第160話 韮山崩れ(Ⅱ)

 やがて途切れ途切れではあるが、バルブラ隊が退いてくる。その多くは負傷した兵だった。

 傷の軽い者が重症の者を抱える姿も見受けられる。歩けぬほどの重症の者は馬の背にくくりつけられたり、戸板に乗せられて運ばれてきた。どうやら負傷した兵を先に逃がしたものと思われた。

 バルブラ隊の母体は鼓関守備隊である。バアル将軍指揮下では野戦や鹿沢城攻めなどを少しは行ったたしいが、基本は防衛戦ばかりで逆境どころか互角の戦の経験すらない。ひとたび不利になれば脆くも崩れ去るのではといった不安がアクトールの中にあったが、どうやらそれは杞憂だったようだ。組織だって撤退しているということは、十分持ちこたえているということでもある。

 やがて兵は数を増し、本隊が続々と退却してきた。ここの兵も馬も矢傷、刀傷で満身創痍である。

 三千を数えたころだろうか、バルブラ当人を含めた本当の後備が姿を現す。

 バルブラ隊は敵の六度の突撃によって既に五百を超える兵を失っていた。もはや矢は尽き、刀のあちこちに刃こぼれがある。この一キロあまり、バルブラ隊が自らの意思で退いたのか、それとも敵の突撃で押されて後退したのか、それすらもわからない死闘だった。

 だが兵たちはアクトールの陣を目にして最後の気力を振り絞る。

 七度目の突撃で二十メートル押されながらも、歯を食いしばって耐えに耐え、敵の圧迫力が消えたその瞬間に呼吸をあわせ、きびすを返してアクトールの陣へと駆け込んだ。

「後はまかせていただきたい」

 アクトールの言葉にバルブラは小さく頭を下げた。

「ひとたび体制を整えたなら、今度はこちらが援護に回りましょうぞ」

 驚いたことにバルブラの闘志は未だ衰えておらぬようだった。その言葉は嘘ではなく、バルブラは戦えなくなった者を除くとアクトール隊の後方に陣を敷き始める。

 バルブラ隊が去り、残されたのが自軍だけになってもアクトールは狼狽したりはしなかった。

 むしろそれが当然とでもいうふうに平然とした顔つきで立っていた。その姿はカヒの大軍を目にした兵士に幾ばくかの平静を取り戻させた。

 強大な敵からの困難な退却戦だ。兵士たちの心には不安がよぎる。七段に分けたと言っても兵の戦列を縦に七つ並べただけ、柵も逆茂木も作る暇はなかった。石突を土中に埋めて槍を立て槍衾を作ることで敵の突撃を防ごうと言うのだ。しかも当てにしていたバルブラ隊の支援をあてにできそうも無い。

 それでも自分たちの大将が落ち着いている、それだけで兵士たちに与える心理的影響力は計り知れない。

 敵はアクトールが陣を構えて待ち受けているのを見ると一瞬たたらを踏むように立ち止まったが、その陣が仮設された貧弱なものと見破るや否や、雄たけびを上げて襲い掛かった。上り坂にもかかわらず、馬腹を蹴って勢いよく駆け上がり、槍を合わせて突破を図る。

 その猛攻に一つ目の段は難なく崩され、次々と後続の段も突破され、辛うじて押しとどめることに成功したのはなんと五つ目の段であった。

 アクトール隊は随所で寸断された。小さな塊となって抵抗を続け退却を試みるも、周囲を敵兵に囲まれてはそれもままならない。

 一旦、後ろを見せれば自分たちは全滅してしまう、と残された将兵たちはひたいに汗をにじませた。といってもこのままでもいずれ全滅することは確実な情勢であったのだが。

 と、そこで後方で叫び声が上がると、どかどかと大地を揺るがすような足音があがった。アクトール自ら槍を取り、槍衾を作って坂を駆け下りてきたのだ。一旦止まった馬が走るには空間がいる。その空間を与えなければ騎馬とて単なるでかいだけの的だ。次々と槍を突き立てた。

 今度は狩られるのはカヒの兵の側だった。アクトールは一旦は坂下まで戦線を押し戻し、兵をまとめて撤収を試みる。だが敵は容易くそれを許すような生易しい相手ではなかった。

「今だ! 敵が退くぞ! 突き崩せ!」

 ダウニオスのしわがれた声に応えるように、どっと騎馬兵がアクトールを追いかけ坂を上る。

 ここを破り、王の本陣に槍を突き立てねば、わざわざ親方様まで出てきた意味が無いのだ。消耗戦とて望むところだった。

 危険を察知して撤退を援護しようと坂を駆け下りてきた兵と合流し、アクトールは再び後ろを向いて敵に正対する。

 二つの塊がぶつかると今度はどちらの足も止まる。混戦になった。馬に槍を突き刺した兵は馬上の兵に突き殺され、その馬上の兵は後ろから飛び掛られた兵に首を取られる。もはやどちらの兵も、自分たちがどちらの方角へ向けて移動しているのかすらわからない混乱ぶりだった。

 一口坂の激戦は四半刻に渡って繰り広げられることになる。


 当初、王師側は一口坂を抜けて平野部に出る開口部に迎撃の陣を引くことを考えた。

 狭い山道を抜けて出てくる敵を先頭から各個撃破していくという手堅い作戦だ。

 だがそこは長く伸びた隊列の後方に位置しすぎた。全軍を戻すには時間がかかる。布陣する前にカヒがバルブラ、アクトール両隊を打ち破り平野に流れ込むのでは、という危険性をエテオクロスが指摘した。両隊からその後の報告が来ないことも、有斗がその策を取ることを躊躇ためらわせた。

 兵を戻すのが間に合わなければ各個撃破されるのは王師ということになる。そんなことになったら目も当てられない。

 どうすべきか悩んでいると、平野部を抜けて小さな丘を越えたところに布陣に適した地形があるとのエテオクロスの言葉に、現地へと向かって軍を前進させた。

 そこは右側に河川を有する形に布陣することが可能だった。つまり右からの騎馬での回り込みを防ぐことができる。さらに平野とは言うが、そこまでくると山に近く、荒地で起伏があり、北側には韮山と呼ばれる古墳とおぼしき小段丘があり、さらにはいたるところに河川の名残であろう三日月湖がある。カヒの騎馬突撃を防ぐには絶好の地であると思われた。

「これはいい」

 一目見て将軍たちはその地形に目を奪われる。反対する者は一人としていなかった。

「三日月湖の過半を敵陣内に組み込むような形で距離を取りたい。さすれば敵は連絡や連携にも支障をきたす」

 ステロベは二、三個の三日月湖を指差しそこを南北に兵を並べるように指し示した。諸将はそこに存在し得ない敵兵を目に浮かべて想像する。

「とすると敵の本営はあの小高い丘、下って各将を魚燐で並べるのが常道ですかな」

 エレクトライの指の先には、なるほど本営を置くのに適した小高い丘があった。上り下りに不自由するほど高くなく、見晴らしを確保するのに不自由なほど低くはない。

「敵の数を把握できなていないのが不気味だ」

 あとの問題はそれだった。ここは敵のホームなのである。増援はいくらでも期待できた。

「とはいえ王師と正面きって戦おうと言うのだ。少なく見積もっても三万を下るということはまずあるまい」

 だが皆は案外楽観的だった。

「街道を通ってくる敵が主力となりましょうが、川と三日月湖に挟まれた地形を抜けてくる形となります。道なりは平坦でも、これでは同時に大量の兵を送り出すことができない。守備側に優位。もちろんそれは我々の側にも同じことが言えるということですが」

「この地形ならば迂闊うかつに戦を仕掛けてなど来ないでしょう。しかも夜にでも隙を突いて撤兵すれば、例え気付いた敵が追ってきても追撃するのは困難を極める」

 そう、そうやってもう一度距離を取り態勢を立て直せば被害をそれほど出さずに逃げ切ることも夢ではない。

「そうだね、悪くない。エテオクロス、でもいつでも逃げようと思えば逃げれるように、先導する兵に退路を確認させておいてよ」

 多少戦いに消極的過ぎるかとも思ったが、有斗は念には念を入れる。

「はい。物見をつけて送り出します。同時に道々に印をつけておきましょう」

 そして有斗はすばやく陣割を行う。

 街道の正面である右翼にはエテオクロス、その左右にエレクトライとヒュベル、中央はプロイティデス、三日月湖を抜けてくる敵に備えて左翼中央にステロベ、その外にベルビオを置いて備える。退いてくるアクトール隊とバルブラ隊は正面に三日月湖を見るような形でステロベの両横、左翼に予備兵力として配置する。

 万が一戦いが始まった場合は、味方右翼に集中するであろう攻撃を精鋭三軍で防ぎとめている間に、左翼に配したベルビオ隊とステロベ隊で敵の最弱点である右翼の右側へと回り込みを図り敵を殲滅する。

 アリアボネに教えてもらった王道の戦術だ。

 大丈夫。万が一戦いになってもこれで勝てるはず。だってアリアボネの教えてくれたことなのだから。アリアボネのおかげでずっと勝ち続けてきたんだ。いなくなったこれからだって、きっと。

 自部隊を布陣させようと将軍たちは散っていったために閑散とした地に、アエネアスは羽林たちに命じて本陣の陣幕を張らしている。

 そのアエネアスに有斗はそっと近づくと話しかけた。

「アエネアス・・・」

「ん?」

「大丈夫だよね? これで間違いないよね?」

 アエネアスは不思議なものを見る目で有斗を見ると息を吐き出し、ぽん、と有斗の頭を軽く叩いた。

「陛下、陛下が不安な顔を見せちゃだめです。兵士が動揺しちゃう」

「ご・・・ごめん」

「だから王は謝っちゃだめです。兄様がいつも言ってたじゃない!」

「う・・・うん」

 どこか自信なさげに気落ちしてうつむく有斗の肩にアエネアスは軽く肩をぶつける。

「大丈夫。陛下は上手くやっています。兄様と同じくらいに」

 アエネアスは有斗に笑って見せた。


 アクトールはとうとう七段に構えていた全ての戦列を使い切った。六百人の死傷者を出し、アクトール隊が流した血で一口坂は血で染まる。

 だがともかくも隊をまとめて退くことには成功した。はやる敵が追撃しようとするたびに幾度と無く馬首を返して追い散らし、見事な進退で殿軍を勤めた。

 だがそれはアクトールの働きぶりだけがもたらしたものではなかった。なおも追撃したいそぶりを見せた配下の者に、ダウニオスは目的を履き違えるなとたしなめ、追撃を禁止した。

「我らの目的は敵を追撃し、王の足を捕まえることだ。ここで時間を使ってあの武将を討ち取ったところで何の功もない」

 それよりはわざと行動の自由を敵に与えればよい。もうあの部隊に戦う余力はあるまい。自由にすれば慌てて逃げ出すであろう。それに付かず離れずついていき、この狭所をいちはやく抜け出すべきだ。

「それに・・・惜しいではないか」

「は?」

「いや、あれほどの男だ。こんな局地戦で死なすには惜しい。あれほどの勇者にはもっと華やかな舞台が死ぬために用意されるべきだろう。例えば王とお館様とが正面切って戦うような場とかな」

 敵を助けようとするかの言葉に不可思議そうな顔を向けた部下に、ダウニオスはおまえにはまだわからぬか、と笑った。

「それにしても・・・王師にもたいした男がいる。あれが噂の万夫不当の男か? たしかヒュベルとか云う関東王師で知られた猛将の」

「いえ、確かアクトールとかいう河北の諸侯あがりの将軍だとか」

「・・・そうか。さすがは王師だ。名も知らぬ将軍と言えどあれだけの働きをする」

 手放しで褒めるダウニオスだが、その言葉には余裕といったものが見えた。上からの目線といったものが。そう、カヒの四天王、いや二十四翼はそれ以上だといった余裕のようなものが。


 カヒの兵はついに一口坂を抜け出した。カトレウスのもとには次々と報告が舞い込む。

「王師は逃走を諦め反転し、我らと交戦する構え」

「王師は出入り口を塞がず、平野部で布陣した模様」

 ダウニオスからもたらされた朗報にカトレウスは髭だらけの顔に大きく笑みを浮かべた。

「王はお館様と戦う気のようですな。我々と野戦で戦うなど実に愚かなことです。兵など置き去りにして尻尾を巻いて逃げればよいものを」

 ガイネウスの言葉にカトレウスを始め諸将は一斉に哄笑した。

「戦うというのなら受けてたとう。このアメイジアに越の女怪の他に、このカトレウスに正面切って戦おうなどと考える愚者がまだいるとは思わなんだわ。よかろう。ここを王の墓場にしてやろうではないか」

「御意!」

「それにしても王は出口の封鎖に間に合わなかったか? 何はともあれ、それは非常に大慶」

 久々に聞く朗報と言って良いだろう。これでやっと王と真正面から戦える。

 ともかくも平野での合戦であるのならカトレウスは多少不利な情勢であっても負ける気はしなかった。相手がテイレシアのような化け物でない限りは。

「ニクティモ!」

「ここに!」

 カトレウスの声に応え、ニクティモは素早く側に駆け寄る。

「一口坂の向こうはどうなっておる?」

 カトレウスの質問は極めて簡潔である。

「志文川が曲がりくねり長年かけて形作られた平野ですな。とはいえいたるところに川の名残である三日月湖が残り、少々複雑な地形となっております」

「騎馬突撃は可能だと思うか?」

「丘あり、谷あり、池ありとそれはなかなかに難しいかと」

 ニクティモはそう言ってカトレウスに頭を下げる。

「そうか」

 得意の騎馬が使えないのは辛いな、とカトレウスは渋面を作る。だが徒歩戦でもしかたがない。とにかく戦わねば王を捕らえる機会は訪れないのだから。

 とりあえず後は現地を見てからの判断ということになろう。

 カトレウスは物事をいいほうに考えようと気持ちを切り替える。

 それにきっと天は彼に味方していると感じていた。退却する王師に追いついただけでなく、どうやら敵は一戦を覚悟して対峙してくれるのだから。

 さらには敵が積極戦法を取らなかったこともついている。

 別に入り口で待ち構えられなくても、敵の布陣が完了する前に襲撃する手法がある。いや、むしろそちらのほうが王道の戦い方だ。実際、王師が布陣が完了していない部隊に次々と襲いかかっていたら、勝敗はわからなかったろう。少なくとも初手を取られたカヒは苦戦を強いられたであろう。だがその絶好の好機を王はみすみす見逃した。

 勝敗を左右するような瞬間は戦の中でほんの一瞬だけ訪れ、そして去っていく。

 勝利の女神が来た時に迷わず彼女の身体を抱きとめた者だけが勝利者になる、戦いとはそういうものだ。そして勝利の女神は自分に見向きもしなかった男に大層冷たい。一度の戦いで彼女が同じ陣営に二度来る事はめったにないのだ。

 ならば勝てるかもしれない。最初の機会をみすみす逃した王は、きっとこの戦に勝利することは無いのではなかろうか。

 そういう期待感が一口坂を登っていくにつれてカトレウスの中で大きくなっていった。そして本陣を置くのにちょうど良さそうな目の前の小高い丘を登って周辺を一望し、敵陣営の布陣を眼下に見た瞬間、それは確信へと昇華した。

『勝ったな』

 カトレウスの顔に笑みが浮かぶ。

 その時、共にこの小山を登り、後ろに控えていた幕僚たちの中から一人の男が前へ進み出た。

 背後の砂利を踏みしめる音。不審げに後ろを振り返ったカトレウスに、端正な顔立ちの若いその武人は優雅に一礼し祝賀を述べる。

「おめでとうございます」

 その言葉に一斉に皆の視線がその男に集中した。

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