第162話 韮山崩れ(Ⅳ)

 カトレウスの見るところカヒはあらゆる箇所で優勢を示していた。だが、それはあくまでも現時点での優勢、敵は攻撃を受流しつつ、様子をうかがっていると見た。勝利を決定付けるにはほど遠い。それには最後の駄目押しとなる何かが要る。

「お館様! 敵左翼が動き始めました!」

「ふむ。ここが勝負どころと踏んだか。その考え自体は悪くは無い」

 左翼に主力を置き、回り込んで敵右翼の崩壊を狙うのは常識的な戦い方と言える。

 だがそれは全軍が守勢から攻勢に移ったならという仮定の話がつく。他の部隊と連携せずに突出すれば、それは孤軍となりうる危険な行為だ。

 この動きが敵にとっての好機に繋がるか、それとも味方にとっての好機に繋がるか、慎重に見極めなければならない。そしてもう一つ大事なこと、千変万化の戦場では一瞬の判断の遅れが敗北のきっかけと成りうる。同時に長考するわけにはいかない。

 これは好機ではあるが、まだ動くべき時ではない、カトレウスはそう判断した。

 動くのは予定の行動が実行されてからで十分のはずだ。右翼はマイナロスが指揮を取っている。現れただけで兵を鼓舞するようなデウカリオのような猛将では無いが、勝ち戦でも負け戦でも堅実で手堅くまとめる手腕を持っている。横槍を入れられたくらいで崩れ去るやわな男ではない。

「それにしても遅い。バルカ殿は何をやっておられるのか」

迂回うかいしたにしても、そろそろ姿を現していいころだが」

 幕僚たちは目の前で刻一刻と変化する戦場に焦りを浮かべ、そわそわと落ち着き無く韮山の方角を眺めていた。

 だがカトレウスは幕僚たちほど焦ってはいなかった。まだ戦機は熟していない。大きく動き出した戦局ではあるが、これは双方が決め手を求めてあがいている姿である。決定的な瞬間を生み出そうとしているのだ。つまり決め手を繰り出すにはまだ早い。

 それに自身がバアルに与えた役目を果たすならば、もう少し後、敵が陣形を崩してからだろうな、とカトレウスは感じていた。

「焦るな。まだ戦は中盤だ」

 最近は昔と違い、カヒも大勢力になった。混戦の中、勝ちを拾うといった泥臭い戦はそう無くなった。少しばかり楽な戦ばかり経験していた年若い幕僚たちに厳しい戦を体験させるにはよい機会かも知れぬ、などと思う余裕すらあった。

 それにしても・・・若いのに実に隙の無い観察眼を持つ、とカトレウスは先程のバアルとの会話を思い出す。


 軽く下げた頭を上げたバアルのその眼は自信に満ちていた。自身の弁舌によって名高いカヒのカトレウスの興味を捕らえることができた、自分を高く売り込むことができたとでもいった自信に満ち溢れていた。

「ならばその七経無双の目に、この戦どうやって我が方が勝つと映ったのかお聞きしようではないか」

「敵は後備に喰らいつかれ、このままでは全軍崩壊の危機と見て、しかたなく布陣したと見ました。積極的に攻撃する意思は無いと思われます」

「ほう、どうしてだ?」

「もし少しでも攻撃の意識があるのなら、もう少し三日月湖に近づいて布陣するでしょう。三日月湖の間からカヒの兵が抜け出てくるところを叩き、三日月湖に押し返せば、背後に水地を抱えてカヒは極めて不利な戦を強いられることになります。それがわからぬほど敵は馬鹿ではありますまい。だがそう布陣してしまうと、我らとの距離が近くなり撤退に不利。今の位置なら、我らは三日月湖の向こうに陣を敷こうとすれば近すぎて、さらに背後に水場を抱えてしまう。とても布陣などできはしない。我らは今の位置に布陣するしかないわけです。すると敵は我らの陣との距離が離れ、撤退がしやすい。それを狙っているのでしょう。ですから敵の意図は既に退却すると決まっていると言うわけです」

「ふむ、矛盾は無い。だが敵が攻撃してこないとなると我が方から攻撃せねばならない。数においては我が軍は少なく、しかも三日月湖のせいで攻め口は限られ、得意の騎馬攻撃もどれほど効果があるかわからぬ。勝つのはなかなかに難しい」

「ですから、カトレウス殿も勝機を探して周囲を見回したのではないですか?」

「それをワシが発見したとでも?」

「はい。北を見て目に入るのはあの小さな山とその向こうの森です」

「む」

「だがあの森、いや遠めには森に見えるあれは松林と見ました。松が育つ環境は限られております。地味が貧しく、周辺に高い木が無いことが条件です。おそらく伐採林の跡地か、耕地にしようと森を切り開いた後、放置され荒地になった名残でしょう。つまりあそこは密集した高い木がなく、あったとしても草地。つまり馬で踏破できるということです。しかも部隊があの地に大きく回りこむ間の姿をあの北側の山が隠してくれる。敵に気付かれずに側まで近づける。側面奇襲が可能だということです」

 己の思考と寸分違わぬ戦闘経過を鮮やかに描いて見せた目の前の若人に、カトレウスは大きく驚いた。

 カトレウスのその戦術眼は長年の戦いによってつちかわれた後天的なものである。

 それに対してこの男はこの若さですでにそれを手に入れている。先天的なもの、天賦の才なのであろう。

「だが側面奇襲に成功しても、まだそれだけでは決定的な勝利を得られるとは限らぬぞ?」

「そうですね。だが王師は右側面の防御のために河川を右手において布陣しました。それ自体は味方の最弱点である右側面を防ぐという、手堅く教本通りのやり方であります。だがそれは横にあるのが水壕すいごう程度の小川の場合の話です。あの川は三日月湖を作るだけの水量を満々と湛えている。川面かわもを見ても流れは緩やか。つまり深さがあるのです。我々が側面攻撃を契機に王師をあの川に押し付けることに成功すれば、逃げ場を無くした兵は混乱し壊乱するでしょう。我々は労せずして勝利を手に入れられます」

 自分が考えに考えて導き出した結論を、いとも容易く目の前の青二才に発見されたことにカトレウスは一瞬気分を害した顔をする。だが直ぐに笑顔を作り直して心中を隠した。

「はははははは。さすがは七経無双と、この河東まで響いてくるだけのことはある。おまえたちも少しは見習ってみたらどうだ?」

 そばに近侍する若い幕僚たちに爪の垢でも貰うがよい、とカトレウスはバアルの才覚を手放しで褒めた。ここで小さな嫉妬を見せても何もいいことは無い。

「となると別働隊をさっそくにでも送らねばなりませぬな。山を回りこむだけ時間がかかりますのですから」

 バアルの才覚は恐るべきものである。いずれカヒと関西が争う事態になった時は大きな敵として立ちはだかることだろう。実に警戒が必要な存在だ。だが今は有益な味方でもあるのだ。敵対するまでの間、この才能を使わない手はない。

「それが問題でな。別働隊の指揮官は戦機が熟すのを見極めて、突撃するべき時に突撃の指示を出せる男でなくてはならん。ニクティモは側にいてもらわねば困るし、ダウニオスは先鋒をまかせねばならぬ。デウカリオがいたら任せるところなのだが・・・今はオーギューガに対する備え、ここには来ておらぬ」

 自慢のあごひげをしごき上げ、その任務にふさわしい将軍に心当たりがまったくないかのようにカトレウスは長嘆息した。と、いかにも今思いついたとばかりにバアルを眼を見開いて見つめる。

「そうだ・・・! そなた、三翼三千の兵を与える。どうだやってみる気はあるか?」

「私に!?」

 バアルは驚いた。カトレウスは極めて用心深い男なのである。家臣にもおいそれと兵を分け与えないとか。元関西の臣、さらには来たばかりのよく知らぬ男に大権を与えるなど、さすがのバアルも想定の範囲外だった。

「嫌か?」

「いえ、戦うことこそ武人の本分。もし兵を預けていただけるなら期待を裏切らぬよう全力を尽くします!」

 バアルは渡りに船とばかりに喜んで見せた。

 それは見せかけの喜びではない。

 そう、ここで活躍してカヒ家の中で確固たる地位を築き上げることは、当面の居場所を作ると言う意味でも、カヒに貸しをつくるという意味でも悪くないことに思えた。

 そして王師を破って少しでも兵を減らすことは彼の目的にも合致する。拒否する理由は無い。

 バアルの返答にカトレウスは満足げに頷く。

「これでワシも肩の荷が下りた心持だ。バルカ殿にはご苦労なことだが別働隊を率いてもらうことにしようか」

 頼んだぞ、とカトレウスはバアルの肩を叩いて大きく哄笑した。


 バアルは三翼の将軍たちと共にニクティモから韮山付近の詳しい地形を聞くと、さっそく兵を率いて進発することにした。

 ニクティモの話によると韮山の向こうは木立の茂った林がちの土地だと言う。だが小さな村があり、村人が使う小径があるので回りこむだけならさほど問題ではないのではとのことだった。

 将軍たちと細かい手順を打ち合わせながら、小走りで本陣を後にする。

 その姿を横目で追っていたニクティモが、彼らの気配が消えると、つつとカトレウスの横に近づいた。

「お館様」

「なんだ?」

「なぜ余所者に部隊の指揮権をお与えに?」

「あとあとのことを考えてだ」

「と申しますと?」

「我が陣営に関西王家の血を引き、関西の復興と言う大義を掲げる将軍が共に戦っているということを大々的に知らしめたいのだ。さすれば関西の諸侯で我々に通じる者もさらに現れるだろう。それにこの戦いを、王に逆らう諸侯と王の単なる権力争いから、関西再興を望む勢力と関東の王という大義ある戦に変えることができる」

「しかし三翼三千の指揮権まで与えずとも・・・裏切ったら面倒なことになります」

「裏切る心配があるか? あの者の策謀で王は股肱の臣を失ったというぞ? それに万が一バルカが裏切ろうとしても、与えた兵はバルカの命を聞くまい」

 王がバアルを許すことは普通に考えれば、決してありえない話だ。だとするとバアルは当面カヒと協力関係でいるしかない。

 それに与えた兵はバアルと何の接点も持たない。例えバアルがカヒと敵対するような命令を下したら、翼長たちがそれを阻む盾となるだろう。

「なるほど納得しました」

 そう言って頭を下げ退出しようとしたニクティモを今度はカトレウスが呼び止めた。

「ニクティモ」

「は」

「敵に目聡いやつがいないとも限らぬ。バルカが兵を動かすことを敵に気付かれぬよう、兵を率いていかにも何かありそうな動きをし、敵の目をバルカ隊から逸らさせよ」

 戦い前に兵を動かすのは愚の骨頂、だからこそ敵もその動きが擬態であるとは見抜けないはず。どういう意図があるのか掴めず、敵は幻惑されるであろう。その間に兵の一部が陣営から消えても気付かないに違いない。

「御意」

 ニクティモは得心したとばかりに大仰に頭を下げた。


 そこまで念を入れてバアルの行動を隠したのだ。バアルが言葉通りに側面奇襲に成功すれば、敵側に与える心理的、物質的なダメージは大きなものになる。それが戦局を変える致命の一手となりうることだろう。

 同時に軍を率いる将軍としてのバアルの実力を明示することになるだろう。

 もしかしたら兵書読みの兵法知らずかもしれない。だがバアルにつけた三翼長は歴戦の強者だ。大きな失敗を犯すことはあるまい。

 もちろんできればそれなりの手腕を見せてくれると有難いのだが。

 それに見事な戦術を見せる男であればあるほどカトレウスにとって好ましかった。敵になった時に叩き潰しがいがあるというものだ。

 カトレウスはそういったおとこの世界で生きる男だった。

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