第158話 撒餌(Ⅹ)
どこにいるか分からぬ敵に備えて、常に四方に偵騎を送らなければならなかった有斗と違い、ツァヴタット伯領という目的地に向かっていることを知っているカヒ側は、有斗が渡河したその瞬間から全ての行動を把握していた。
その中に王旗があったと報告を受けてカトレウスは色めきたつ。
即座に諸侯へ触れを回しつつ、カヒ自慢の二十四翼を可能な限り召集した。これでもしかしたら今回、全ての決着が付くかもしれないと感じたからだ。
両者とも大勢力である。普通に戦った場合、たやすく滅びたりはしない。幾たびもの野戦、一城を巡っての一進一退の攻防、朝廷とカヒの戦いは長く険しい戦いになるだろうと思われた。朝廷は内部にいる獅子身中の虫に気を配らねばならぬように、カヒにはオーギューガの動向を気にしなければならない。長く本拠地を空にして大軍を遠征させることはなかなか困難だ。
だが一度の会戦で全てを終わらすことが可能な条件がただ一つだけある。
そう、王を捕らえて殺せばいい。
神はいたのだとカトレウスは思った。これはその神が自分に与えた絶好の機会だ。これを逃せば自身が天下人になる機会は二度と巡ってこない。カトレウスは心の中でそう断言した。
その為には何はともあれ、王を河東から逃がさぬことだ。
王師は五万の大軍であるようだが、カトレウスはその数を恐れはしなかった。カヒとて名高い二十四翼、三万の直轄軍を持つ。しかもその過半は騎馬兵だ。諸侯の軍を集めれば十分に互するはずだ。
ならば双方の将を比較してみればどうだろう?
確かに王はここまで戦勝を重ねてきた歴戦の武人、不敗の名将に見える。
だがカトレウスは知っていた。それはダルタロス公と女軍師あっての戦歴であることを。だがその二人は今はもういない。
しかしたとえその二人がいたとしてもカトレウスは用心はするが、恐れはしなかっただろう。
伝え聞く王の戦いぶりを聞く限り、確かに常識を覆した、戦史に残る素晴らしい勝利が多い。それはカトレウスにとっても敬服に値するが、言い方を変えれば、あくまで
ほとんどの戦が勝つべくして勝った、ではなく一か八かの博打を打って良い結果を拾ったに過ぎない。ただ単についていただけと言い換えることができるのだ。
それは言い換えると、兵理を追求し絶対に勝てるという態勢を思いつかなかったということであるということだ、とカトレウスは受け取った。
ならば、命あらば地獄の業火をも辞さぬ常勝無敗の騎馬軍団を己の手足の如く進退させ、あらゆる可能性を考えて勝利を目指す、このカトレウスを上回ることなどありはしない。
それが証拠に王はツァヴタット伯の見え透いた罠に引っかかったではないか。
正直言えばあれは子供だましの策だった。
だが何度も何度も小うるさく言うツァヴタット伯に嫌気が差したところに、ガイネウスがあまりにも見え透いた罠であるが故、まさか親方様ほどの策士がこんな愚策を取るまいと思い、逆にひっかかるのではと言われたから実行したまで。
本当に出てくるとはこちらが驚くくらいの愚策。それに引っかかる程度の男でしかないのだ。
そう、テイレシア以外にこの世界に恐れるだけの武人などいるはずがない。あんな化け物が二人も三人もいてたまるか、というのが彼の本音だった。
「これは好機だ」
必ず王のその身を捕らえてやる、とカトレウスは意気込んで七郷盆地を後にした。
有斗がツァヴタット伯に危うく殺されかけた時、すでにカトレウスはツァヴタット伯領にあと二日というところまで接近していた。
「撤退を始めた?」
カトレウスは斥候のその報告に不機嫌そのものといった顔で応えた。
絶対君主の不興を招いたと斥候は伏せた顔を一切上げることができない。その姿を憮然とした態でカトレウスは見下ろす。
ここまで来て全てがふいになるのか・・・! 天下は一人の男の姿となって目前にいるというのに・・・!
カトレウスには目前まで両手を広げて歩いてきた幸運の女神が突然するりと軽やかに避け、彼の手をすり抜けていく姿が瞳の中に映るようだった。
恐縮し縮こまった斥候を本陣から追い払うと、カトレウスは急いで謀臣たちを集める。
「いい判断ですな」
将軍たちの第一声は敵を褒める言葉だった。
ツァヴタット伯の救助と言う当初の目的を無くした今、王が出兵したことに意味は無くなった。普通の将なら自身の面子を考えて、何か手土産をあげて帰りたい誘惑に囚われるところだ。
カヒと戦うなり、ツァヴタット伯を捕らえるなり、小さな小城一つ落とすなり、今度の出兵に意味はあった、と周囲に示そうとするはずだ。
それをあっさりと断ち切り、退こうとする決断力はたいしたものである。
「大河と言う障害物を越えて敵地で戦う愚を知っているということですな」
「ツァヴタット伯領で前後から挟み打つという我々の当初の目論みは崩れたことになります」
四天王のマイナロス、ニクティモ、ダウニオス、調略の名手サビニアス、鬼眼の軍師ガイネウス、どれもカトレウス自慢の
「まだ間に合う。捕らえられぬ距離ではない」
ひとり地図を睨んで彼我の距離を目算していた四天王の一人ニクティモが弾き出した計算はそれだった。ニクティモは河東の西部攻略に大いに活躍した武将である。河東西部のことであるなら二十年に渡る戦陣での生活で誰よりも詳しい。頭の中には丘の起伏から川の深さまで全てが叩き込まれていた。
「敵は五万の軍。撤収には時間がかかる。今日中に最後尾が退却できるかどうかでしょうな」
ガイネウスのその言葉は王は撤退を開始しただけで、完了したわけではないことを皆に思い出させた。
「それにツァヴタット伯が気を利かせて、襲い掛かるそぶりを見せれば多少撤収は遅れるでしょう」
もしそうなればこのままツァヴタット伯領内で敵を挟み撃ちにすることも可能だが・・・
それはないだろうな、とカトレウスは思った。ツァヴタット伯の先代はなかなかのやり手でカトレウスを大いに苦しめたが、当代は戦が上手い訳ではない。動員できる兵力もたかがしれている。せいぜいが今回のような小ずるい策を
敵との距離は一舎以上ある。だが畿内と河東の間には大河がある。渡るのは容易ではない。きっとそこで足が止まる。
急ぎ強行軍で西進すれば捕捉できるはず。うまくいけば東山道に敵が出る前にその出口を封鎖できるかもしれない。
「せっかくの撒餌にひっかかった大魚だ。ここで逃がしてなるものかよ」
カトレウスのその言葉に皆、一斉に頷いた。
それはそうであろう。この好機を逃せば、次はいつ巡ってくるかわからぬのである。
古今を見るに
それに勝ったからこそ天下を手中にしているといってもよい。ならばカトレウスが天下を取るために一度は博打を打たなければならないとしたらここだ、今ここでしかない。皆そう思った。
カトレウスが天下を手に入れれば、側近の彼らが手に入れられるものも、より多くなることだろう。
「軍を切り離してでも強行する。荷駄は後から進発させよ。兵は各自に二日分の糧食を持つように命じておけ」
二日あれば追いつくはず。というより強行軍で追いかけることを考えたら二日以内に敵の尻尾を捉えたい。
それ以上の強行軍では兵が戦場で使い物になるまい。
「サビニアス、客人を呼べ。少し無理をしてもらわねばならぬからな」
カトレウスの言葉にサビニアスは小さく頷いた。
この間も両者とも無駄にしていたわけではない。一舎の距離、偵騎を出せば相手の場所はわかるものの、それでも一舎、騎兵とはいえ行って帰ってくるまでに三刻は消費する。
どっちへ向かっただとか、どこで何刻休んだとかは地元民からの情報に頼ることが多い。
あまり知られていなかったことだが、この間、双方激しい諜報戦を繰り広げていた。
まずカヒは地元の利を生かして住人から常に正確な王師の位置情報を把握していた。
その上、各地の諸侯に参軍要請をする使者に、その城下でツァヴタット伯領へ救援へ向かうのが目的だ、と嘘の情報をわざと流していた。
そうすれば王師の行軍速度も緩むかもしれないし、目くらましにもなるかもしれない。
しかもそれを裏付けるように、わざと一部の部隊を切り離し南下させた。
結果論から言えば、王師はこれに引っかかった。偵騎は常にその部隊を追いかけてしまっていた。
とはいえ、王師も負けてはいない。
エテオクロスは王師はカヒと
流言を実行したのはエザウである。エザウは元商人らしく如才なく立ち回り、農民から流しの商人まで偽情報を広めて回った。珍しく役に立ったのである。
とはいえカトレウスがその噂を一笑に付した為、まったく効果は無かったのではあるが。
最後尾のバルブラ隊が撤収を開始したのは戌の刻(午後八時)、先頭が出てからなんと三刻後(六時間後)だった。
街道は幅二間(約三・六メートル)に満たないところもあり、縦列になって進まざるをえない以上、出発するだけで時間がかかったのだ。
とりあえずツァヴタット伯の領地から一定の距離離れるのが目的だ。
野営するにも直ぐそばに敵がいては不安でおちおち眠れない。闇夜にまぎれて行軍すれば、行方をくらます効果もあるだろう。
だが夜の行軍は速度が上がらないものである。目的地まで移動するのにすっかり朝日が昇るころまでかかってしまった。
ここで小休憩を取ることになる。馬も人も倒れるとすぐに眠った。
変事が起きたのは小休憩を順次終わらせて、先頭から出発し、夕暮れまで行軍を再開しようとした時だった。
出発の時刻になっても偵騎が帰ってこないのだ。ここまでなかったことである。
偵騎は敵に出会っても、交戦を考えずに帰還することだけを考える。そもそも敵兵の有無、軍の規模、進行方法さえ分かればいいから、矢頃まで近づくことすらそうそうない。さらには軽装ではあるがゆえに逃げ延びやすい。
それが帰ってこないということは、つまり・・・
「・・・嫌な予感がする」
バルブラは腕を組むと、偵騎を送った東方をじっと見つめていた。
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