第159話 韮山崩れ(Ⅰ)
バルブラから斥候が未帰還、それも今まで追跡してきたツァヴタット伯領、つまり西南へ向かうカヒの部隊を交代しながら追跡していた兵ではなく、東北方向を探っていた兵が未帰還であるとの知らせが有斗にもたらされた。
「この知らせをどう思う?」
馬車で揺られながら有斗は、横にいるアエネアスに意見を求める。
「東北って言っても距離と相手の目的がわからないことには何とも言えないです。王師が東へ向かったと勘違いしてくれて陣を敷いてくれているのかもしれないし、私たちが退いたことを知って兵を返したということかもしれないし」
それだけじゃ判断しようが無い、とアエネアスは肩をすくめた。
有斗は今度は馬車の横で馬を並べるヘシオネに目線をやる。
「そうですね・・・この場合問題となるのはアエネアス殿の言う通り、敵との距離と進行方向だと思われます。バルブラ殿がわざわざこの事態を急いで陛下に知らせたのは、容易ならざる事態であると考えたからでしょう。ですがまだ確証が得られたわけではありません。急ぎこの事態を全隊に知らせ、バルブラ隊以外も偵騎を出させて、正確な情報を収集すべきです。またいざという時の為に、先陣のエテオクロス殿に布陣に適した地を探させておくよう命じられてはいかがかと存じます」
帰ってきた返事は有斗を満足させるものではなかった。アエネアスと同じように有斗に決断を促すような有益な意見とまでは言い難かった。
こんな時にアエティウスもアリアボネも、もうどこにも居ないんだということを実感する。
兵を率いる一武将としてはヒュベル、バルブラ、アクトール、ステロベ、ベルビオ、プロイティデス、エレクトライと申し分の無い人物だが、戦略的な視野に欠ける。
それを持ち合わせていると有斗が把握しているのは、辛うじてヘシオネ、エテオクロスとリュケネあたりといったところだ。だがヘシオネの答えは先ほどのものだったし、リュケネは今も関西の地で反乱を掃討中でここにはいない。先頭のエテオクロスを呼び戻し相談すべきだろうか、と一瞬頭に浮かんだ。
だがそうするとその間、行軍は止まる。
もし、カヒが王師を追撃しようとしているのなら、それは敵に格好の機会を与えるだけだ。そんな危険は
とりあえずここはヘシオネの言うとおりに、情報収集で正確な情報を集めることにまずは集中しよう。
どうも僕には同じだけの情報を与えられても、アエティウスやアリアボネのように正しい判断を直ぐに思いつくだけの能力は無いらしい、有斗は悔しかった。
無知なのは仕方が無い。人間そんなに急に博学になったり、天才になったりできないものだ。
だが決断するしないはそういったものとは別なはずだ。
だから、それは王として慎重に物事を判断しているというよりは、決断することからただ逃げているのではないかといった嫌な考えが脳裏に浮かび、少しだけ有斗は自分に嫌気がさした。
バルブラが虎の子の騎兵を割いて再び偵騎、それも複数の、を出してから一刻が経った。そしてついにバルブラは敵の意図を正確に把握することに成功した。
といっても、それは偵騎がもたらした情報からではなく、
「来たな。直ぐに陛下のもとにお知らせせよ。第五軍は敵と接触、紋は大菱に四つ菱と丸の内に二つ引、
伝令を急ぎ発すると、バルブラは諸隊に迎撃の命を下した。
「手筈通りに行動せよ」
半ばこうなることを予想していたバルブラは、予め諸隊に命じていつでも迎撃の陣を敷けるように指示を下していた。
おかげでバルブラ隊はカヒの強襲にも乱れることなく対応する。
それはカヒ側にとって大いに予想外の出来事だったに違いない。数と勢いを頼んで無頓着に攻め寄せてきたカヒの兵は一時、バルブラ隊に跳ね返される。
「む!? 敵は弱いぞ!! 今だ、我に続いて敵を討取れい!!」
味方が敵を押していると見たエザウが自慢の長鉄錘を抱えて陣頭に立つと、逃げるカヒの兵を追いかけた。エザウの配下がそれに続いた。
だがカヒの兵が浮足立ったのは僅かな時間だけだった。
カヒはカトレウスを始めとして歴戦の勇将ばかりである。次々と後詰を出し陣形の綻びを
足が止まればエザウ隊は突出した孤軍に過ぎない。
エザウ隊はカヒの強兵の敵ではなく、瞬く間に劣勢に追いやられた。蹴散らされ、逃げ出す羽目になる。
あの男はいつも余計なことをするとバルブラは顔を曇らせた。
といっても軍の綻びをそのまま放置しては一気に防衛線が崩壊しかねないし、エザウの部隊も今のバルブラにとっては失うべからざる貴重な戦力なのである。
バルブラは兵を発してエザウらの後退を支援する。これで少なくない兵の損耗を強いられることになった。
「御老体、助かりましたぞ!」
悪びれることのないエザウに多少はいらだったものの、今のバルブラにはエザウに構っている時間的余裕などない。
「いったん後方へ兵を下げ、部隊を整えよ。戦いは長くなる。休んでいる暇はないぞ」
「委細承知!」
バルブラはエザウ隊の抜けた穴を他の旅隊を動かして手早く埋めた。
「さて、これからが問題だ」
バルブラは腕を組むと、ますます層を厚くする眼前の軍を睨み付けた。
「カヒの軍が来ただって? しかも後方から!?」
ついに一番恐れていた事態が生じた。馬車を止めてバルブラの使い番に
「大菱に四つ菱はカヒ二十四翼にしか使えぬ旗、丸の内に二つ引は四天王の一人ダウニオス、
ヘシオネがそう断言する。
「敵は雲霞のごとく攻め寄せました。数と勢いで勝る敵の優勢は明らかです。バルブラ将軍は迎え撃つ気でおりますが、孤軍で支え切るのは難しいと思われます」
バルブラの使いは自隊が置かれている
「なんとかカヒの兵を振り切ることはできないかな?」
有斗はまず、いの一番にそれを訊ねた。カヒはこの一日を一舎以上遠方から来たのだ。おそらく無理をして距離を縮めたに違いない。疲労があるだろう。
バルブラ隊が振り切りさえすれば、そこで諦めてくれたりしないだろうか?
「敵は一面、真っ黒になって押し寄せてきております。騎兵も多く徒士の多い我が方では振り切るのは難事と思われます」
「それに街道は王師で埋まっているよ。バルブラ卿が振り切ったとしても、すぐにアクトール隊がそれに代わって襲われるだけだよ。根本的な解決にならないよ」
ヘシオネは空を見上げて、太陽の位置を測定した。まだ未刻(午後二時)をわずかに過ぎたと言うところであろう。
「陛下、日が落ちるまでまだ時間がありすぎます。このままでは最後尾から次々と襲われ、最後には全軍が崩壊します。迎撃の陣を敷いて、後備を迎え入れましょう」
「戦うってこと?」
「戦うか戦わないかはカヒ次第ですが、少なくともこのままでは後方から襲われた形になる我が軍が圧倒的に不利です。少なくとも後ろから一方的にやられるよりは、せめて前を向いて戦うという姿勢を見せないと。後方から襲われる恐怖に兵が耐え切れなくなります。放置しておいては五万の兵全てが戦意を無くし、遠征軍は戦う前に瓦解してしまいます」
有斗はようやく
「・・・どうやら他に選択の余地は無さそうだね」
「私は先に行くエテオクロス殿、プロイティデス殿、ヒュベル殿、ステロベ殿に直ぐに状況を説明し、さっそく本陣に来るように伝えたいと思います」
ヘシオネは次に打つ手を進言することで、一瞬忽然と我を失った有斗を現実世界に引き戻した。
「じゃあ私はベルビオとエレクトライに使者を出して本陣に来てもらう。その間はアクトール卿とバルブラ卿にしばらく殿を支えてもらわなければならないね」
アエネアスの言葉に有斗は大きく頷いて同意を表した。戦うかどうかは相手次第だが、もうカヒに後ろを向けて、このまま逃げることはできないことなのだ。
対策を打たなければならない、それも早急に。
だが有斗はどこをどうしたらいいのか正直考えがまとまらなかった。ここは歴戦の将軍たちから意見を聞きたいところだ。
「よろしく頼むよ」
その有斗の言葉より早く、二人はすぐさま馬に乗ると駆け出していった。
風に雲が流れていく。日差しは暖かいと言うよりは、少し暑い。
水筒の水で喉の渇きを癒す。喉の渇きは暑さのせいだったのか、それとも緊張のせいだったか。
やがて有斗の馬車の周囲に軍団長が続々と集まった。皆、深刻な事態に沈痛な面持ちだった。
「ヘシオネはこのままでは逃げ切れない。急ぎどこかに陣を敷いて、敵と対峙すべきだと言うんだが皆の意見は?」
互いの目を見合わせることしばし、やがてステロベが口を開いた。
「このままでは被害が増え続けます。被害が増えれば兵士の心理にも悪影響を与え、やがて我が軍は戦わずして崩壊するでしょう。それに対峙したとしても、我が軍が堅しと見れば、カトレウスも
ステロベの意見にエテオクロスも同意する。
「このまま逃走しても最後は大河の川岸に押し付けられます。船に乗るには時間がかかるでしょう。そこで戦いが起きることになります。背水の陣をそこで敷くよりは、選択肢のある今のうちに布陣し戦うほうがよいと臣も思います」
元々、将軍たちは戦わずに敵に後ろを見せて逃げることに反対していたのだ。瞬く間に主戦論で埋め尽くされた。考え無しに、この意見に乗っかるのは危険だ。有斗はそう思った。
だが、このままでは兵の士気が落ち、軍隊と言う体を為さなくなるとの意見には耳を傾けるだけのものがある。
そうなれば犠牲者は目も眩むほどの数字になるかもしれないし、有斗だって死ぬかもしれない。
有斗もしぶしぶながら同意せざるを得なかった。
「わかった。布陣して敵を待ちうけよう。だが忘れないで欲しい。なるべくなら戦いは避けたい。むやみに挑発に乗らないでほしい」
嬉しそうに何度も首を縦に振るベルビオを見て、有斗の不安は膨らむばかりだ。
「で、次はどこにどういう形で陣を敷くか、いいアイディアはないかな?」
将軍たちは有斗のその言葉に、眼前の地図の一点を指差した。
アクトールはバルブラから敵来襲の報を受け取ると、狼狽を浮かべる幕僚を叱咤し、陣を速やかに七段にわけ順次伏せさせる。
バルブラは歴戦の勇士であるが敵は大兵である。最後には支えきれずに隊を乱して退いてくるであろうバルブラ隊を収容し、逃げる獲物を狩ろうとする敵の勢いを止めるためだ。
バルブラ隊を収容したらしばらくして一の段を放棄し、二の段へと兵を退却させる。一段一段そうやって徐々に敵の勢いを殺していくのだ。最後の一段は丘のふもとに位置する。丘の上にも兵を伏せ、誘い込んだ敵兵を痛撃する。上手くすれば追いすがる敵兵を一瞬なりとも追い払えるかもしれない。そこで一旦距離を取れれば・・・という考えだった。
峠を越えれば下り坂になるが、そこから先は狭い山道だ。騎馬である敵は下り坂を利用して最後尾に襲い掛かり、王師は多数の死者を出すことだろうが、横に広がって前へ行くことはできない。そこを抜け出るまでは我々の後退速度と敵の前進速度はほぼ同じということになる。
つまり、我々が崩れたとしても、それがすぐさま全軍に波及することは無いということだ。
もう既に王にまで報告は行っているはずだ。だから山を降り終える頃には王から正式に命令が来るであろう。それに従えばよい。
それは味方が安全な距離まで離れるために、全滅するまでカヒを防ぎ戦い支えよという非情な命令であるかもしれない。
だがアクトールは知っている。軍とは大きな人間のようなものであるということを。人が死を防ぐためにしばしば身体の一部を切ることがあるように、軍も全滅を防ぐためにしばしば犠牲を強いることを。
ならばその命令は理不尽ではないのだ。
「中央は開けておけ。第五軍の連中が逃げ込めるようにな。同士討ちなどしてはしゃれにならぬからな」
乾いた笑い声が少しあがっただけだった。
怯えているのだ。無理も無い。アクトールの配下は元々が関西王師、関東の王師と違って戦闘経験も少なければ、着任したばかりのアクトールとの間に心の繋がりがあるわけでもない。
そのうえ敵は戦国最強と
だがこれは絶好の好機である。
さあ来い。アクトールは丘の上に登り、バルブラ隊が落ち延びてくるのを、敵兵が押し寄せてくるその瞬間をじっと待ちうけた。
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