第156話 撒餌(Ⅷ)
とはいえ
彼らも敵が去ったと言う一安心からか、食事にでもかかろうとしているのだろう。軒にぶら下げてあった玉葱をもいでは、桶に入れる姿が見られた。子供たちも大人たちを手伝い、大きな南瓜みたいな実を運んでいる。小学生にも満たないあんな小さな子が、だ。
あの小ささでも働き手にしないと農民はやっていけないのであろう。
その姿は、普段王宮の奥底で書類の決裁をするだけで、この世界の厳しい現実を忘れがちだった有斗に大事なことを気付かせた。
南部へ逃れて行ったときの事を忘れてはならない。
街道と言う天下の往来でも傭兵か盗賊団か分からぬ怪しい風体の男たちが昼間から
そりゃ官吏から情報は得られるけど、あれは所詮、官吏という恵まれた生活をしている者の視点から見られた情報だから、民の声が全て反映されているかと言ったら、そうは言えないだろう。
官吏の言うことだけを吟味して政治を取ったら、実態とかけ離れたものになってしまう。
そうなってはいけない。それでは天与の人でなく、あの関西のお姫様、セルウィリアみたいな凡百の王になってしまう。
もっと普通の人々に密着した政治をしたいな、と有斗はふと思った。
暇ができたら、お忍びで出かけるべきかもしれない。そう水戸黄門とか暴れん坊将軍とかみたいに。
やがて、この田舎には不釣合いな立派な白塗りの塀が遠目に見えてくる。奥に見える館はさすがに
たしかに香ばしい臭いがここまで漂ってくるな、と有斗が思った瞬間だった。
「待って」
と、アエネアスが有斗の袖を掴む。
「気付いてますか?」
アエネアスは有斗の耳元で小ささ声で
取り様によってはどうとでも意味が取れる言葉だが、有斗はアエネアスが何を言いたいのか理解していた。さきほどの料理にかかろうとする民衆の行動で、周囲の風景で、そしてこの臭いで。
「・・・ごめん。気付いたのは今だよ」
「もう! 陛下ってば遅い!!」
アエネアスは苦笑するとベルビオに目線をくれる。ベルビオは無言で頷いて有斗の前に出た。
「どうかいたしましたか?」
立ち止まった有斗たちを、振り返ったウェスタが不思議そうに見ていた。
「質問があるんだけど、いい?」
アエネアスは手を腰に当てて溜息をつき、ウェスタに質問をぶつける。といっても正しい回答はすでにアエネアスの中にもあるのだが。
「はい、なんでしょう」
「私は土間の倉庫で暮らしたことがあるの。そこにはいつも大量の菜種油が積まれていた。だから菜種油の臭いってやつが大嫌いなのよ。で、どれだけの量、
「・・・気のせいではないでしょうか? 郷土料理にも使いますから、その匂いかと。ほら、皆一斉に調理しておりますし」
ウェスタは何かおかしなことがありますか、と小首を傾げるだけだった。
「じゃあ、次の質問。この小奇麗な町並みは何? 一万からの軍が侵攻したんだよね? 略奪や放火は戦の常、というかそれを目当てに戦に加わる不届き者もいるくらいなのに、ところがここは塀も垣根も民家もまったくの無傷、軒先に吊るされた作物さえ誰一人手を出さないなんてある? カヒの兵の悪評は南部にも聞こえてくるほどなのに、不思議なこともあるものね」
「敵兵が来る前に山城に篭ったのです。ですから村が荒らされなかっただけですよ」
そんな馬鹿なことがあってたまるかとばかりにアエネアスは鼻でその言葉を笑い飛ばす。
「それに王を出迎えに来たのは伯爵ではなく、たった一人の女ですって? 実に非礼なこととは思わない? 普通ならありえない」
「・・・」
「そもそも本当にあなた・・・ツァヴタット伯の姪なの?」
時間が凍りついたように止まった。
「正真正銘の姪でございます」
ウェスタはまだ笑みを崩さなかった。とはいえ
「ま、いっか。今問題なのはそんなことじゃない」
「何がおっしゃりたいんでしょうか?」
「一つだけ言っておくと私は鼻だけでなく耳も良い。どんなに足音を殺して近づいても、土を踏んだ音でバレバレだよ。この道の両脇の塀の向こうに兵を伏せさせているよね。先ほど金属製の鞘が鎧とこすれる音がしたよ?」と、顎で壁の向こうを指し示す。
「!」
猿芝居もそこまでだった。ウェスタはもはや笑顔で取り繕うともしなかった。アエネアスが半歩前に近づくと同時に、半歩右足を下げ身体を半身にし、逃げ出す体勢をとる。
「この向こうには兵がいて、油がたっぷりと撒かれた藁が積みあがっているんじゃないの? カヒと争っているのも擬態、我々に投降しようとしているのも擬態、全ては我々をおびき寄せて始末するためだったってわけね? 随分と手の込んだことをする。実に趣味が悪い」
アエネアスがそう皮肉を言った瞬間だった。
「お
一人の男が壁によじ登り大声をあげた。鎧を着込んで剣を手にした兵士だった。
「よくぞ見破った! だが遅い!」
ウェスタのその声を合図にして、呼子が鳴り響き、同時に道の両側から塀越しに一斉にわら束が投げ込まれた。もう一歩、いや半歩踏み出していたら、完全に囲まれていただろう。危ないところだったのだ。
ベルビオが手戟を抜いて逃げようとするウェスタに放つ。ウェスタは走りながら器用に身体を
思わず溜息が出るほどの見事な動きだった。たいしたものだ。アエネアスに匹敵する武術の達人かもしれない。
投げ入れられる
ツァヴタット伯の館がある道の奥から弓矢を持った兵がわらわらと集まるし、壁の向こうにいた兵が次々と壁の上に登って攻撃を加えてきた。
有斗の首根っこを凄い勢いで掴んだアエネアスは、
「ベルビオ! 後は頼んだ!」と叫ぶと、有斗を引きずって撤退を試みる。
「委細承知!」
ベルビオは勇躍して剣を抜き放つと有斗を背中に隠す。だが左右に敵を抱えて、奥には弓を持った敵兵だ。ベルビオとて苦戦はまぬがれないだろう。
「アエネアス・・・! ベルビオが・・・!」
有斗がアエネアスにベルビオがまだ一人残って戦おうとしていることを注意喚起した。
「心配しないで。あれでも兄様には負けるけど、ダルタロスに名高い一騎当千の男だもの。ちょっとやそっとでは死にはしないよ」
「でも・・・さすがに一人じゃ無理だよ」
そう話している間も敵兵は数を増すばかりだった。ベルビオ得意の戟は持ってきていない。剣だけでもさすがという活躍を見せてはいるが、ベルビオも少しやりにくそうだった。
その間もベルビオは有斗に襲い掛かろうと壁から飛び降りる者に、片っ端から剣を叩き付けていた。
羽林の兵も、とにかく有斗に敵を近づけまいと、剣を振って土塀の上に登った兵を向こう側へ追い払おうとする。
「一人だからこの場に残して置けるの! 横に陛下がいたら庇わなきゃいけないから、気になって満足に戦えないの。いいから陛下も走ってください! こういう時はベルビオは戦うのが仕事! 陛下は逃げるのがお仕事!」
「しかし・・・!」
「いいから走ってください! ベルビオを助けたければ、軍を率いて戻ってくればいいんです!」
その言葉にやっと納得した有斗はアエネアスの後ろに付いて走り始めた。
その後ろを守る形となった羽林とベルビオは飛んでくる矢を剣で払い斬って必死の防戦を続ける。もちろん払いきれない矢が突き刺さるが、多少の矢傷などベルビオは一顧だにしなかった。王が退いたのを確認し、じっくり後退を開始する。
このままではせっかくの獲物を逃してしまう、あせったツァヴタット伯の兵は火矢に切り替え、本来は王の退路を断つために使う予定だった、道に落とされた大量の藁束に火をつけようと試みた。
菜種油の染み込んだ藁は火矢が刺さると音を立てて燃え上がり、次々と横の藁束に燃え広がる。
羽林の兵に火が移り、火傷を負ったものが続出したものの、これが返ってベルビオらに幸いした。
菜種油の力で大きく炎が舞い上がり、炎と煙で弓兵から視界を
無事に逃げおおせた有斗の元には次々と兵が集まってきた。
「陛下!」
どうやら館の方から煙が上がるのを見て、これは尋常のことではないと、手に手に武器を持って急ぎ駆けつけたようだ。
鎧も着ていない兵もいる。とにかく一刻も早く向かわねば、と急いだのであろう。有斗はその気持ちが嬉しかった。
ほとんど第九軍の兵であった。さすがは『疾風』のエレクトライ。迅速に兵を動かす。
「ご無事ですか。よかった」
有斗とアエネアスのもとに、エレクトライが駆け寄ってきた。無事を確認すると安堵の溜息を洩らす。
「ベルビオと羽林数人がまだ残って
「わかりました。ここから先は私が承りますので、陛下は軍との合流をお急ぎください」
エレクトライの言葉に有斗は大きく頷いた。
そう、これがツァヴタット伯一人の描いた謀略でないとしたら、大変なことになる。急いで軍と合流し、いつでも命令を下せるようにしないといけないだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます