ならば他の将軍でいくらでもこと足りる。若く才能豊かな将軍たちが王師には綺羅星のごとくいる。もはや老骨である自分の出番はないだろう。

 しかし負け戦ならばどうであろうか。王師は強い。故に王師の将軍たちは負け戦の経験、それも自軍が完全崩壊するような酷い負け戦の経験は多くはあるまい。

 だが戦場に出る以上は常勝無敗ということはあり得ない。高祖神帝サキノーフ様ですら負けた戦はある。

 天下を掴むには負けをどう生き延び、そしてそれを生かして次に繋げるかが大事なのだ。

 この度の戦は王にそのことを知ってもらう天から与えられた大切な試練なのだろう。バルブラはそう思った。

 その為には王には生き延びてもらわなければならない。代わりに自分が死ぬことになっても。

 それが自分のような老骨に働き場所を与えてくれた王に対する、自分らしい報い方だともバルブラは思った。

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