第161話 韮山崩れ(Ⅲ)
皆の視線を一身に浴びても、その男は
「・・・これはバルカ殿ではないか。何かワシにめでたいことがあったとでもいうのかな?」
バアルはもう一度、
「はい。
「はてさて何があったというのか、見当も付かぬな」
とんと見当もつかぬといった、とぼけた顔をカトレウスは作った。
「カトレウス殿はこのバアルを試しておいででしょうか?」
「試すも試さないもない、まずは話が見えないことには何とも言えぬ」
双方、人を食ったような会話。だが彼らが尊敬するお館様への、バアルの要領を得ない言葉に、カヒの諸将はバアルを愚者でも見るような目つきで見つめていた。
「此の度の戦に勝利することにお祝いを申し上げました」
「なんと、戦う前に我が方が勝利するとおっしゃるか。これはめでたい」
カトレウスは明らかに作った笑い声をたてた。そうすることでバアルの顔を立ててやったといわんばかりの笑いだった。
「だが戦は水物。どんなに有利に見えても、終わるまではわからぬものだ」
その通りと同意せんばかりに、ふん、とダウニオスは鼻で笑う。
「それにこの韮山の地は起伏が多くて、とても我らカヒに有利とは見えぬ」
だがカトレウスの皮肉にも、ダウニオスの指摘にも悠然と笑みを浮かべて返すだけだった。
「そう、一見するとここは防御する有利さに比べると、攻撃するには不利。そこに布陣する敵方の意図は透けて見えます。だからこそ、この戦はカヒ有利と見受けました」
「ほう」
カトレウスは片眉を上げてバアルに再び目線をくれる。
「先程カトレウス殿は周囲をざっと見回しておられましたが、中でも北を向いて眺められる時間が多いと感じました」
「む」
そこに気付いていたか、とカトレウスは内心唸る。カトレウスとしては全ての風景を同じように見ていたつもりであったのだ。
いや、おそらくその時間はほとんど差が無かったに違いない。だがこの男はそれに気付いた。この男だけが。
並大抵の観察力ではない。そしてカトレウスが見抜いたその勝利の糸口を、この男も気付いたと言うことでもある。
「北側の段丘を、いえ、その向こうの松林を眺めていたのではないですか?」
「なるほど・・・七経無双の名は伊達ではないな」
カトレウスはゆっくりとバアルの元へ歩み寄ると肩に手を置いた。
「ならば、その七経無双を戦陣でも見せていただこうか」
カヒは一口坂から溢れ出る水のように平野部に広がると、王師に対して陣を敷いた。
だが三日月湖もあって王師のように横一列の戦列を組むといったわけにはいかないようだ。
王師と三日月湖を挟んで大きく三、四つの
王師は槍先を揃え、その動きをじっと見守った。
「カヒの兵は三万から三万五千といったところでしょうか」
ヒュベルが旗の数からざっと目算する。
「ならば王師は五万だ。数では上回ってる」
とはいえ思ったよりは多い。
でも大丈夫なはず。諸侯の軍に比べると王師の強さは際立っている。それは王都攻略戦で敵として戦い、長征で味方として戦った有斗には実感がある。さらに数で上回っているのだ。負ける要素は少ないと見た。
「バルブラ隊もアクトール隊も損耗率が激しい。それが気がかりだけど・・・」
「まぁ、おそらく・・・大丈夫でしょうね」
ヘシオネは考えることも無く、そう断言した。
「その根拠は?」
有斗の問いに対するヘシオネの説明は要領を得たものだった。
バルブラ隊の布陣は中央から少し北、つまり左翼と中央の境だ。正面には小さな三日月湖。主戦場にはなりえないだろう。アクトール隊の位置するのは左翼のさらに外、ベルビオ隊と共にいざと言う時に左翼から回り込むための遊撃戦力だ。こちらから攻撃を仕掛けない限りは戦う可能性は無い。
敵の主力は騎馬だ。おそらく平坦で街道のある川沿いをまっすぐ西へ突撃できる左翼が主戦力になるはずだ。
王師にとっての右翼。そこにはエテオクロス、エレクトライ、ヒュベルの三軍を密に配置して備えている。
だから大丈夫だというわけだ。
「布陣で時間を消費しました。夕刻まで一刻、日が完全に落ちるのにさらに一刻というところでしょう」
ヘシオネが天を見上げてそう言った。
夜になれば戦闘はない。真っ暗で、誰が敵で誰が味方かわからないからだ。いや、正確にはどこに何があるのかわからないと言うべきか。
電気の光が無いこの世界の夜は本当に暗い。
一回深夜に、気晴らしに王宮の庭園に出たことがあるんだけど、茂みに突っ込んだり、木に激突したり、池に片足を踏み入れたり、本当に前に何があるかすらわからなかった。最後は大声を出して侍女を呼んで助けてもらったという情けない過去がある。月明かりなどまったく役に立たないのだ。
日本で深夜にコンビニとか行くときの暗さはあれは暗さではない。あれは明るいのだ。何しろどこに何があるのかわかるのだから。
「不思議な動きをする」
一旦陣を布陣したかに見えたカヒだったが、有斗の見守る前で、右に行ったり左に行ったりと摩訶不思議な移動を繰り返した。
「兵は其徐如林(其の
ヘシオネもアエネアスも首を
しばし戦機が熟さないのか、動かずに対陣する両陣営。と、カヒの陣で
どよめくようなざわめきが王師の間に広がる。名高いカヒの騎馬軍団に直接戦う初めての機会だ。高揚、不安、自信、恐怖、いろいろと交じり合った感情が渦巻いているのだろう。
と、カヒの陣で前進の太鼓が叩かれ、甲高い
街道を這うように、三日月湖の間を抜けるように、三日月湖の外を巡るように
「構え!」
王師は百人隊長の声と共に槍を次々と正面に倒し、二段、三段の槍衾を形成し、迎撃の構えを見せる。そして弓兵はしっかりと矢を
「放てぇ!!」
号令一下、空に数千の矢が放たれ重力に従い落下する。
矢が一面に降り注いだ。
ある馬は前から崩れ兵士を前へと放り投げ、別の馬は立ち上がって主を振り落とす。かすっただけの運の強い男もいるが、運悪く急所を射抜かれ絶命する男もいた。
地面に落ちた兵は、生きているいないに関わらず障害物となり、放馬した馬は予期せぬ動きをみせ、騎馬の足を止める。
だが騎馬隊は層を幾分薄くしたものの、勢いは衰えることなく王師の戦列に接触した。
槍に弾き飛ばされる兵、槍に体を切り裂かれ断末魔のいななきをする馬、馬の体で圧死する兵。
攻撃に押され、横一列の戦列はやがて耐え切れず凹形に歪む。戦列は各所で小さく切り裂かれた。
だが突破されることはなかった。一旦足を止めさえすれば騎馬の優位は小さなものとなり、一対一とは言えないが、二対一くらいの割合で騎馬とも互角に戦える。
王師はこの戦で厚いところでは、すなわち敵の攻撃が集中しそうなところには、十段にも渡る戦列を重ねていた。名高いカヒの騎馬軍団とはいえ、さすがに突破はできなかった。
そして混戦が始まった。
「気味の悪い繰り引きをする」
カヒは勢いを無くしたと思うとあっさり馬首を翻してさっと後退する。だが一息つけるかと思ったところに、後方に控えていた騎馬が勢いをつけて突撃してくるのだ。王師は心の休まる暇がまったく無かった。
開戦から半刻、押されているのは王師だった。
だがそれは守勢に入った方の宿命。だが攻撃するには守備するよりも多くの気力と体力を使うのだ。やがて伸びきるだけ縦に伸びきった戦列を敵は保てなくなるに違いない。
受けきれる、有斗も王師の将軍たちもそう思っていた。
と、ここでベルビオが突然動いた。
ベルビオは左翼からの回り込みを図る部隊と位置づけられていた。とはいえ攻撃の意思を有斗が持っていない以上、敵に右からの回りこみを警戒させるための予備兵力のような扱いだった。主戦場から遠い。カヒも右翼にはさほど兵を回していなかったと見えて、ステロベ隊だけで十分対処しきれそうであった。
つまりベルビオには出番が無い。猛将で鳴らした彼にはそれが大いに不満だった。
その彼の目に王師は全戦線で押されているが、どうやら持ちこたえそうであると見えた。敵の攻撃はそろそろピークを迎えるだろう。最初から最後までずっと押し続けることはできない。やがて体力も気力も尽きた兵は押せば倒れるような脆さに達する。
ならば韮山のふもとを進み、敵右翼の弱点である右方に回り込み、左翼主将のステロベと息を合わせて攻撃すれば敵は右翼から崩壊し始めるであろう。
ベルビオはここが勝負どこだと踏んだ。きっとこれが戦局を左右する転機となるであろう。
この戦における俺の役目はそれだ。
「よし行くぞ。俺について来い」
ベルビオがさっと右手を前へ倒し、旗下の第七軍に前進を命じる。
ベルビオが指揮した兵は勇躍、戦場を
新手の参戦に、浮き足立つかと思ったが、カヒの右翼は慌てることなく、すぐに隊列を組んで第七軍と正面から激突する。
王師に比べると数が少ないのだ。予備兵力も無いだろうに、存外手ごわい。
「さすがはカヒの兵は強兵よ」
とはいえ一時間に渡る死闘の後の新手の参戦である。やはり段々とベルビオは敵を圧し、左翼では王師の旗色が俄然良くなる。敵はこのままでは破綻は必定。普通ならば兵を足して戦列を整え押し戻そうとするはずだが、だがどこからも援軍が来る様子は見られない。
「予備兵力を使い切ったか」
ベルビオは戟を振るって血を落とすと、にんまりと笑ってもう一度突撃する。勝利まであと少し、ベルビオにはそう思えた。
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