第137話 桜の下、佳人は逝く
春が来て、東京龍緑府の
街路越しの向かい屋で咲き乱れる桜の花びらが、風を入れるため窓を開けたアリアボネの部屋にまで舞い飛んでくる。
だが気温が上がり、すっかり春らしくなって暖かくなったにも関わらず、病状が改善することは無かった。
もはや起き上がって何かをすることも
是非とも書き上げらなければならないことがあった、それをすることがアリアボネにとって王への最後のご奉公となるだろう。
何度も咳き込んでは筆を滑らし書き損じる。
その度にテルプシコラに背中をさすってもらって息を落ちつかし、執筆を続けた。
アリアボネは血を吐きながら、なんども書き直しては破り、破っては再び文字を書く。
だが書きあがった上奏文は、一段落ついて読み直してみると、感情のまま書きなぐったのか、まるでアリアボネが悲劇のヒロインにでもなったかのような内容で、赤面すると破り捨て書き直す。すると今度は事務的な箇条書きで、まるで報告書のようになったり、有斗に対する感謝の言葉を入れ忘れたりするのだ。
それをテルプシコラに命じてアエネアス宅に届けさせる。
南部にいた頃、一度は回復したかに見えた労咳だったが、長い従軍生活で悪化の一途を辿っていた。
とはいえ、すでに回復は見込めないことを、アリアボネは征西時には、いや南部にいたころから気付いていた。まもなく訪れる死は、最初から避け難いものであったのだ。
若くして
天に
だがアリアボネは信じている。天という人界の上にあるものを。それが公平で正しいものであることを。
だってそうではないか、労咳で全てを失った失意の彼女が密やかに暮していた南部に、有斗が訪れるなど常識では考えられないことだ。そしてアリアボネみたいな地位も名誉も無い一私人を登用して、大業を為そうなどと思うこともありえないこと。
天が彼女を哀れんで、有斗という人の形をとって
だから同じく信じている。
例えアエティウスに続いて、自分もいなくなったとしても、有斗が必ずこの戦国の世を終わらせてくれるということを。アメイジアに平和をもたらすことを。
だから思い悩むことはもうそれほど無かった。
後は去るだけね、とアリアボネは思った。
そう、この世界からひとりの女が去るだけ。少しばかり早すぎるかもしれないが、この戦国の世では若くして亡くなることなどさほど珍しいことでもない。
アリアボネは病室に舞い込んだ桜の花びらをそっと摘んで持ち上げる。
彼女は桜が好きだった。長い
生まれたのも桜の咲く頃だった。初めて師について学んだのも春の頃だった。初めて恋をしたのも、こんな桜の咲く頃だった。そして若くして科挙に
あの頃が人生の春だった。
科挙に受かった喜びと、
そして・・・初めて
少し桜の季節は外れていたが、陛下と南部で初めて出会ったのも春だ。
・・・そして陛下に告白し、あのような素晴らしい言葉を頂いたのも今年の早春。
良い記憶も悪い記憶も全ては春と共に在る。
だから、桜の花が咲き散る、今この時に死ぬのは、まさに決められた運命だと思った。
思い出せば辛いこともいっぱいあったけれども、同じくらい楽しいこともあった。
生まれてきてよかった。
人の生も桜と同じ。一瞬の夢を求めて狂い咲く、そしていつか散る。
どんなに悲惨な境遇であっても、どんなに栄華を極めようとも最期は同じ結末をたどる。
それは天が人間に与えたもうた最初の、そして最後のたった一つの優しい慈悲なのかもしれない。
・・・ならば、いずれ散る花なら見事に咲き誇り、見事に散っていきたい。そう、桜のように。
そういう意味ではアリアボネの一生は見事に咲き終えたと言えるだろう。
数に劣る南部諸侯で王師を破り、関西という大国を思いもよらぬ方法で下し、戦国と言う非情な時代を終わらそうとする偉大な人の一助となることができたのだから。
再び風と共に桜の花びらが、アリアボネが体を横たえる寝台にまで吹き荒れる。
好きな桜が咲き乱れる春の中で死んでいける自分は幸せ者だな・・・とアリアボネは
桜の木の下には死体が埋まっていると人は言う。
あまりにも妖しく美しい花が詩人にそう思わせてしまったのだろう。美しいものを咲かすからには、それだけ何か代償が必要なのではないか、と。
だとしたら・・・
・・・永久に続くような平安の夢だといいな、とアリアボネは閉じたまぶたの中で夢見る。
この世に永遠など無いことを知ってはいても、それを願わずにはいられない。
でも、信じている。
有斗なら、きっと、彼女の死を
待っています、陛下。
・・・いつか天寿を全うした陛下が、大業を為したと、望みを叶えたと、私に笑って報告してくれることを、首を長くして彼岸にて待っております・・・
「アリアボネさま。帰りましたよ~」
ててて、と小さな足音がアリアボネの寝室に近づいてくる。
アエネアス宅にお使いに行ったテレプシコラが帰ってきたのだ。
返事が無いのでそっと部屋を覗き込む。開かれた窓から散った桜の花びらが舞い込み、差し込む日差しと共にアリアボネを幻想的に照らしていた。
まるで桜の花の中で桜の精霊が眠っているように見えたものです、と後年アリアボネの最期を聞かれたテルプシコラは答えるのが常だった。
「アリアボネ様!」
三度呼んでみたが、彼女のご主人様からは返事は無かった。
「今日は調子悪いのかなぁ~」
相手をしてくれないことに、つまらなそうに唇を
まだまだ遊び盛りの小さなテレプシコラには、何もせずじっと一箇所で留まることなどできない相談だった。
庭の隅に生えてきた
テレプシコラはまだ幼かった。
幼かったから、アリアボネの唇に舞い降り、張り付いた花弁がまったく揺れていなかったことに気がつかなかった。
春、桜舞い散る中、佳人は逝く。
アリアボネはもはや星霜を数え得ぬ世界へと、永遠の春へと旅立っていた。
「はい。これ」
有斗は朝起きて寝室から出ると、突然アエネアスから折りたたまれた紙を渡された。
いや、中身より何より問題なのは・・・
「僕が筆文字を読めないって知ってるよね?」
有斗は露骨に顔を
「大丈夫。全部楷書だから。読めると思うわ」
楷書は草書と違い印刷文字に近いから有斗にも読むことかできる。
「・・・もし読めないなら手伝うけど、たぶん大丈夫」
なにげなく開いた紙からはいい匂いがした。美しい筆の運び。柔らかなその文字はアリアボネのものだった。
「・・・あっ、これはアリアボネからだね」
伸びやかで柔らかく細いその特徴ある文字はアリアボネの手跡だった。
「いちおう書体で誰かは区別できるくらいにはなったんだね」
微笑むその
でも有斗はアリアボネが手紙を書いてくれたことが、そして手紙を書けるくらいに回復したと勘違いをしていて、嬉しさのあまりその時は気付かずにいた。
その文は有斗にもわかりやすいよう箇条書きにして平易な文章で書かれていた。
まず、自分のような労咳持ちに病気がうつることも
自分の策を取り上げ評価してくれたことを。
軍師として腕を振るう場所を与えてくれたことを。
一人の女として遇してくれたことを。
その厚恩を返すことなく天下平定の
そして・・・そして、この文が有斗の手に渡るころには既に他界し、埋葬もすませた後であろうことが書かれていた。
”他界している”
・・・すでに、死んで、いる・・・?
「そんな・・・」
有斗は頭の中がぐるりと半回転するのを感じた。前方に軽く傾くと、慌てて机に手を突いて平衡感覚を失いかけた体を支えた。
呼吸はいつもと変わらずできているのに、胸の奥が締め付けられるかのように痛んだ。
思い通りに動こうとしない口を気力でなんとか動かし、声を出すことに成功すると、有斗はアエネアスに詰め寄った。
「どうして言ってくれなかったんだ! 臨終に間に合わなくても、死に顔を見とることくらいは!」
「しょうがないでしょ!」
アエネアスの目からみるみる涙が溢れ出し、そして
「彼女の遺言だったんだから! 彼女はねぇ! 陛下にだけは死に顔は見せたくないって言ったのよ!」
「・・・そんな、どうして・・・」
有斗はその一言に頭を木槌で思いっきり叩かれたような衝撃を受けた。
「わからない?」
「わからないよ!」
わかるわけがない。あんなに有斗のために尽くしてくれたのに、
有斗は葬式にすら出ていない。しかもそれが彼女の意思だなんて。
有斗は彼女とわかりあえていると思ったのに・・・!
彼女も有斗のことを理解してくれていると思っていたのに・・・!
こんなのってあんまりだ。
「それにあれほど僕を支えてくれたんだよ? だのに重篤になったのに見舞いに行かないどころか、葬式にも行ってないなんて!」
「業病に苦しみ、やつれ死んだ貌を見せたくなかったのよ! あの娘は有斗の思い出の中でずっと綺麗でいたかったんだよ!」
アエネアスはそこまでは一気に言うことができたが、そこからは感情が先走って唇を上手く動かすことができなかった。
涙がアエネアスの頬を濡らしていた。
一旦、口を結んで両手で顔を覆うと、さめざめと泣く。
やがて、もう一度顔を上げて、なんとか声を搾り出そうとした。
「綺麗なままの姿で残っていたかったんだよ・・・」
有斗は絶句した。
「でも・・・」
そんな有斗にアエネアスは涙を浮かべつつ悲しく笑う。
「女はね、特別な人の中では永遠に美しくありたいんだよ・・・・・・だから、わかってあげて。ずっと美しいアリアボネを記憶してあげていてね」
その日の有斗は臣下からの奏上も上の空、単純なミスを相次いで犯した。
呆れ顔の尚書省の役人たちにアリスディアは陛下は機嫌が優れぬなどともっともらしい理屈をつけて追い払い、有斗を政務室から閉め出した。
自室に戻るとなんどもなんどもアリアボネの手紙を読み直す。
手紙は彼女の誠意そのものと言ってよかった。
アリアボネは有斗に何度も何度も謝っていた。
でも謝らなければいけないのは、感謝を言わなければならないのは有斗のほうだ。
彼女は体に悪いことを承知で、有斗をサポートするために征西に同行してくれた。
あの長征が彼女の体に負担をかけたのは間違いない。
もし有斗が立派な王だったら、彼女も無理を押してまで同行しなかっただろう。
きっと・・・こんなに早く逝くこともなかったに違いない。
結果として彼女の寿命を縮めたのは有斗だ。
だから彼女の誠心あふれるこの手紙に書かれていることは、一言半句たりとも受け止めなければいけない。
だけど・・・
最後に追記のように書かれていたことは受け入れられなかった。
でも・・・彼女は有斗が嫌がることは承知の上でその一文を書いたに違いないのだ。
それでも有斗のためになると信じて書き加えたのだ。
有斗は迷う。
彼女には返せぬ厚恩がある。望む褒美を聞いた有斗に、天下平定の暁に自分のことを思い出してくれるだけで良いと言った無欲な人だ。その彼女が望むことなら叶えてやりたいとは思う。
でも、これだけは叶えられないという感情的な思いがそれと交差する。
そこにはラヴィーニアを是非、自分の後事を託す人物として推していた。
セルノアの命を奪ったあの反乱の首謀者を。
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