第119話 紅の虹彩(クレナイノコウサイ)

 刺客の短剣は運が悪いことに動脈を切断していた。さらにアエティウスが刺客を斬り倒したことで、短剣が傷口から抜け出てしまった。

 たちまち血が奔流ほんりゅうとなって暴れだす。

「若! 気を確かに!」

 プロイティデスは自分の袖を破り、包帯代わりに傷口に押し当てた。

「早く医者を!」

 叫ぶようなプロイティデスの声に我に返った羽林の兵が急いで侍医を探しに向かう。

 有斗はそばに駆け寄り、アエティウスの頭をそっと抱えあげた。

「アエティウス・・・」

 広がる血溜りの中、有斗は倒れたアエティウスの側にひざまずいた。

 プロイティデスが必死に止血をしようとしているが、溢れ出る血が手を滑らせて一向にはかどらない。

 人間の中にこれだけの血が存在しているのか・・・?

 いや、これだけの血が出て、はたして人間は助かるのか・・・?


「陛下・・・」

 アエティウスがわずかにまぶたを震わせ、か細い声を上げた。

「アエティウス・・・今、プロイティデスが手当てしている。医者も呼びに行かせた。大丈夫だ。しっかりするんだ」

 アエティウスは痛む腹部に手を軽く当てる。その手いっぱいに生暖かいぬめっとした液体が付いたことに驚いて、目の前に震える手を持ってくる。その手は真っ赤に鮮血で彩られていた。

 痛みで体をふるわせつつ、笑みを作った。

「陛下、どうやらダメなようです」

「馬鹿なことを言うなよ、君がいたから今の僕がある。君を失ったらどうすればいい・・・?」

「アリアボネがいます。外交や政略は彼女を頼りに・・・戦争というならプロイティデスやベルビオをはじめ優秀な将軍たちもおります」

「だめだ、君がいないとダメなんだ! 南部からやっとここまで来たんだ! 一緒に天下一統をするんじゃなかったのか? しっかりするんだよ!」

「・・・陛下、ダルタロス家をよろしくお頼みします。次の当主は私のはとこにあたりますが、わずか十二歳と幼少・・・何かと差し障りはあると思いますが、陛下のご愛顧をいただければ幸いと存ず・・・」

 アエティウスは既に全てを諦めたのか、残された時間を当主としての責務を最後まで全うすることに使おうとしていた。

「だめだ。君は幼くして家督を継ぎ、苦労をしたと言ったじゃないか! その子に昔の君と同じ苦労を背負わせるのか? まだあきらめちゃダメだ!」

 有斗は必死に少しでもアエティウスの心が現世に踏みとどまるような、勇気が少しでも出るであろう言葉を捜した。

「それに・・・そうだよ、君が死んだらアエネアスはどうするんだよ。王都に帰ろう。ね、そうだよ王都ではアエネアスが待っている」

 その言葉に、すでに真っ黒になって光を感じなくなっていたはずのアエティウスの両目に、澄んだ茜色のアエネアスの虹彩こうさいがまばゆく映りこんだ。

 そうだ、あの目だ・・・思い出した・・・


 いまからもう十年も昔のことだ。当時アエティウスは、ある疑念を抱いていた。

 三年前、父が死んだ。そして叔父も死んだ。

 自分はまだ幼い、だから自分に代わって南部の雄たるダルタロス家を戦国の世で保つには大人の保護者が必要だ。それは道理だ。だから父亡き後、叔父が私の代わりに当主の代理を務め、そして叔父亡き後は遠縁のエンケラドゥスがその役目を引き継ぐのは当然のことではある。

 だが・・・生まれつき病弱だった父の死はまだいいとしても、子供を身ごもっていた我が母の急死や、使用人に斬りつけられ殺されたという叔父の死はどうだ・・・?

 叔父は使用人にも優しかった。切りつけられるほどの恨みを買うなどありえないことだ。

 特に叔父に斬りつけたという使用人を、エンケラドゥスが捕まえもせず自ら斬り殺したということが、喉にささった魚の小骨のように気にかかっていた。

 しかもエンケラドゥスは日に日に増長し、ダルタロス家の主のように振舞い始めていた。言葉こそ丁寧だが、自分に対する視線は明らかに軽蔑の度合いが増えていた。

 また、旧来の使用人たちの半数を自分の家の使用人と入れ替えたのも、考えれば考えるほど怪しかった。

 そもそもたびたび宴会や猟を催し、ダルタロスの将軍を歓待しているのは何故か? いつか自分を殺し、ダルタロス家を乗っ取る時に備えてぬかりなく布石を打っているのだ。


 あれはそんな時だった。

 エンケラドゥスと共に領内の巡検を終えて、厩番に馬を渡して城に入ろうとしていると、中庭で使用人たちが騒ぎを起こしていた。

 それは家宰の裁断で治めさせるべき懸案で、当主の関わる必要のないことであるが、その時の私には一つの考えが浮かんだ。これは利用できる、と。

 新しく来たエンケラドゥス縁故の使用人も主人に似たのか、私を軽んじることはなはだしく、不快に思っていたのだ。それに毒されたのか古くからの使用人たちもエンケラドゥスに媚を売りはじめていた。使用人全てをヤツに抱きこまれたならば、その時こそ私の最期だろう。ここらで釘を刺しておかねば、将来に不吉な影を落とすことは必定だった。

 そもそも中庭で騒ぎを起こすなど監督不行き届きもいいところだ。

 当主が誰であるか、この家で権を持つものは誰か、皆に思い知らせるのだ。


「待て」

 何かを取り囲んで一斉に罵っている人群に私は声をかけた。

 棒を振り回している者たちもいる。何をしている・・・?

「何をしているか騒々しい」

 周囲を囲んでいた使用人たちは私を見るなり、一斉に平伏した。

 いちおう私のことを当主とまだ認めてはいるようだ。もっとも私の横にいるエンケラドゥスに平伏したのかもしれないが。

 そこにいたのは小汚い子供、下働きであろう。何かヘマをして怒られているのではあろうが、棒叩きまですることはない。

「小さい子供ではないか許してやれ」

 私が声をかけると、その小さな影は救いを求めてそっと顔を上げた。

 目に映りこんだのは、涙にぬれて光る淡い紅い虹彩。見覚えがあった。

 そうだ・・・この瞳は・・・

 娼婦が連れてきたとかいう叔父の子供・・・

 叔父の部屋でいくたびか見かけたことはあったが、話しかけても叔父の背に隠れて、はにかんでこちらを見上げるばかりだった。

「君は確か叔父上のところの・・・最近見かけないから母君のところにでも行ったとばかり思っていたが」

 叔父の葬儀の後、見かけたことはなかった。

「何故? ここで?」

 アエティウスは振り返ると、後ろの家宰に問いただした。

「は・・・その・・・」

 人がよいだけで上り詰めただけ、とも評される小市民的な家宰、たぶんにエンケラドゥスからしたら扱いやすいと思われ任じられたであろう、その家宰はどう返答をすればいいか迷ったようで、エンケラドゥスをチラチラ見ながら語尾を濁した。

「そやつは娼婦の子だ」

 エンケラドゥスは一切感情を見せず、それが当然のことのように冷たく言いはなった。

「ダルタロスの血が流れているのも怪しいものだぞ」

 そうか、これはエンケラドゥスも知ってのことか。

 ならば、と思う。ますます都合がいい。これはエンケラドゥス排斥の口実の一つとして後に使える。

 エンケラドゥスは尊大な口調で言葉を続ける。

「おいてもらえるだけありがたいと思え。さ、参りますぞ、若」

 エンケラドゥスが左手を掴み、有無を言わせぬ強い力で私を引っ張って行こうとする。それを見てこの少女は泣き出しそうな顔を見せた。

「・・・うっ」

「・・・この子は私が預かる」

「しかし・・・どこの馬の骨ともわからぬやつですぞ、それは」

 エンケラドゥスは不快な顔で拒絶を示した。

 それは目の前の少女にというよりは、むしろ私に向けられているようだった。

 エンケラドゥスは私より二周りは上で、腕力でも頭脳でも敵わないかもしれない。だがここで怯むわけには行かなかった。ここで怯んでは、いずれダルタロス家は乗っ取られ、私も若くして父に続き、墓の下で眠ることになるだろう。

 震えそうな手を強く握り締めて、精一杯の勇気を振り絞って睨みつけた。

「叔父上は父亡き後、幼少の私に代わって、ダルタロス家を支え続けた。その亡き叔父上が認めたのだ。きちんと処遇せねば黄泉の叔父上も悲しむだろう」

「しかし・・・!」

 左手を掴むエンケラドゥスの手は強い力がこもっていた、が私はそれを跳ね除け、その高慢な顔をにらみつけた。そう、これは宣戦布告も同様なのだ。

「当主は私だ。私の命令が聞けないというのか?」

 家宰をはじめ使用人たちは一斉に跪く。

 それを見てエンケラドゥスは苦りきった顔をしたものの、分が悪いと思ったのかそれ以上言うことはなかった。

 だが頭も下げることもなかった。


 私はアエネアスを救いたかったわけではない。ただ自分を守るために利用しただけだった。

 だが、その日よりアエネアスの私を見る目に、尊敬と信頼と愛情と感謝のない混ざったものが込められていることに気がついた。

 少しこそばゆい感覚を覚えたが、そう思いたいのなら思わせておけばよい、そのうち役にたつこともあろうと思った。

 実際、彼女はすぐに役に立つことになる。

 私はアエネアスを手元に置き、いつも傍らにいさせた。

 彼女は使用人として暮らした生活で、酷い目にでもあったのか、とにかく耳が聡くなっていた。屋敷にいる者なら足音で誰かわかるようで、不意に隣の部屋に逃げ込んだかと思うと、しばらくすればエンケラドゥスが訪ねてくる、ということがあった。これなら不意討ちがあったとしても少しなりとも防ぐことが出来る。

 また日々の食事も共にした。にこやかに話しかけて表面を取り繕いつつ、内実はアエネアスを見ていた。アエネアスが口にしたものから口に入れるために、だ。彼女を毒見役に使ったのだ。

 剣術も教えた。飲み込みが速く、素養があったのかすぐに上達した。

 これで万が一、刺客に襲われても彼女の命を身代わりにすれば、私が逃げる時間を作り出してくれるだろう。実にありがたいことだ。


 やがて私が十七になった時だ。

 私は気付いた。彼女が、アエネアスの中には美しい何かがあることに。

 そのころの私はエンケラドゥスとの権力争いに勝ち、名実共にダルタロスの長となっていた。

 若くして財も権も手に入れ、向かうところ敵無し、といった感だった。

 性についても放埓ほうらつだった。美しい娘と見れば声をかけた。なんといっても南部きっての大豪族ダルタロスの主だ。モノウ、南京南海府の両街を抱え、関東の朝廷よりも富力があると言われていた。落ちない娘などいなかった。

 その私がアエネアスに美を見たのだ。手に入れようとしないはずはない。

 それに私にはその権利があると思った。

 彼女を惨めな境遇から拾い上げ、今の厚遇にしたのは私だ。もし私があの時立ち止まらなかったら、声をかけなかったら、救おうとしなかったら、彼女はあの惨めな生活で一生を終えたのだ。

 だから私が可憐に咲いた花を手折ったとしても、いったい誰が責めるというのだ・・・?


「兄様、起きてください。もう昼ですよ。また外で飲んでいらしたのですね。夜遊びもほどほどにいたさぬと下の者に示しもつきませぬよ」

 布団を無理やり私から引き剥がし手早くたたむ。

 アエネアスの後姿は幼さを残しながらも既に女の色香を漂わせていた。私はその手を掴んでベッドに引き倒した。アエネアスの顔は驚きと狼狽を浮かべていた。

「に、兄様、何を!?」

「・・・欲しいんだ。いいだろ?」

 答えを聞く前に、服に手をかけていた。

「それとも、私が嫌いか?」

 アエネアスは真っ赤になった顔を横に振った。

 アエネアスはかすかに震えていた。

 だけどそれがなんだというのだ。貴族だろうが街娘だろうが奴隷だろうが服を脱いでしまえば皆同じさ。はじめこそ怖がるがじきに慣れる。

「兄様のお心のままに。兄様のためなら私はなんでもいたします」

 その言葉にアエネアスの瞳を覗き込んでしまった。瞳の中の紅い虹彩を見てしまった。

 それはどこまでも澄み切って深い、とても深い紅い泉。

 その目は真っ直ぐ私を見つめ、瞳には私だけを浮かべていた。

 まっすぐ私だけを。

 だが、そこに映った私の姿は、私であって私でなかった。

 そう瞳には確かに私の姿が映っている。優しく慈悲ある君主、アエネアスの恩人、そして兄のように慕う存在・・・という外面をつくろった私の見せかけの姿が。

 いや違う。彼女の中ではそれこそが本物の私なのだ。

 アエネアスを盾代わりにし、エンケラドゥスを陰謀で殺した、全てを利用し、全てを疑い、権と財を手に入れ、己のおもうがままに暮らす男。自己正当化と自己の利益のためならなんでもする男。それこそが私の本当の姿なのに。

 だけど彼女は私をそうは見ていない。

 瞳に映ったのは、彼女だけが信じる私だった。


 ・・・そうか

 彼女の中に見た美しさとはきっとそれなのだ。

 彼女の心にある私の理想像、それこそが彼女の目をあそこまできらめかすのだ。

 彼女が持つ美しさを手に入れようと欲すれば・・・今の私が、本当の私がアエネアスを汚してしまったら、きっとそれはアエネアスの中から永遠に失われてしまうだろう。喪失の恐怖が腹の底からふつふつと沸きだして、おののいた私はゆっくりと手を彼女の胸元から離した。

 そして表情をアエネアスに見られぬように、額を右手で覆い隠すとベッドに倒れこんだ。

「すまぬな。からかっただけだ」

 アエネアスは急いで胸元を整える。

「そ、そうですよね。兄様が私ごときに・・・おかしいと思った」

 その声は残念そうでもあり、少しほっとしたようでもあった。


 ・・・そう、その時からだった。

 私はアエネアスの瞳に映された理想の私に近づくように心がけた。

 きっとそうすればこのアエネアスの中にある美しいものを失うことなく手にいれられると信じて。

 それは思ったより心躍る生き方だった。

 だってそうだろう? 殺されぬようにアエネアスに毒見をさせ、生き延びるためだけにエンケラドゥスを殺したのだ。私の中にある世界は曇っていた。いや、腐っていたのだ。

 戦乱の世ではそれが当たり前だって?

 そのとおりだ。

 だが同時にこんな汚い世界は間違っていると思う心がないわけではないのだ。

 誰だってそうだ。できうれば悪事を働くことなく清く生きたいと願うはずだ。だからこそ、アエネアスの瞳に映った姿のように、尊敬でき信頼できるような男を演じるのは慮外りょがいに楽しかった。


 ああ・・・そうだ・・・あの紅い虹彩をもう二度と見ることはできないんだな・・・

 私はアエネアスの中にある美しいものを結局手に入れられなかった・・・

 でもよかった。あの美しさを失うこともなかったのだから。

「君が死んだらアエネアスは悲しむよ? だから帰ろう、王都に」

「・・・」

 アエティウスはゆっくり頭を横に振った。

 そして有斗の胸を右拳で軽く叩いた。

「陛下がいるから・・・大丈夫ですよ・・・」


 そう、大丈夫。この男になら・・・・・・きっと。


 アエティウスの思考はおぼろげになっていった。

 もう言うべきことは言った。

 だが、何かが彼の魂を現世に留めさせた。

 やがてもう一度あの淡い虹彩が網膜に浮かび上がる。その虹彩の持ち主は、今のアエネアスでは無く、十才のころの小さなアエネアスだった。

「アエネアス、私はお前に・・・」

 アエティウスの口はかすかに動いたものの、その言葉はもう彼以外の誰にも聞こえることはなかった。

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