第157話 撒餌(Ⅸ)

 その頃、有斗を逃がす為に盾となったベルビオらは苦境に陥っていた。

 ツァヴタット伯はしつこい。有斗を捕らえ、人質にする計画は破綻した。ならば王師の逆襲に備えるなり逃げるなりする必要があると思うのだが、まだ有斗の後拒こうきょを行うベルビオを兵を出してねちねちと攻撃していた。諦めが悪い男なのであろう。

 火炎にあぶられ、倒しても倒しても次々と敵が喰らいつき、脱出するタイミングを見つけられない。

 もはや退勢は覆い隠せなかった。

 倒れていく羽林の兵たち。生き残りの兵も傷は増えていくばかり。

 だがその中でもベルビオは勇を挫かず、孤軍ひとりで奮闘を続けていた。幾本もの矢が甲を貫き、敵のやいばが幾筋もきずを作っても、矛を叩き砕き、鎧を突き刺し、敵を壁に弾き飛ばした。その手に握られた剣は血で覆われ、もはや刃が用を成さず鉄の棒と化していたが、振るわれるたびに敵をぎ倒した。

 全滅しなかったのは、このベルビオの超人的な働きがあったからだ。まさに『不死身』のベルビオの面目躍如である。

「怯むな! 戦い続けろ! 宿営地は遠くない! あと少し持ちこたえれば後詰は来る!」

 ベルビオが叱咤激励する。そう、この変事は宿営地からも望めるはずだ。あそこには五万もの味方がいる。その一部でも駆けつければ今度は一転してツァヴタット伯が絶体絶命の淵に立たされることになるのだ。

 後拒に増援を行うなどありえぬこと。退却戦の殿は味方が安全な地に落ち延びるまで戦い支えることが任務である。彼らの横にも後ろにも兵がいてはならない。退く時は独力で退くのだ。だからこそ殿軍は後世に語り継がれる武功なのである。将軍たちはそう言って兵を出し渋るかもしれない。

 だけれども王だけはきっと助けるために兵を出すであろうと彼らは確信していた。

 どちらかというと優柔不断で、綺麗ごとばかり口にし、今回のような無意味な出兵を、いや無意味と言うよりは見え透いた罠に自ら嵌りに行くかのような出兵をしてしまう兵にとって世話の焼ける王であったが、だけど自分たちを見捨てるようなことだけはしない、そうも信じていた。

 南部から長い戦路を共に旅してきた彼らと王には目に見えぬ絆がある。アエティウスの死によってもそれは途切れなかった、いや、それが故にむしろ深まったと言っていい。義は君臣であっても、有斗と彼らは同じ痛みを共有した仲間でもあった。

 きっと彼らを救いに来てくれるはず、そう固く信じていた。


 突然、風を切り裂く音がする。

 戦い続けるベルビオの上を鳥の群れのように矢が唸りをあげて飛び越えていく。

 矢は正確さを欠いており、体に当たった矢の数は数えるほどだったが、ツァヴタット伯の兵に与えた動揺は小さなものではなかった。振り返ると第九軍団の軍旗が風にたなびいていた。待望の援軍である。

「ありがたい!」

 それはベルビオはじめ生き残った羽林の兵全員の素直な気持ちであっただろう。

 姿を現した兵は三十ほどの騎馬であったが、それだけで終わるはずは無い。続々と時が過ぎるごとに数を増やして駆けつけてくるに違いない。

 こうなると攻守はところを変える。

 将の止まれとの命令もむなしく、ツァヴタット伯の兵たちは我先に逃亡を始めた。

 逆襲に転じた王師だったが、火に阻まれる。消火に手間取り、兵の大半を逃がしてしまった。

 ある者は消火を待ち、ある者は塀を越え、またある者は大きく迂回して館に雪崩れ込むが、ツァヴタット伯はすでに脱出しもぬけの殻であった。

 ベルビオが几帳を蹴倒し苛立たしげに外を見ると、山上に登ろうとする人々の姿を発見した。どうやら今度は本当に山城に籠城するのであろう。

「逃がしたか」

 この卑劣な姦計を用いた元凶を逃がしたことがよほど悔しかったのか、ベルビオは忌々しげに呟いた。


「エレクトライは無事ベルビオたちを助け出せたようです」

「そっか」

 有斗は顔にこそ出さなかったが大いに安堵した。天下を平定するには犠牲はやむないとはいえ、できることなら少しでも犠牲をだしたくはない。顔と名前を知っている身近な人は特にそうだ。

 見も知らぬ一人の兵であっても寵臣であっても、同じ優しさで慈悲を施し、同じ冷酷さで切り捨てねばならないのが王だ。だからそれは王としてはしてはいけないことなんだろうとは理解しても、どうしてもそう思ってしまう。

「羽林の兵たちは奮戦したようです。死者は十五名、無傷のものはいないとか」

 報告するエテオクロスの言葉に、僕のせいだ、と有斗は唇を噛み締めた。

 これが罠である可能性はラヴィーニアをはじめ色々な人が指摘していた。いちおう朝廷の支配域と公式文章ではなっているものの、河東は租庸調ぜいきんも納めていないし、命令も聞かなければ、法令も遵守しない。つまり書類上はともかく、実際は独立している小国家群なのである。要請に応えて出兵するなど必要も無いことを有斗は知っていた。

 それを押し切って出兵を命じたのだ。信を持って世界を和するという綺麗ごとを並べて。

 十五名の羽林は出兵さえしなければ死なずにすんだのに。

 だが王は過ちを認めず・・・だ。僕が間違いを認めても、死んだ人は帰って来ない。それどころか天与の人と言うハッタリで世の中を治めている有斗から権威を奪い去り、王権を揺るがしかねない。だから過ちを反省し、次に生かすしかない。

 そうだよね、それでいいんだよね・・・アエティウス、アリアボネ・・・

 有斗は彼らがここにいてくれたら、なんと言ってくれるだろうか、と天を仰ぎ見た。


「陛下、救出は終わりました。次の手はいかがいたしましょうか?」

 本陣に集まった将軍が一斉に有斗を見る。

 一刻に一回出す偵騎はまだ帰ってきていない。軍を動かすか否かはそれから決めるべきだろう。

「ツァヴタット伯の身柄は押さえたかな?」

 そうしなければならない。死んだ羽林の兵たちのためという感情的な側面からだけでなく、この出兵に意味を持たせるために。目的がなくなった以上、撤退はやむを得ぬ仕儀だが、少なくとも何か手土産が欲しい。

「残念ながら未だ報告は・・・ひょっとしたら山城に逃れた可能性も」

 だとしたら厄介なことになる。圧倒的な戦力比ではあるが堅固な山城に篭るなら数か月持ちこたえる可能性だってある。

 城攻めの間にカヒの本隊が来てしまったら、否が応でも戦わなければならない。

 南部諸侯のみでの王都攻略、長征と立て続けに危ない橋を渡って成功を収めてきた有斗だが、それらはあくまで他に取れる良い手段がなく賭けに出ざるを得なかっただけで、アエティウス、アリアボネの補佐あって成功したに過ぎない。あくまで運がついていただけ、有斗の実力じゃない。

 カヒと正面きって戦うのはまだ避けるべきであろう。

「そうか・・・」

 城攻めを諦めて即時撤収すべきかと考える有斗に将軍たちは次々と具申する。

「相手は田舎の山城一つ、なに、一昼夜かかりますまい」

「ここで帰っては一体何のために河東まで来たのかわかりません。陛下が約したことは必ず実行する信義の人であると知らしめると同時に、卑怯者には厳罰を与える厳しい人物であると天下に示すべきです!」

 このまま手ぶらで帰っては王師の沽券こけんに関わる。我々の面子が立たない。そういった声なき声が聞こえた。

 それに化かし化かされあいの戦国とはいえ、ツァヴタット伯のここまでのやり口に我慢できないものを感じたのかもしれない。

 だが有斗は変に深入りして後戻りできない状況になることを恐れた。

 確かに彼らはツァヴタット伯の首を取ることができなくても、少なくとも戦いさえすれば、わざわざ河東まで騙されに来たなどと陰口を叩かれずに済む、面子が潰れずに済むのだから万々歳だろう。

 その後にカヒと戦うことになっても一向に構わないに違いない。それで負けても、いや討ち死にしたとしても武門の名誉が守られるのだからそれでいい、くらいに思っているに違いないのだ。

 だけど最後に責任を取らされるのは最高責任者の有斗なのである。負けたらおそらく・・・いや、きっと必ず処刑される。

 将軍たちの誇りとやらの引き換えに命を失うなんてまっぴらごめんだ。


 ツァヴタット伯をどうするかを巡ってその後も議論は続く。その堂々巡りに最終的に結論をつけたのは偵騎の報告だった。

「斥候が帰ってまいりました! 陛下、大変です! 東北に五里、カヒの大菱旗を見たとのこと!」

 場は一斉にどよめいた。

 その事態を全員予期はしてはいたが、やはり確かな報として自らの耳で聞くと動揺を隠せない。

「数は!?」

 有斗は何よりもそれが重要だとばかりに問うた。

「正確な数を把握するために一人残しているとのこと。詳しい数はその者が帰り次第ご報告できるかと。見た限りではおよそ二万は越えていると申しております!」

 二万と言う大きな数と距離のその近さに諸将は息を呑む。

「虎臥城を囲むように布陣していた諸侯軍の間違いではないのか?」

 確かにツァヴタット伯の計略にはまる格好になった有斗ではあったから、カヒの兵がこちらに向かってくることはわかりきったことではあった。

 だが来るのが早すぎる。まるでこの日の為に近くでカヒの軍を密かに伏せていたとしか考えられない早さだった。

 でも有斗がいつツァヴタット伯を助けに来るかまではカヒにはわからない、いやそもそも救援に来ない可能性だってあったのだ。それを考えたらカトレウスが全軍を集めて近くに兵を伏せさせていたと考えるのには無理がありすぎる。

 だからこそ来るのには後一週間はかかると見ていたのだ。

 だがこの短い日数・・・ひょっとしたら、と有斗には思い当たることがあった。

 大河の岸で船が集まるのを見張っていたのかもしれない。それならば馬を飛ばして七郷盆地に知らせ、それから兵を起こして急ぎ西行したと考えれば計算は合う。

 とはいえ、それにしても近い。ゆっくりと考えている時間はないと言うことだ。

「敵との距離は一舎と少しだ。急いで決めなければならない」

 有斗がそう言うと、エテオクロスがまず有斗に意見を求めた。

「陛下のお考えはいかに?」

「撤退する」

 有斗の腹は既に決まっていた。

 カヒの軍とアメイジアの覇権を争うために一戦しにきたのではないのだ。

 もしここで河東遠征軍を失うことになれば・・・それで有斗の夢は終わる。もはや天下一統など言っている場合ではない。だがその悲劇を回避する方法がひとつある。何も無かったかのように全軍を無事に畿内へ退却させればいいのだ。

 カヒの計略にかかって、マヌケにも河東に引きずり出された愚鈍な王という汚名をこうむるが、兵を失うよりはマシだ。

 きっとラヴィーニアあたりに軍費を浪費したと嫌味をたっぷり言われるかもしれないけれども。

「陛下、我々は五万もの大軍なのです! 一戦しましょう!」

 アクトールやザラルセンをはじめ大方の将軍は主戦論のようだった。

 ここまで来て、敵を前にしてむざむざ帰るのは武人としての恥辱だ。だが陛下の考えも分からぬでもない、とエテオクロスは思った。

 詳しい地形も分からぬ敵地にて、士気の高い敵と戦うのはあまりにも危険すぎる。敵は二万と言うが、ツァヴタット伯の山城を囲んでいた一万の兵も合流するはずだ。近隣の諸侯だって指をくわえてはいないだろう。場合によっては数ですらこちらを上回るかもしれない。

「いや、例え対陣しても直ぐに戦になるとは限らない。双方にらみ合いで長期戦になる可能性がある。そうなれば迂闊に退却もできなくなるし、補給に支障をきたすであろうこちらが不利になる一方だ。ならば退却が容易な今のうちに兵を退くべきだ」

 考えを変えるよう諸将は有斗に詰め寄ったが、有斗は戦うことに首を縦に振らなかった。

 カヒとはいずれ戦わねばならない。だがそれは万全の体制を取っての決戦であるべきだ。

 五万の兵の命を預かる身としては、慎重にも慎重を重ねて兵を動かすべき。今はその時ではない。

 やがて有斗の決意がどうやら翻らないのを知って諸将は諦め、撤退の準備にかかる為に自陣へと戻っていった。

 本陣の陣幕も床几も机も、手早く解体され荷車に積み込まれる。

 使者を走らせ、急ぎ船を河東の岸に集めて撤退の準備をさせなければならないな、有斗はこの後の段取りを考える。

 先鋒はエテオクロス、彼なら道を間違えることも無い。敵の接近にも十分警戒するだろう。最後尾はバルブラかアクトールといったところか。もし追いつかれた時のことを考えると、カヒ相手に殿しんがりが勤まる胆の持ち主でなければならない。この二人以外にいないだろう。

 一番の心配は渡河の段取りである。だがそのことについては、それほど心配はしてなかった。

 修復の終えた堅田城に兵を籠めさえすればいいのだ。河東へ渡るのに使った船の一部はあそこに集めているし、あの城であればカヒの攻勢をものともしないはずである。

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